ダイガクコトハジメ - 大学年表 - 1870年代
大学年表
1870年代
1870(明治3)年7月12日/8月8日 - 1871(明治4)年
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「大学」内部における洋学派と国学・漢学派の対立が激化。政府は「昌平学校/大学本校」を中枢機関とする案を早々に断念。当分休校となり、そのまま廃校となった。これにより、「昌平坂学問所(昌平黌)」は林羅山の私塾以来240年、学問所となって以来75年の歴史に幕を閉じた。
1870(明治3)年7月25日/8月21日
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「大学校代」、明治新政府より、不振を理由に廃止、京都府に移管する命令が下る。「府校(現在の(京都府中学校)」に。
1870(明治3)年8月
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目賀田種太郎(16-17歳)、「大学南校」第1回国費留学生に。アメリカ留学を願い出る。
1870(明治3)年10月20日/12月12日
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鉄道技師長エドモンド・モレル、伊藤博文に工部省設置を提案。その中で明治政府は、お雇い外国人技術者に頼るのではなく、日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張した。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。
1870(明治3)年10月20日/12月12日
1870(明治3)年11月
1870(明治3)年
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福澤諭吉(34-35歳)、新銭座の土地を近藤真琴に300円で譲渡。「攻玉社」移転。「慶應義塾」の移転先として、三田の旧島原藩中屋敷の土地払い下げを東京府に交渉。内大臣・岩倉具視の助力を得、実現。
1870(明治3)年
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小幡甚三郎(23-24歳)、文部省入省。『西洋学校軌範』を記す。1872(明治5)年の学制整備にあたり、この学校制度案が採用されることに。
1871(明治4)年5月11日/6月28日
1871(明治4)年7月14日/8月29日
廃藩置県、藩を廃止、地方統治を中央管下の府と県に一元化
1871(明治4)年7月18日/9月2日
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明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。
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「大学南校」、富国強兵・日本の近代化を目的に、優秀な人物として推薦を受けた貢進生を全国から集める。御雇い外国人から英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。貢進生の中から更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させた。
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「開成学校/大学南校」は「東京大学法学部・理学部・文学部」の、「医学校/大学東校」は「東京大学医学部」の直接の前身となった。「昌平学校/大学本校」は「東京大学」の源流の1つとして位置付けられるも、以後、間接的・限定的な影響力しか持ち得なかった。
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江藤新平(37歳)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である「学制」の基礎を固める。
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富国強兵・日本の近代化を目的に、優秀な人物として推薦を受けた貢進生を全国から集める。御雇い外国人から英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。貢進生の中から更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させた。
1871(明治4)年7月21日/9月5日
1871(明治4)年7月21日/9月5日
1871(明治4)年8月
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「東校」、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンが来任。外科学、内科学を講義。ミュルレルに日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月14日/9月29日
1871(明治4)年8月14日/9月29日
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「工学寮」は当初、海外留学制度、国内技能研修制度(修技校)、技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者を育成する部局であったが、最終的に「工学寮工学校」のみの管轄となる。
1871(明治4)年9月25日/11月7日
1871(明治4)年9月
1871(明治4)年10月
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田中不二麿(26歳)、文部大丞に。
1871(明治4)年11月
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種痘館を廃止。「東校」に種痘局を開設。
1871(明治4)年
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中村正直(38-39歳)、「天は自ら助くる者を助く」、明治維新後の文明開化の風潮の中、封建思想打破と共に近代的人間の確立を目的に『西国立志編』刊行。イギリスの著述家S.スマイルズ『自助論 Self-Help (1859)』翻訳書。その反響は大きく、福沢諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ二大啓蒙書に。総発行部数100万部以上とされ、明治期を通して広く読まれる。
1871(明治4)年
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福澤諭吉(35-36歳)、三田の地に「慶應義塾」移転。帳合之法など、講義を始める。
1871(明治4)年
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高島嘉右衛門(38-39歳)、スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授、語学中心の私塾「藍謝堂(高島学校)」を横浜伊勢山下と入船町に開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに「慶応義塾」の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎、濱尾新、日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
岩倉遣欧使節団、岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
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大久保利通(40-41歳)、大蔵卿に就任。「岩倉遣欧使節団」の副使として外遊。日本の政治体制のあるべき姿として、先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。外遊中に留守政府で問題になっていた、朝鮮出兵を巡る征韓論論争。西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
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伊藤博文(30-32歳)、岩倉遣欧使節団の副使に、渡米。サンフランシスコで「日の丸演説」、「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。
1871(明治4)年
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渡辺洪基(22-23歳)、「岩倉遣欧使節団」随行。
1871(明治4)年11月12日/12月23日 - 1873(明治6)年9月13日
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田中不二麿(26-28歳)、岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。
1871(明治4)年
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長與專齋(32-33歳)、岩倉使節団の一員として渡欧、ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察。
1871(明治4)年
1871(明治4)年
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日下義雄(18-19歳)、井上馨の知遇を得て、推挙により岩倉欧米使節団に同行。アメリカに留学。
1871(明治4)年
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玉木文之進(60-61歳)、再び「松下村塾」塾頭に。場所を自宅に移す。子弟の教育に努める。
1872(明治5)年2月
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福澤諭吉、「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」、『学問のすゝめ』初編刊行。1876(明治9)年11月25日にかけて順次刊行、17編出版をもって一応の完成をみる。初編のみ、小幡篤次郎共著。明治維新直後の日本人に対し、中世的な封建社会から近代民主主義国家への転換、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念など、平易な比喩を多用して説く。総発行部数300万部以上とされ、当時日本の人口が3,000万人程であったことから、全国民の10人に1人が手に取った計算に。
1872(昭和5)年3月-末
1872(明治5)年4月
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伴正順(28-29歳)、文部省七等出仕。「南校」副校長に。
1872(昭和5)年5月
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文部省、学制公布に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視。正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出。認可を受け、「師範学校」が東京府下に設立されることが決定。生徒募集が広く布達される。
1872(明治5)年6月
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大蔵省、「翻訳局」設立。外国書の翻訳や銀行要員養成のため、有給生徒を募集。小池清一(後に貴族院議員)、島田三郎、田口卯吉、高梨哲四郎(後に衆議院議員)、三輪信次郎(後に銀行学局教官)など錚々たる人々が入局。
1872(明治5)年8月2日/9月4日公布
学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
1872(明治5)年8月2日/9月4日
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「南校」、「学制」公布により、学制における「中学校」へと改変。「第一大学区第一番中学校」と改称。外国語による「普通科」の課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
1872(明治5)年8月
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「東校」、「学制」公布により、「第一大学区医学校」と改称。
1872(明治5)年8月
1872(明治5)年9月
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学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に、日本初の官立教員養成機関「師範学校」創立。湯島聖堂内に、「昌平坂学問所(昌平黌)」を一部引き継ぐ形で設立される。
1872(明治5)年10月8日
1872(明治5)年 - 1873(明治6)年
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「明法寮」、ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを教員に迎え、フランス語による本格的な法学教育を開始。
1872(明治5)年
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鶴田皓(35-36歳)、江藤新平の命により、司法省調査団として井上毅らと共に渡仏。ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの講義を受ける。
1872(明治5)年
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森有礼(24-25歳)、英語の日本語化を提唱(「国語外国語化論」)。イェール大学の言語学教授ウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛て、「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送る。ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語の廃止に反対。
1872(明治5)年
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柳田藤吉(33-34歳)、「北門義塾」閉学。学舎は、柳田藤吉の理念を継承した「東京専門学校」に受け継がれる。
1873(明治6)年3月
1873(明治6)年4月10日
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「第一大学区第一番中学校」、学制における「専門学校」へと改変。再び、「(第一大学区)開成学校」へ改称。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
1873(明治6)年5月
1873(明治6)年5月
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伴正順(29-30歳)、文部省六等出。「開成学校」校長に。
1873(明治6)年6月
1873(明治6)年6月
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「師範学校」は日本最初の小学教員養成機関として、将来全国に設立されるべき教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。
1873(明治6)年7月
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森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年
1873(明治6)年8月
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「開成学校」、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。
1873(明治6)年8月
1873(明治6)年8月
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6大学区での官立師範学校設立。東京の「師範学校」は、「東京師範学校」と改称。師範学校の名が、教員養成機関の総称に。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障された。優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。師範学校→「高等師範学校」→「文理科大学」というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→「帝国大学」というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
1873(明治6)年9月4日
1873(明治6)年10月24日-10月25日
明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
1873(明治6)年11月10日
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大久保利通(43歳)、ビスマルクの下、官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構として内務省を設立。初代内務卿(参議兼任)として実権を握る。学制や地租改正、徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、殖産興業政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、「有司専制」として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。
1873(明治6)年11月11日
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高島嘉右衛門(40-41歳)、「藍謝堂(高島学校)」を横浜市に寄付。
1873(明治6)年11月
1873(明治6)年11月4日
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官立外国語教育機関である「開成学校語学課程(英・独・仏の3科)」・「独逸学教場」・「外国語学所」を統合、「東京外国語学校」設立。翌1874年までに全国で8校の官立外国語学校が設立されたが、官立最初の語学学校となる。「語学校」とも呼ばれる。
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「東京外国語学校」、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置。後に英語科が分離、朝鮮語科が増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
1873(明治6)年11月
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伴正順(30-31歳)、 「東京外国語学校」初代校長に。
1873(明治6)年11月
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「工学寮工学校」、実践的技術者養成を目的に、スクール(小学校)とカレッジ(大学校)からなるはずであったが、イギリスから小学校教師団任用がうまくいかず。予備教育を含んだ6年制の大学校として、開校。
1873(明治6)年11月 - 1874(明治7)年3月13日
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文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレー、日本も欧米諸国に倣い、女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することを建言。文部少輔・田中不二麿も同調。翌1874(明治7年)年1月、三条実美太政大臣へ「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出。これが承認される。同年3月13日、木戸孝允文部卿により、お茶ノ水橋袂に「女子師範学校」を設置する旨、布達発令。
1873(明治6)年末
1873(明治6)年
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九鬼隆一(20-21歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省のこの方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、強い反発を受けたが、中江篤介の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができた。
1873(明治6)年
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荘田平五郎(25-26歳)、臼杵藩学取締に。「慶應義塾」にて藩主・稲葉久通を教授。
1873(明治6)年
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高島嘉右衛門(40-41歳)、「藍謝堂(高島学校)」設立の功により、明治天皇から三組の銀杯を下賜される。
1873(明治6)年
1874(明治7)年2月
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伴正順(30-31歳)、第三第四第五大学区督学事務取扱に。
1874(明治7)年3月
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高島嘉右衛門(41-42歳)、「藍謝堂(高島学校)」焼失。学生は、「慶応義塾」、「開成学校」へ転籍。
1874(明治7)年3月 - 1875(明治8)年
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森有礼(27-28歳)、「明六社」にてら機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たした。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散となる。後に、「明六社」は「明六会」となり、福澤諭吉を初代会長とする「東京学士会院」、「帝国学士院」を経て、「日本学士院」に至る。
1874(明治7)年4月
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大蔵省、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより紙幣寮銀行課の一部局として、「大蔵省銀行学局」設立。実質的に「翻訳局」を引き継ぐものとなる。日本で最初の商業教育機関と呼べる。銀行学局長に、日下義雄が就任。副長に、宇佐川秀次郎が就任。
1874(明治7)年4月10日
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板垣退助(36-37歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体「立志社」結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う「立志学舎」創立。教員に、「慶應義塾」を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。「慶應義塾」と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。
1874(明治7)年
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福澤諭吉(38-39歳)、明治六年政変で、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の「立志学舎」に「慶応義塾」門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援、国会開設運動の先頭に立ち、『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。
1874(明治7)年5月
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「(第一大学区)開成学校」、「東京開成学校」に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の「本科」に再編される。加えて、修業年限3年の「予科」が設けられる。
1874(明治7)年5月
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「第一大学区医学校」を「東京医学校」と改称。
1874(明治7)年6月 -
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福澤諭吉(37-歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を「慶應義塾」出版局より刊行。複式簿記を提唱。
1874(明治7)年7月
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「共立病院」、千葉町、寒川村、登戸村(現在の千葉市)有志および三井組の醸金により設立。
1874(明治7)年10月3日
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長與專齋(35-36歳)、文部省医務局長に就任。「東京医学校」校長を兼務。
1874(明治7)年
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三宅秀(27-28歳)、「東京医学校」校長心得に。
1874(明治7)年
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東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。
1874(明治7)年
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濱尾新(24-25歳)、帰国。「東京開成学校」校長心得に。
1874(明治7)年
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田中不二麿(28-29歳)、文部大輔に。
1874(明治7)年
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鶴田皓(37-38歳)、「明法寮」権頭に。
1874(明治7)年
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内務省、農業・牧畜について西洋式技術の導入を目的に、内務省勧業寮内藤新宿出張所に、「農事修学場」設置。あわせて、三田育種場を開設。
1874(明治7)年
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内務省、務省勧業寮内藤新宿出張所に「蚕業試験掛」設置。
1874(明治7)年
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福澤諭吉(38-39歳)、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった「慶應義塾」門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせた。
1875(明治8)年5月
1875(明治8)年
1875(明治8)年
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目賀田種太郎(21-22歳)、文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。
1875(明治8)年
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鳩山和夫(18-19歳)、第1回留学生に選ばれ、米国留学。「コロンビア大学」で法学士取得。「イェール大学」で法学博士号を取得。米国留学中、「専修学校」設置構想に加わる。相馬永胤・田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格らに準ずる存在であった。
1875(明治8)年
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古市公威(20-21歳)、諸芸学修行のため、文部省最初の留学生として、欧米諸国へ派遣。
1875(明治8)年
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渡米し法律を学ぶ相馬永胤、目賀田種太郎、江木高遠、鳩山和夫、清水篤守、神鞭知常、津田純一ら法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う「日本法律会社」結成。「専修学校」の土台に。
1875(明治8)年1月21日
1875(明治8)年5月
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司法省所管の法学校、「司法省法学校」設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。
1875(明治8)年5月
1875(明治8)年8月
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森有礼(27-28歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉の賛同を得て、東京銀座尾張町に私塾「商法講習所」開設。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎もこれに参加する。
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森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾「商法講習所」開設。
1875(明治8)年8月
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「東京師範学校」、中等教員養成のため、「中学師範学科」設置。
1875(明治8)年9月24日
1875(明治8)年11月
1875(明治8)年11月18日
1875(明治8)年11月29日
1875(明治8)年11月
1875(明治8)年7月 - 1876(明治9)年
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大蔵省、国立銀行などから自費通学生を募集することに。「銀行学局」の生徒の多くが紙幣寮に採用された為、「銀行学局」を閉鎖。銀行課内に翻訳掛を新たに設立、生徒の教育と翻訳が委嘱される。
1875(明治8)年
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岡倉天心(11-12歳)、「東京開成学校」入学。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことより、講師アーネスト・フェノロサの助手に。フェノロサの美術品収集を手伝う。
1875(明治8)年
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荘田平五郎(27-28歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが「慶應義塾」の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。
1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月
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伊沢修二(23-26歳)、文部省の「師範学校」教育調査のため、神津専三郎、高嶺秀夫と共にアメリカ留学。「マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校」で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。
1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月
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高嶺秀夫(20-23歳)、文部省の「師範学校」教育調査のため、伊沢修二、神津専三郎と共にアメリカ留学。「ニューヨーク州オスウィーゴー州立師範学校」で学ぶ。教師養成のための進歩的で革新的な学校としての名声は絶頂期にあり、オスウィーゴー校への留学は幸運であった。エドワード・シェルドン校長を通して、有名な教育者H.クリュージイ.Jr家に寄宿。ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自発性を重視する開発教育・教授法を、シェルドン校長を中心に「オスウィーゴー運動」として全米に広める。
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1876(明治9)年
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田中不二麿(30-31歳)、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。
1876(明治9)年2月
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福澤諭吉(41歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。
1876(明治9)年4月
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手島精一(26歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。
1876(明治9)年5月
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東京会議所の解散に伴い、「商法講習所」の管理が東京府に移管。木挽町に移転。
1876(明治9)年5月
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矢野二郎(31歳)、森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟、大久保一翁らの熱心な説得を受け、「商法講習所」所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、移管のたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼や渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者の手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。
1876(明治9)年6月
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正木退蔵(29歳)、「東京開成学校」のイギリス留学生監督として、穂積陳重、岡村輝彦、向坂兌、桜井錠二、杉浦重剛、関谷清景、増田礼作、谷口直貞、山口半六、沖野忠雄の10名を引率、アメリカ経由で再びロンドンに渡る。文部省に留学生の就学状況を報告。
1876(昭和9)年7月
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「司法省法学校」、第一期生20名、卒業。この時点では、法律学士の称号授与の権能を有していなかったため、称号授与は行われず。第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法など法典編纂に協力、民法典論争において断行派の中核に。
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「司法省法学校」、第一期生卒業を受け、第二期生入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)、定員100名に増員。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科はフランス語による法学教育が行われる。第一期・第二期卒業生の多くが、フランス法系私立法律学校の創立者や校長、講師となる。
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「司法省法学校」、フランス人御雇い外国人ジョルジュ・アッペールが法学教育を担当。また、裁判官の速成教育のため修業年限2年の「出仕生徒」の制度を新設。
1876(明治9)年9月3日
1876(明治9)年10月
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「共立病院」、「公立千葉病院」と改称。「公立千葉病院医学教場」を付設。
1876(明治9)年11月
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「東京医学校」、本郷に校舎病院の建築が完成、 移転。
1876(明治9)年
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池田謙斎(34-35歳)、帰国。陸軍軍医監、三等侍医、「東京医学校」校長に。
1876(明治9)年11月6日
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玉木文之進(66歳)、前原一誠による萩の乱に養子・玉木正誼ほか門弟の多くが参加。責任を取る形で先祖の墓の前で自害。享年、66歳。「松下村塾」は再度途絶。
1876(明治9)年11月16日 - 1878(明治11)年6月
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「東京女子師範学校」、附属幼稚園設立。1878(明治11)年6月、幼稚園・保姆練習科がそれぞれ設置され、幼児保育・教育およびそれらを担う保母の育成が開始。
1876(明治9)年
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日本最初の美術教育機関、「工部美術学校」設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。「画学科」「彫刻科」二科設置、純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。
1876(明治9)年
1876(明治9)年
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田中不二麿(30-31歳)、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。
1876(明治9)年
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皇族・華族のための教育機関として、改めて学校を整備。「華族学校」の名称に。
1876(明治9)年6月 - 1877(明治10)年5月
1876(明治9)年
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大久保利通(45-46歳)、ヨーロッパ全権公使に依頼、「農事修学場」外国人教師の人選に取り組む。農学教師ジョン・デイ・カンスタンス、農芸化学教師エドワルド・キンチ、試業科教師ジェームス・ベクビー、英語学教師ウイリアム・ダグラス・コックス、獣医学教師ジョン・アダム・マックブライトの5名が選ばれる。農業試業科以外の講義は英語で行われ、訳官が通訳して生徒に伝えた。
1876(明治9)年
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小泉信吉(22-23歳)、紀州徳川家の援助を受け、英国ロンドンに留学。
1876(明治9)年
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津田仙(38-39歳)、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社設立。その一環として、「学農社農学校」創立。キリスト教指導も行う。
1877(明治10)年1月
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工学寮廃止。ボアンヴィル設計による当時世界で最も優れた工業教育施設と考えられた、本館が完成。「工学寮工学校」は、「工部大学校」と改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。
1877(明治10)年2月
1877(明治10)年2月1日
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「東京女子師範学校」、附属小学校設立。生徒の実地研修の場としての附属学校園の制度を順次整備。
1877(明治10)年2月19日
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西南戦争による財政難により、「東京女学校」廃校。在校生は、「東京女子師範学校英文科」転入。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。
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校地は「東京大学法・理・文三学部」が錦町、「東京大学医学部」が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地とで離れていた。職制や事務章程も別々に定められ、それぞれに綜理が置かれる。
1877(明治10)年
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加藤弘之(40歳)、「東京大学法・理・文三学部」綜理に。
1877(明治10)年
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濱尾新(27-28歳)、「東京大学法・文学部」綜理補に。同郷の「東京大学法・理・文三学部」綜理・加藤弘之を補佐。
1877(明治10)年
1877(明治10)年4月13日
1877(明治10)年4月13日
1877(明治10)年4月12日
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外山正一(27-28歳)、新たに発足した「東京大学」にて、日本人初の教授に。講義では徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始、これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄される。
1877(明治10)年4月12日
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「東京開成学校予科」、同じく官立の「東京英語学校」と統合、「東京大学予備門(後に、第一高等中学校、第一高等学校)」設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、「東京大学法・理・文三学部」入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、「東京大学医学部」は別に予科を設ける。
1877(明治10)年
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「東京大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ動く。
1877(明治10)年10月
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神田錦町に、改めて「学習院」と改名、開校。明治天皇下、「学習院」の勅額を下賜される。
1877(明治10)年10月17日 - 1884(明治17)年5月24日
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立花種恭(41-48歳)、「学習院」初代院長に。部下に、嘉納治五郎。
1877(明治10)年12月
1877(明治10)年
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田中不二麿(31-32歳)、文部省にて学制改正のための委員設置、着手。
1877(明治10)年
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内務省「樹木試験場」設置。
1877(明治10)年
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荘田平五郎(29-30歳)、福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。
1878(明治11)年1月24日
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「農事修学場」、駒場野に校舎を新築、移転。「駒場農学校」に改称。アメリカ農業を教育の柱にした「札幌農学校」に対し、専らドイツ農法に範を求める。欧米の農作物を試植する「泰西農場」、在来農法の改良を期した「本邦農場」などの農場のほか、園芸・植物園、家畜病院、気象台など備えた農業の総合教育・研究機関となる。当初の敷地面積、約6万坪。内務卿・大久保利通は開会式で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べる。
1878(明治11)年3月
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森下岩楠(26歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に「三菱商業学校」創立。初代校長に。教官のほとんどを「慶應義塾」の門下生で構成。「慶應義塾」の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成した。
1878(明治11)年
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伊沢修二(26-27歳)、文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書を文部大臣に提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。
1878(明治11)年10月25日
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学制・教育令の中で、小学校・専門学校の教育科目に「体術」・「体操」が規定されたが、具体的な教授法が確立されていなかった。「東京師範学校」も知的教科を中心とする知育に偏重、体育教員の養成が後手にまわっていた。そこで、アメリカ・アマースト大学卒業の医学士リーランドが体育担当教師として招聘され、文部省により日本最初の体育研究・教育機関「体操伝習所」創立。
1878年(明治11)年10月25日
1878(明治11)年
1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月
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九鬼隆一(26-27歳)、パリ万国博覧会に派遣。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性を痛感。
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九鬼隆一(26-27歳)、渡仏中、西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけで、美術分野に関心を持つ。後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。
1878(明治9)年11月
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官立の師範学校は、「東京師範学校」と「東京女子師範学校」を除き、西南戦争時の財政難により廃校に追い込まれ、文部省より府県にすべて移管される。各県が小学校教員養成を目的として独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。
1878(明治11)年12月
1878(明治11)年
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渡辺洪基(29-30歳)、「学習院」次長に。
1878(明治11)年頃
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浜野定四郎(32-33歳)、「慶応義塾」塾長に。
1878(明治11)年
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澤山保羅(25-26歳)、成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、リスト教主義教育を建学の精神とする「梅花女学校」設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現在の大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。
1878(明治11)年 - 1882(明治15)年
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成瀬仁蔵(19-24歳)、澤山保羅のキリスト教主義教育を建学の精神とする「梅花女学校」設立に教会信徒有志と共に協力、主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く、1882(明治15)年に卒業生を送ると教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。
1879(明治12)年3月5日
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石黒忠悳 (33歳)、「東京大学医学部」綜理心得に。
1879年(明治12)年3月
1879(明治12)年4月
1879(明治12)年4月
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「東京大学」、授与する学士号を法学士・理学士・文学士・医学士・製薬士とする。
1879(明治12)年
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田中不二麿(33-34歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減した。
1879(明治12)年9月
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伊藤博文(34-35歳)、教育議を上奏、教育令発布に。
1879(明治12)年9月29日公布
教育令、学制に代わり公布。欧米の教育制度を模範に定められた学制は、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学校運営に要する地方の経済的な負担も大きく、これら事情に考慮する改正が成される。
1879(明治12)年11月
1879(明治12)年
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文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉、箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
1879(明治12)年
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小幡篤次郎(36-37歳)、初の「東京学士会院会員」に。
1879(明治12)年
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相馬永胤(28-29歳)、日本に帰国。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現在の東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎と駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、「専修学校」設立の準備に動き出す。
1879(明治12)年12月
1879(明治12)年
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田中不二麿(33-34歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。
1879(明治12)年
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福澤諭吉(43-44歳)、狸橋南岸一帯(現在の港区白金)の土地を買収、別邸を設ける。この場所に、「慶應義塾幼稚舎」が移転。また東側部分が「土筆ケ岡養生園」(後の「北里研究所」、「北里大学」)となる。
1879(明治12)年秋 -
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福澤諭吉(44-歳)、「慶應義塾」外の京橋南鍋町に「簿記講習所」設立。