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ダイガクコトハジメ - 古市公威

古市公威

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  • 1854(嘉永7/安政元)年9月24日(旧暦・7月12日) 古市公威(1歳)、江戸の姫路藩屋敷に姫路藩士・古市孝の長男として生まれる。

  • 1866(慶応2)年 辻新次(25歳)、再び江戸へ、開成所に復帰も、火薬製造中の事故で負傷。以後、教育家になることを決心。フランス学の研究に邁進。開成所化学教授手伝並に。下谷練塀町(現・秋葉原)で仏学塾を経営。教え子に古市公威ら。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

  • 1869(明治2)年 古市公威(16歳)、開成学校入学。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

1870(明治3)年7月27日 貢進生

太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。

1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。

  • 1870(明治3)年 古市公威(17歳)、姫路藩の貢進生として、大学南校進学。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。

  • 1873(明治6)年 古市公威(20歳)、開成学校に置された諸芸学科で学ぶ。

  • 1874(明治7)年5月、開成学校東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1875(明治8)年 - 1880(明治13)年 古市公威(22-27歳)、諸芸学修行のため、文部省最初の留学生として、欧米諸国へ派遣。1879(明治12)年8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)卒業。工学士の学位取得。パリ大学理学部入学。翌1880(明治13)年、卒業。理学士の学位取得。

  • 1880(明治13)年12月 古市公威(27歳)、留学より帰国、内務省土木局雇いに。内務技師として、現場勤務。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1881(明治14)年 古市公威(28歳)、内務技師勤務の傍ら、東京大学講師を兼任。以後、技術官僚と大学教官を兼務。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年5月 古市公威(33歳)、初代文部次官・辻新次らと共に仏学会(日仏協会の前身)設立。11月、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立。初代校長に。

  • 1886(明治19)年5月 辻新次(45歳)帝国大学工科大学初代工科大学長に就任した古市公威らと共に、仏学会(日仏協会の前身)設立。初代会長に。11月、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立。

1887(明治20)年5月21日 学位令

日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。

1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、
帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。

  • 1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓

  • ​1888(明治21)年 古市公威(35歳)、日本最初の工学博士に。

  • 1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。

  • 1890(明治23)年 古市公威(37歳)、貴族院議員に勅選。

  • 1894(明治27)年11月 古市公威(41歳)、内務省の初代土木技監に就任。土木行政の改善を図り、土木法規を制定。技術上・行政上に非凡の才能を振るい、「近代土木界の最高権威」となる。全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作る。

  • 古市公威、1905(明治38)年完成の横浜港の建設に尽力。横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成。この設計を担当。

  • 古市公威、内務省にて、軌道条例を鉄道作業局と共同所轄。この関係から、日本初の都市間高速電車となる阪神電気鉄道の成立にも関与。

  • 1903(明治36)年3月31日 古市公威(50歳)、日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道作業局の長官に。在任時、中央本線の開業記念式典が行われる。

  • 1904(明治37)年 - 1907(明治40)年6月 古市公威(51-54歳)、日露の緊張が高まったこともあり、鉄道作業局長官を辞任。戦時の補給路となる京釜鉄道の官選総裁に。京城(ソウル)-釜山間の速成工事の指揮。日露戦争後、韓国統監府鉄道管理局の長官にそのまま留任。韓国の鉄道整備が一段落したことを受け、長官を辞任。帰国。

  • 1920(大正9)年8月29日 古市公威(67歳)、ヨーロッパ視察を経て日本にも地下鉄が必要と考えた早川徳次の働きかけに賛成、大いに支援。日本最初の地下鉄である東京地下鉄道の初代社長に。

  • 1925(大正14)年10月 古市公威(72歳)工手学校復興会設立、会長に。復興資金を募金。

  • 1927(昭和2)年10月 古市公威(74歳)、財団法人理化学研究所の第2代所長に。

  • 1934(昭和9)年1月28日 古市公威(81歳)、死去。享年81歳。

古市公威

ふるいちこうい

1854(嘉永7)年9月24日(旧暦・7月12日) - 1934(明治9)年1月28日

工学博士、帝国大学工科大学初代工科大学長、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立・初代校長、工手学校(現・工学院大学)創立・管理長、内務省初代土木技監、鉄道作業局長官、京釜鉄道総裁、東京地下鉄道初代社長、理化学研究所第2代所長、貴族院議員、「近代

 

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