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ダイガクコトハジメ - 手島精一

手島精一

出身校

  • 沼津藩校・明親館

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参考情報

参考文献・書籍

手島精一

てじませいいち

1850(嘉永3)年1月11日(旧暦・11月28日) - 1918(大正7)年1月23日

文部省官僚、東京開成学校監事、製作学教場事務取締、東京教育博物館(現・国立科学博物館)館長、東京図書館(後に帝国図書館、国立図書館)主幹、東京職工学校創立・第2代校長、東京工業学校校長、東京高等工業学校校長、共立女子職業学校校長、早稲田大学理工科創立、文部大臣、普通学務局長・実業学務局長

 

年表 | 動画

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  • 1850(嘉永3)年1月11日(旧暦・11月28日) 手島精一(1歳)、江戸藩邸に沼津藩士・田辺四友の次男として生まれる。

  • 手島精一(12歳)、沼津藩士・手島惟敏の養子に。

  • 手島精一、沼津藩校・明親館で洋学を学ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1870(明治3)年 手島精一(21歳)、藩より学費を借り、渡米。建築学・物理学を学ぶつもりであったが、廃藩置県で送金がなくなる。岩倉遣外使節団の訪米時に通訳を務め、さらにイギリス随行。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 手島精一、渡米・渡英中に得た産業技術一般に関する豊富な知識と広い視野で、工業知識普及と工業教育振興に関する論説を新聞紙上にしばしば発表。このことが、後に唯一の中等工業教育機関であった製作学教場の最高責任者の職に就くきっかけに。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。

  • 1873(明治6)年11月、工部省工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1874(明治7)年5月、開成学校東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1874(明治7)年9月27日 田中不二麿(30歳)、文部大輔に。学制実施の実質上の責任者に、教育行政の要衝にあたる。

  • 1874(明治7)年末 手島精一(25歳)、帰国。

  • 1874(明治7)年、東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、東京開成学校内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立。後の東京職工学校(現・東京工業大学)の前身に。

  • 1875(明治8)年 田中不二麿(31歳)、太政官博覧会事務局に移管されていた書籍館を文部省にて名称復帰、東京書籍館設立。無料制の公共図書館を実現。

  • 1876(明治9)年 田中不二麿(32歳)、教育令の起草に先立ち、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。高等教育の主力を私立大学が担う自由主義的なアメリカの教育制度に強い関心を抱く。

  • 1876(明治9)年4月 手島精一(27歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。

  • 1876(明治9)年9月3日 手島精一(27歳)、製作学教場事務取締を兼務。はじめて、工業教育にあたることに。​

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1877(明治10)年12月 手島精一(28歳)、東京教育博物館(現・国立科学博物館)館長補に。​

  • 1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会に派遣される。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、特に中等程度の工業教育の必要性を痛感。​

  • 1878(明治11)年10月 手島精一(29歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。​

  • 1880(明治13)年11月 九鬼隆一(29歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌が教育行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1881(明治14)年9月27日 正木退蔵(36歳)九鬼隆一により日本に呼び戻される。創立間もない東京職工学校の初代校長に。学則改正・煉瓦校舎建設・学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場設立。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘。

  • 東京職工学校、浅草蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。

  • 東京職工学校、開校当初、前近代の伝統的な徒弟制度の下での技術伝承より、近代的・科学的な技術教育への転換を背景とするさまざな困難に直面。生徒がなかなか集まらず、入学者の中からも退学が続出するなど不振の時期が続く。不振を理由に、農商務省への移管論・不要論・廃止論が絶えず。

  • 1881(明治14)年 手島精一(32歳)、東京教育博物館(現・国立科学博物館)館長に。民衆の啓蒙教育に貢献。

  • 1884(明治17)年 手島精一(35歳)、ロンドン衛生博覧会に従事。

  • 1884(明治17)年11月、東京職工学校、ワグネルが唯一の外国人教官に就任。陶器玻璃工科主任になると、陶器・ガラス・漆器など、明治以前からの日本の伝統工芸を近代産業へと発展させていくための教育が行われる。

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年4月29日 手島精一(37歳)、閉校の危機に直面していた東京職工学校の維持を図るため、帝国大学附属学校への移管を取りまとめる。

  • 1886(明治19)年 手島精一(37歳)、『実業教育論』発表。

  • 1886(明治19)年 手島精一(37歳)、東京図書館(後に帝国図書館、国立図書館)主幹兼務。

  • 手島精一、共立女子職業学校校長兼務。30余年、女子の職業教育に尽力。

  • 1890(明治23)年 手島精一(41歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、東京職工学校第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった校名を、東京工業学校に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。

  • 1893(明治26)年 - 1894(明治27)年 手島精一(44-45歳)、井上毅内閣で文部大臣に。実業教育法制に理論的根拠を与える。

  • 1897(明治30)年 手島精一(48歳)、文部省普通学務局長に。

  • 1898(明治31)年 手島精一(49歳)、文部省実業学務局長に。

  • 1899(明治32)9月、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき、東京工業学校工業図案科設置。

  • 1909(明治42)年9月、早稲田大学、大学部理工科(機械学科・電気学科)創設。

  • 1916(大正5)年9月22日 手島精一(67歳)、東京高等工業学校校長辞任。名誉教授の称号を授けられる。校長として25年の長きにわたり、産業の近代化に沿った学科設備の拡充と教育レベルの引き上げを行い、日本各地の工業学校指導者・産業界のリーダーを数多く輩出。

  • 1916(大正5)年 手島精一(67歳)、政界・財界・教育界等の諸名士が発起人となり、財団法人手島工業教育資金団設立。

  • 1918(大正7)年1月23日 手島精一(69歳)、死去。享年69歳。

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