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大学創立年表 1890年代​

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  • 1890(明治23)年1月 小泉信吉(38歳)慶應義塾大学部を創設。文学科・理財科・法律科の3科設置。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、慶應義塾塾長を短期辞任に追い込まれる。

  • 1890(明治23)年5月12日 伊沢修二(40歳)、奏楽堂を含む校舎を新築。日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関として東京音楽学校開校。当初は西洋音楽の教育を中心とする。修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科および3年制の専修科)から構成。

  • 1890(明治23)年10月7日 岡倉天心(28歳)東京美術学校校長に。日本美術史を講義、日本美術史叙述の嚆矢とされる。副校長にフェノロサ。福田眉仙・横山大観・下村観山・菱田春草・西郷孤月らを育てる。

1890(明治23)年10月30日 『教育ニ関スル勅語(教育勅語)

近代日本の教育の基本方針として発布。​

  • 1890(明治23)年11月29日 辻新次(49歳)第1回帝国議会にて、教育予算削減を目的とする高等中学校その他12学校の廃止論、内務省との合併による文部省廃止論などが唱えられる。文部省所管政府委員として矢面に立って防戦、教育予算の削減を最小限にとどめさせる。

  • 1890(明治23)年 松井直吉(34歳)帝国大学農科大学設立。初代農科大学長に。以後、死去まで長年ににわたり農科大学長を務める。教授兼務、化学を教える。東京化学会(現・日本化学会)会長を務めるなど、日本の化学の中心となる。

  • 1890(明治23)年 手島精一(41歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、東京職工学校第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった校名を、東京工業学校に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。

  • 1890(明治23)年、東京女学館、宮内省より虎ノ門の旧・工部大学校本館を借り受け、移転。世に「虎ノ門女学校」と呼ばれるように。

  • 1891(明治24)年4月 九鬼隆一(40歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令にて、1893(明治26)年開催シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行なう。副総裁に。

  • 1891(明治24)年12月 岡倉天心(29歳)、シカゴ万国博覧会評議員に。シカゴ万国博覧会の日本展示は日本画を中心とした伝統的なものに。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を東京美術学校が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。

  • 1891(明治24)年、東京音楽学校、開校まもなく国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる。

  • 1892(明治25)年 北里柴三郎(40歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする帝国大学医科大学教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈したことで、母校・帝国大学医科大学と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。

  • 1893(明治26)年9月20日 嘉納治五郎(34歳)高等師範学校(現・筑波大学)校長および高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長に。通算25年務める。軍隊化方針を一部緩和、スポーツ活動を通じた人材育成を進めた結果、日本の学生スポーツ濫觴の場に。特に第一次大戦後、日本のスポーツが世界に飛躍していく基礎が築かれることとなる。

1893(明治26)年12月 司法省指定学校

司法省が判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格を関西法律学校(現・関西大学)・日本法律学校(現・日本大学)・東京法学院(現・中央大学)・独逸学協会学校(獨協大学の源流)東京専門学校(現・早稲田大学)・明治法律学校(現・明治大学)・慶應義塾(現・慶應義塾大学)専修学校(現・専修大学)・和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与える。帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された。

九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き、帝国大学法科大学加えた法律学校を「九大法律学校」と呼ぶ。​

  • 1893(明治26)年 九鬼隆一(42歳)、シカゴ万国博覧会の日本展示は、岡倉天心の意向もあり、日本画を中心とした伝統的なものとなる。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を東京美術学校が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。

1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令

1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。

専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。

但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。

  • 文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。

  • 1894(明治27)年5月1日、高等学校令により、第三高等学校に改組。予科を置かず、将来の大学昇格を視野に法学部・工学部・医学部設置。初代校長に、折田彦市

  • 1894(明治27)年 折田彦市(46歳)第三高等学校初代校長に。「無為にして化す」の教育方針が三高の「自由」の精神を体現。生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する姿勢を貫く。

  • 1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

  • 1896(明治29)年、東京美術学校、伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように。西洋画科・図案科を新設。西洋画科の教官に、黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助ら。図案科の教官に、福地復一・横山大観・本多天城らが就任。この頃より、岡倉天心校長の専権的な学校運営に対する批判が起こるように。

  • 1896(明治29)年 嘉納治五郎(37歳)文部大臣・西園寺公望より清国の留学生13名の受け入れを託される。組織的な留学生に対する日本語教育の嚆矢に。留学生教育のための教育機関として、1899(明治32)年に亦楽書院、規模拡大のため1902(明治35)年牛込に弘文学院(後に宏文学院)設立。文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、嘉納治五郎に師事。

  • 1897(明治30)年6月28日 木下広次(47歳)文部省専門学務局長を兼任のまま、新設の京都帝国大学初代総長に。ドイツ流の大学システムを採用、「自由」の学風の基礎を築く。大学寄宿舎設置、舎生に管理・運営を任せる。

  • 1897(明治30)年、学区制廃止。第一高等学校は全国から受験可能に。

  • 1897(明治30)年9月、高等商業学校、予科1年・本科3年の上に専攻部(1年)設置。大学昇格を目指す。

1897(明治30)年 師範教育令

「高等師範学校」は師範学校・尋常中学校・高等女学校の教員、「女子高等師範学校」は師範学校女子部・高等女学校の教員を養成することが定められる。また、尋常師範学校は「師範学校」と改められる。

  • 1898(明治31)年 岡倉天心(36歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。東京美術学校での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長東京美術学校校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦、西郷孤月、菱田春草、寺崎広業、横山大観、岡部覚弥、桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足(美術学校騒動)。

  • 1898(明治31)年3月29日 高嶺秀夫(45歳)、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究を通じ、伝統美術の保護を進めたフェノロサ・岡倉天心とも親交を結んでいた。岡倉天心の美術学校騒動による罷免を受け、後任として東京美術学校校長に。教授陣の復職についても一任され、騒動を収拾。

  • 1898(明治31)年11月 下田歌子(45歳)、当時日本の一般女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛める。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」と、帝国夫人協会設立。

1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令

中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める​。

1899(明治32)年8月3日公布・8月4日施行 私立学校令

私立学校のみを対象とする最初の法令。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。

1899(明治32)年8月3日 文部省訓令第12号発令

文部省が宗教教育を禁じる法令を発令。キリスト教教育を続けると、各種学校の取り扱いとなり、上級学校への進学・徴兵猶予の特典を失うとされた。キリスト教私立学校の存立を脅かす。

  • 青山学院文部省訓令第12号に対し、建学の精神を貫き、毅然としてキリスト教教育を続ける道を選択。失われた特典は、キリスト教主義学校代表者達の政府との忍耐強い折衝により、数年で回復される。

  • 1899(明治32)年9月、東京工業学校工業図案科、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき設置。

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