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ダイガクコトハジメ - 伊藤博文

伊藤博文

出身校

  • 松下村塾

  • ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ

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参考情報

参考文献・書籍

伊藤博文

いとうひろぶみ

1841(天保12)年10月16日(旧暦・9月2日) - 1909(明治42)年10月26日

参与、外国事務局判事、大蔵少輔、民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿、外務卿ほか要職歴任、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長初代貴族院議員議長、立憲政友会創立・初代総裁、韓国統監府初代統監、元老、森有礼と共に近代日本学校制度の基礎を確立、工学寮工学校(後に工部大学校)創立協力、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立協力、女子教育奨励会(後に東京女学館)創立委員長、日本女子大学校(日本女子大学)創立協力、岩倉遣欧使節団、「長州五傑」、「今太閤」、「憲政の三巨人

 

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  • 1841(天保12)年10月16日(旧暦・9月2日)  伊藤博文(1歳)、周防国熊毛郡束荷村(現・山口県光市)に百姓・林十蔵と琴子の間に長男として生まれる。幼名、利助。

  • 1846(弘化3)年 伊藤博文(6歳)、家業破産、父・林十蔵が萩へ単身赴任。母と共に母の実家へ預けられる。

  • 1849(嘉永2)年 伊藤博文(9歳)、父・林十蔵に呼び戻され、萩に移住。久保五郎左衛門の塾に通う。同門に、吉田稔麿。

  • 伊藤博文(12歳頃)、家が貧しかったため、長州藩蔵元付中間・水井武兵衛の養子に。水井武兵衛が周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、林十蔵父子も足軽に。

  • 1857(安政4)年 吉田松陰(28歳)、叔父・玉木文之進が主宰する松下村塾の名を引き継ぎ、杉家隣の小屋を改装、8畳1間の松下村塾創立。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学など広範な学問が教授される。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。

  • 1857(安政4)年2月 伊藤博文(17歳)、江戸湾警備のため相模に派遣。上司として赴任した来原良蔵と昵懇に。その紹介で吉田松陰松下村塾入門。友人の吉田稔麿の世話になる。身分が低いため塾の敷居をまたぐこと許されず、戸外で立ったまま聴講。

  • 伊藤博文、吉田松陰から俊英の俊を与えられ、伊藤俊輔と改名。

  • 1858(安政5)年7月-10月 伊藤博文(18歳)、吉田松陰の推薦により、長州藩の京都派遣に随行。

  • 1859(安政6)年-6月 伊藤博文(19歳)、来原良蔵に従い、長崎遊学。

  • 1859(安政6)年 伊藤博文(19歳)、来原良蔵の紹介で来原良蔵の義兄・桂小五郎(木戸孝允)の従者に。長州藩の江戸屋敷に移り住む。ここで志道聞多(井上馨)と出会い、親交を結ぶ。

1858(安政5)年 - 1859(安政6)年 安政の大獄

幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印。また、将軍継嗣を徳川家茂に決定。これら諸策に反対する尊王攘夷家や一橋派の大名・公卿・志士らを弾圧。連座した者は100人以上に。

  • 1859(安政6)年10月 伊藤博文(19歳)、安政の大獄、師匠・吉田松陰が斬首刑に。桂小五郎の手附として江戸詰めしており、師の遺骸を引き取ることに。この時、自分がしていた帯を遺体に巻く。

  • 1861(万延2/文久元)年 伊藤博文(21歳)、桂小五郎を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる。一方、海外渡航も考えるように。来原良蔵に宛てた手紙でイギリス留学を志願。

  • 1862(文久2)年 伊藤博文(22歳)、公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策。

  • 1862(文久2)年8月 伊藤博文(22歳)、自害した来原良蔵の葬儀参列。

  • 1862(文久2)年12月 伊藤博文(22歳)、英国公使館焼き討ち事件に参加。山尾庸三と共に、塙忠宝・加藤甲次郎を暗殺。尊王攘夷の志士として活動。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1864(文久4)年6月 伊藤博文(23-24歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。

  • 伊藤博文(23-24歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設・工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本とのあまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに。開国論に転じる。

  • 森有礼、薩摩藩第一次英国留学生の留学中、ロンドンにて長州五傑(井上聞多/井上馨遠藤謹助・山尾庸三伊藤博文・野村弥吉/井上勝)と出会う。

  • 伊藤博文(23-24歳)、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と共に急ぎ帰国。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1868(慶応4/明治元)年 山尾庸三(27-32歳)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。一方、造船所で聴覚障害者が熟練工として働くのを見て、国家の近代化には障害者教育が必要と確信。

  • 1864(文久4/元治元)年6月10日 伊藤博文(24歳)、横浜上陸、長州藩へ戻る。戦争回避に奔走。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見。両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発。長州の砲台は徹底的に破壊される。

  • 伊藤博文、下関戦争後、高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。長州藩世子・毛利元徳へ経過報告。攘夷派の暗殺計画を知り、高杉晋作と共に行方をくらます。この和平交渉において、天皇と将軍が長州藩宛に発した『攘夷実施の命令書』の写しをアーネスト・サトウに手渡したことにより、各国は賠償金を江戸幕府に要求するように。

  • 1864(文久4/元治元)年9月 伊藤博文(24歳)、英国公使オールコックらとの交渉で井上馨と共に長州藩の外国応接係に。下関戦争と禁門の変で大損害を被った長州藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭。攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まる。攘夷も幕府恭順にも反対、どちらの派閥にも加わらなかったが、井上馨が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらます。

  • 1864(文久4/元治元)年11月-12月 伊藤博文(24歳)、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。一番に駆けつける。「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やし、俗論派を倒す。正義派が藩政を握る。

  • 1865(元治2/慶応元)年 伊藤博文(25歳)、長州藩の実権を握った桂小五郎の要請により、薩摩藩や外国商人との武器購入及び交渉が主な仕事に。第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できず。

  • 1867(慶応3)年5月(旧暦・4月) 服部一三(17歳)、河瀬真孝の長崎追従の許可をきっかけに、長崎遊学。洋学を学ぶ。後にイギリス総領事となるロバートソン、アストンに師事。長崎に設立された佐賀藩校の英学塾・致遠館にて、岩倉具視の子である岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に大隈重信やフルベッキから教えを受ける。伊藤博文や井上馨の居宅で生活、渡航の機会を窺がう。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、京都と長崎を往来、尊王派として活動。副島種臣と共に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画。脱藩して京都へ赴くも、捕縛。佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受ける。

  • 1867(慶応3)年 渋沢栄一(27歳)、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として、御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランス渡航。パリ万博を視察。ヨーロッパ各国を訪問、各地で先進的な産業・軍備を実見、社会を見て感銘を受ける。

  • 1867(慶応3)年 前島密(33歳)、神戸開港に伴い、兵庫奉行手付出役として神戸へ。港の事務に当たる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 大久保利通(38歳)、岩倉具視ら倒幕派公家と共に、王政復古の大号令を計画、実行。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伊藤博文(28歳)、外国事務総裁・東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。出世の足掛かりに。

  • 明治維新後、伊藤博文、博文と改名。長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与・外国事務局判事・大蔵少輔兼民部少輔・初代兵庫県知事(官選)・初代工部卿・宮内卿など明治新政府の様々な要職を歴任。木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれる。

  • 1868(慶応4)年12月16日(旧暦・11月3日) 渋沢栄一(28歳)大政奉還、明治新政府よりマルセイユからの帰国を命じられる。静岡に謹慎していた徳川慶喜と面会、「これからはお前の道を行きなさい」と言葉を拝受。

  • 1868(慶応4/明治元)年 箕作麟祥(23歳)、フランスより帰国後、明治新政府に出仕。開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。当時の兵庫県令・伊藤博文、着任を騎馬で出迎えて歓迎。

  • 1869(明治2)年1月 伊藤博文(27歳)、兵庫県知事時代、『国是綱目』いわゆる『兵庫論』を捧呈。「君主政体」・「兵馬の大権を朝廷に返上」・「世界万国との通交」・「国民に上下の別をなくし自在自由の権を付与」・「世界万国の学術の普及」・「国際協調・攘夷の戒め」を主張。

  • 伊藤博文、明治新政府に提出した『国是綱目』が当時極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたため、大久保利通や岩倉具視の不興を買う。大蔵省の権限を巡る論争でも、大久保利通と対立関係に。

  • 1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。

  • 1869(明治2)年1月 渋沢栄一(29歳)、フランスで学んだ株式会社制度を実践、明治新政府からの拝借金返済を目的に、静岡で商法会所設立。

  • 1869(明治2)年3月17日(旧暦・2月5日) 大隈重信(32歳)外国官判事兼会計御用掛として造幣局設立を建白、貨幣制度改革を主導。3月4日、三条実美に対して通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白、了承される。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。

  • 1869(明治2)年10月 渋沢栄一(29歳)、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、大久保一翁に相談。上京。大隈重信に説得され、大蔵省入省。民部省改正掛を率いて改革案を企画立案、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。

  • 1869(明治2)年12月7日(旧暦・11月5日) 大隈重信(32歳)伊藤博文と共に日本発の鉄道敷設を計画。右大臣三条実美の東京邸宅にて、岩倉具視・沢宣嘉・大隈重信・伊藤博文の4者がパークスと非公式に会談、鉄道計画を相談。事前にパークスと協議した脚本通りに進行。岩倉具視・沢宣嘉の賛同を得る。12月12日(旧暦・11月10日)、鉄道敷設が正式に廟議決定。

  • 1870(明治3)年3月 大隈重信(33歳)、貿易による外貨獲得を目的に、生糸の輸出振興を主政策として、近代生産方式による産業育成を図る。伊藤博文らと協議、官営の模範製糸場・富岡製糸場設立を廟議決定。富岡製糸場設置主任に、渋沢栄一を任命。

  • 1870(明治3)年11月 - 1871(明治4)年5月 伊藤博文(30-31歳)、財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学ぶ。帰国後、日本最初の貨幣法である新貨条例を建議。制定。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)、山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1870(明治3)年 高島嘉右衛門(39歳)伊藤博文大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明。後に、大隈重信より鉄道敷設事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現・西区野毛町〜神奈川区青木町)を実行。埋め立て開発者は鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていたが、それを政府に献上、その偉業を称えて高島町と名づけられる。

  • 1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手

  • 江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。​フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。​

  • 1870(明治3)年 箕作麟祥(25歳)、制度取調局長官・江藤新平からフランス民法典(ナポレオン法典)の翻訳を命じられる。以後、長年にわたり法典の翻訳・編纂に携わっていく。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大隈重信(34歳)、民部省を改めて大蔵省に合併。巨大官庁・大蔵省を誕生させる。地租改正などの改革に当たると共に、殖産興業政策を推進。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)、岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1871(明治4)年 津田梅子(8歳)岩倉遣欧使節団に随行、渡米。ワシントンへ。随行員5人の少女のうち、最年少であった。日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。

  • 1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

  • 江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。

  • 江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵少輔兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年 - 大倉喜八郎(36歳)、欧米の商業を学ぶため、米国から欧州まで1年以上かけて外遊。ロンドン・ローマに滞在中、岩倉遣欧使節団大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らと殖産興業を話し合う。この出会いにより運命を大きく変わる。

  • 1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。

  • 1873(明治6)年5月26日 伊藤博文(33歳)岩倉遣欧使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を開始。全権委任状を取るため、大久保利通と共に一旦帰国。しかし、取得に5か月もかかったことで木戸孝允との関係も悪化。改正交渉中止。木戸孝允との不仲は、のちに和解。

1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

  • 1873(明治6)年 伊藤博文(33歳)、明治六年政変、内治優先路線を掲げた大久保利通・岩倉具視・木戸孝允らを支持。大久保利通の信任を得る。木戸孝允と疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保利通・岩倉具視と連携する道を選ぶ。

  • 1873(明治6)年10月25日 大隈重信(36歳)、明治六年政変後、参議兼大蔵卿に。大久保利通と連名にて、財政についての意見書を太政官に提出。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(43歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

  • 1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1873(明治6)年11月 箕作麟祥(28歳)、ボアソナードが来日。以降、ボアソナードの下で法典編纂に従事。

1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動

明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。

自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。

  • 1874(明治7)年1月12日 板垣退助(38歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎・江藤新平らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出するも、却下される。

  • 1874(明治7)年4月4日 大隈重信(37歳)大久保利通と共に台湾問題を担当、積極的に出兵方針を推進。台湾蕃地事務局長官に。イギリスとアメリカより抗議があり、政府として出兵を一時見合わせ。この間、西郷隆盛が独断で台湾出兵、政府として追認せざるを得ず。大久保利通らの方針に従い、早期撤兵。左大臣・島津久光より免職を要求されるも、却下。

  • 1874(明治7)年4月10日 板垣退助(38歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達・気風の養成・福祉の上進・自由の進捗を目的に政治団体・立志社結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う立志学舎創立。教員に、慶應義塾を卒業した江口高邦・深間内基・矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造・久米弘行・森春吉が駆けつける。慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様な教育を行う。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、明治六年政変で板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下ると、高知の立志学舎慶応義塾門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援。国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に『国会論』と題する社説を掲載。

  • 福澤諭吉板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。

  • 1874(明治7)年9月-10月31日 大久保利通(45歳)、台湾出兵、戦後処理のため全権弁理大臣として清に渡る。交渉の末、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印。

  • 1874(明治7)年 箕作麟祥(29歳)、5年の歳月をかけ、フランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』上申。日本で初めて「権利」・「義務」という訳語を用いたほか、訳語を新規に創作。日本国に初めて近代法典を知らしめる。近代的裁判制度への大きな転換期にあり、手探りの中で裁判にあたっていた当時の司法官に多大な影響を与え、その後の日本の近代的法制度整備の基礎を築く。このことから、「法律の元祖」と評される。Constitutionを「憲法」と訳し、定着させる。

  • 1875(明治8)年1月-2月 伊藤博文(35歳)、盟友・井上馨と共に木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎ、大阪会議を斡旋。

  • 1875(明治8)年1月-2月 大久保利通(46歳)、参議・伊藤博文と前大蔵大輔・井上馨の斡旋により、木戸孝允・板垣退助と大阪にて秘密政治会談(大阪会議)。1873(明治6)年の政変、1874(明治7)年の民撰議院設立建白・佐賀の乱・台湾出兵などにより、大久保利通を中心とする政府が孤立、政局は危機に瀕する。この窮状を打破するため、先に下野した木戸孝允の政府復帰を望み、板垣退助も参加させる形で会談にこぎつける。元老院・大審院の創設、地方官会議の開催、参議と省の卿との分離など政体改革構想で合意。木戸孝允・板垣退助が参議に復帰。4月、参議省卿の分離問題を除く大阪会議の合意事項が実現。しかし、改革実施過程で再び対立。10月、板垣退助辞職。一連の改革により、政府は安定度を増す。

  • 1875(明治8)年 大隈重信(38歳)、大阪会議の開催を知らされず。関係が悪化していた木戸孝允の政界復帰は、自身の権力基盤を脅かすことに。この頃から、体調不良を理由に出仕せず。三条実美・岩倉具視・大久保利通は大蔵卿解任を検討するも、後任候補の伊藤博文が辞退したこと、大隈重信以上の財政家の不在を理由に慰留・続投を促す。しかし、復帰した木戸孝允・板垣退助も辞任を要求。大久保利通に庇護される形に。10月29日、島津久光・板垣退助が辞職、木戸孝允が病状悪化、自身への攻撃は消滅。

  • 1876(明治9)年2月 福澤諭吉(42歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤諭吉が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足

江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。

法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。

  • 東京大学法学部では英米人御雇教師により英米法が講じられ司法省明法寮(後に司法省法学校)ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校は英語・フランス語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。

  • 1877(明治10)年 箕作麟祥(32歳)、司法大書記官に。翻訳課長兼民法編纂課長に。民法編纂委員に。

  • 1878(明治11)年 伊藤博文(28歳)、大久保利通が暗殺される。内務卿を継承、「維新の三傑」なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。

  • 1878(明治11)年 大隈重信(41歳)大久保利通が暗殺される。政府主導権を握った伊藤博文に、「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べる。

  • 1878(明治11)年9月 辻新次(37歳)、太政官大書記官を兼任。教育令原案が元老院の議に上ると、委員として教育令成立に貢献。

  • 1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、教育令を建白。学制にある画一的あるいは民生圧迫的な側面を退け、アメリカ式の地方主体による自由主義教育を基調としたものに。6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど、親や町村の教育負担を著しく軽減。一方、学監ダビット・モルレーは『学監考案日本教育方』・『学監考案日本教育法説明書』にて、全国の教育を標準化する公立小中学校の教則。府県学校監督官、教員免許学位・教科書などに対する管理権限を文部省に認めるなど、学制よりもさらに中央集権的な改正案を示した。これらは1879(明治12)年の教育令にはほとんど反映されなかったが、翌1880(明治13)年の改正教育令に強い影響を与える

  • 1879(明治12)年9月 伊藤博文(39歳)田中不二麿を中心に文部省原案として上申された『日本教育令』について、学区規定削除・文部卿職務権限条文削除など当時の政治情勢を反映して大きく修正。教育議を上奏、教育令発布に。

1879(明治12)年9月29日 教育令公布(自由教育令)

全国を7つの学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置するとした学制について、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学制を廃止。地方の実情を重視するという立場から、文部省が中央集権的教育政策を改め、地方当局に教育行政を大幅に与えることに。アメリカの教育制度をモデルとし、自由教育令とも呼ばれる。その寛容さから学校教育の停滞を招く要因と批判があがる。翌1880(明治13)年、再度国家管理を強化する方向で改正される。

  • 1880(明治13)年2月28日 大隈重信(43歳)、参議の各省卿兼任が解かれる。大蔵卿の兼務を解かれ、会計担当参議に。大蔵卿後任に佐野常民を任命、財政に対する影響力を保とうとするも、佐野常民が外債募集案に反対、財務掌握が終焉を迎える。この頃より、伊藤博文井上馨から冷眼視されるように。

  • 1880(明治13)年 辻新次(39歳)、地方学務局長兼官立学務局長に。教則取調掛長に。教育令改正に従事。

  • 1880(明治13)年3月12日 田中不二麿(36歳)教育令公布(自由教育令)が未就学児増加ならびに学力低下を招いたとして政府内で批判が強まる。司法卿に配置換えに。以後、教育行政から遠ざかる。

  • 1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化 

日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

  • 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(47歳)大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。慶應義塾の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。

  • 1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

  • 1881(明治14)年 福澤諭吉(47歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 1881(明治14)年 板垣退助(45歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。

  • 1882(明治15)年3月1日​ 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」

  • 1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

  • 1882(明治15)年夏 森有礼(36歳)、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。

  • 1882(明治15)年7月 津田梅子(19歳)、私立女学校アーチャー・インスティチュート卒業。同年11月、岩倉遣欧使節団派遣より10年超におよぶ留学より日本帰国。

  • 津田梅子、帰国するも、儒学の価値観が色濃く残る日本において、女子留学生が活躍できる場は乏しく。山川捨松・永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁す。幼少からの長い留学生活により、日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった。

  • 東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。

  • 1882(明治15)年 下田歌子(29歳)、夫・下田猛雄が病に臥す。看病の傍ら、東京九段の自宅にて桃夭女塾(実践女子大学の源流)開講。日本における私学女子教育の先駆けに。時の政府高官の殆どがかつての勤王志士であり、妻の多くが芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教える。

  • 津田梅子、父・津田仙との確執もあり、伊藤博文に雇われ、伊藤家に滞在。英語指導や通訳にあたる。

  • 1884(明治17)年3月 森有礼(38歳)伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」

1884(明治17)年4月 学習院、宮内省所轄の官立学校に

学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で、華族の子弟なら原則として無償で入学することができた。学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致しないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当。

  • 1884(明治17)年5月 谷干城(48歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、学習院第2代院長として復帰。かねてより華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛(守護)となることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も。政治・外交にも長けた多様な人材育成を目指す。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

  • 1884(明治17)年 下田歌子(31歳)、夫・下田猛雄が病死。桃夭女塾の実績と皇后の推薦により、華族の子女を教える新設の華族女学校(現・学習院女子大学)教授に。翌年、学監に。古式ゆかしい儒教的な教育を施す。

  • 1885(明治18)年2月-4月18日 伊藤博文(45歳)、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため、清に派遣。李鴻章との間に天津条約を調印。

  • 1885(明治18)年8月、昭憲皇太后の近代日本に相応しい、質実剛健で徳育に基本を置いた上流女子教育をという令旨により、四谷区尾張町に華族女学校開校。

  • 1885(明治18)年 津田梅子(22歳)伊藤博文の推薦により、華族女学校英語教師に。翌1886(明治19)年、職制変更により嘱託に。華族の上流階級的気風には馴染めず。

 

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

 

  • 1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。

  • 森有礼師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

  • 1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1887(明治20)年5月 板垣退助(51歳)、自由民権運動家の立場より、華族制度に消極的であり、授爵の勅を二度断わる。しかし、三顧之礼を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵。結果、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

  • 1887(明治20)年6月 伊藤博文(47歳)、夏島にて伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に、憲法草案の検討を開始。

  • 1887(明治20)年 伊藤博文(47歳)、創立委員長となり女子中等教育機関・女子教育奨励会(後に東京女学館)設立。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。創立委員に、渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一ほか、帝国大学英語教授ジェムス・ディクソン、聖公会司教アレキサンダー・ショーなど政財官界の有力者で構成。​​永田町御用邸(雲州屋敷)を貸与され、校舎に。

  • 1887(明治20)年 西村茂樹(60歳)、『日本道徳論』刊行。日本の近代教育制度が整備されつつある中、国民教育の根本精神が重要な問題として議論されるように。首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮。日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本に、西洋の精密な学理を結合させるべきと説く。国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示。文部大臣・森有礼はこれを読んで大いに賛成するも、伊藤博文首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責。

  • 1888(明治21)年2月 大隈重信(51歳)、外交手腕を評価する伊藤博文により、不平等条約改正のため、外務大臣を任される。

  • 1888(明治21)年 伊藤博文(48歳)、枢密院開設。初代枢密院議長に。

​1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1889(明治22)年2月11日 伊藤博文(49歳)、黒田清隆内閣にて、大日本帝国憲法発布。華族同方会で憲法に関して演説、立憲政治の重要性、とりわけ一般国民を政治に参加させることの大切さを主張。

  • 1889(明治22)年2月11日-12日 森有礼(43歳)、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺される。応急手当を受けるが傷が深く、翌日2月12日午前5時に死去。享年43歳。「明治の六大教育家」の1人に挙げられる。

  • 1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。

1889(明治22)年 - 1892(明治25)年 民法典論争

旧民法施行の是非を巡り論争展開。延期派は、「法典が簡明でなく」・「内容もフランス法的に過ぎる」・「拙速主義に依らず、条約改正事業と切り離して慎重に編纂すべき」と主張。断行派は、「形式上の問題は認めるが」・「内容面では十分日本の慣習を尊重している」・「法典断行が条約改正および司法権の確立に資する」と反論。論争の結果、延期派が勝利。ドイツ民法第一草案をはじめとする比較法研究を踏まえ、旧民法の形式上の欠点を克服しながら、現行日本民法典の成立に至る。

  • 箕作麟祥、民法典論争において、ボアソナード民法典をベースとする旧民法典の実施断行を主張。施行延期が決まった後も、法典調査会主査委員に任命され、新民法典編纂に積極的に関わっていく。1984(明治27)年に法典調査会副総裁を務めた西園寺公望は、総裁・伊藤博文に対し、副総裁を箕作麟祥に譲りたいと願い出ている。

  • 1890(明治23)年 伊藤博文(50歳)、初代貴族院議員議長に。

1890(明治23)年10月30日 『教育ニ関スル勅語(教育勅語)
近代日本の教育の基本方針として発布。​

  • 1890(明治23)年11月29日 辻新次(49歳)、第1回帝国議会にて、教育予算削減を目的とする高等中学校その他12学校の廃止論、内務省との合併による文部省廃止論などが唱えられる。文部省所管政府委員として矢面に立って防戦、教育予算の削減を最小限にとどめさせる。

  • 1891(明治24)年 田中不二麿(47歳)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」と伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け、第1次松方正義内閣の司法大臣に。

  • 1892(明治25)年 伊藤博文(52歳)、吏党の大成会を基盤にした政党結成を主張するも、明治天皇の反対により頓挫。

  • 1892(明治25)年8月8日 - 1896(明治29)年9月18日 伊藤博文(52-56歳)、第2次伊藤内閣。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに清軍と衝突。朝鮮の主権を巡って意見が対立。1892(明治25)年8月、日清戦争勃発。李鴻章との間に下関条約(馬関条約)に調印。朝鮮の独立と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、遼東半島の放棄を決定。首相辞任。

  • 1896(明治29)年 板垣退助(60歳)、議会内で孤立していた自由党、第2次伊藤博文内閣と協力の道を歩む。内務大臣として入閣。続く第2次松方正義内閣においても留任するも、すぐに辞任。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

 

  • 1898(明治31)年1月12日 - 1898(明治31)年6月30日 伊藤博文(58歳)、第3次伊藤博文内閣。6月、衆議院を解散。閣議で政党結成の意思表明、新党結成を唱えるも山縣有朋の反対に遭い首相辞任。

  • 1898(明治31)年 外山正一(51歳)、第3次伊藤博文内閣の文部大臣に就任。2ヶ月で退任。

1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令

中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める​。

  • 1900(明治33)年9月 伊藤博文(60歳)、日本最初の本格的政党内閣を組織した政党、立憲政友会創立。初代総裁に。

  • 1900(明治33)年10月19日 - 1901(明治34)年6月2日 伊藤博文(60-61歳)、第4次伊藤内閣。立憲政友会メンバーを大勢入れ発足するも、政党としての内実が整わない状態での組閣だったために内部分裂を引き起こす。首相辞任。

  • 1904(明治37)年 伊藤博文(64歳)、日清戦争後、対露宥和政策をとる。陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張。桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対。自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するも、ロシア側から拒否。日露戦争を巡り、金子堅太郎をアメリカに派遣。大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼。これが翌1905(明治38)年のポーツマス条約に結びつくことに。

  • 1905(明治38)年11月 - 1909(明治42)年6月 伊藤博文(65-69歳)、第二次日韓協約により韓国統監府設置、初代統監に。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握。国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立。韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、当初は併合反対の立場を取る。韓国民の素養を認め、韓国の国力・自治力が高まることを期待、文盲率が94%にも上った韓国での教育にも力を注ぐ。しかし、朝鮮内で独立運動である義兵闘争が盛んになるにつれ考え方を変え、韓国併合の大綱を是認。韓国総監を辞任。

  • 1905(明治38)年 渋沢栄一(66歳)徳川慶喜・伊藤博文らを飛鳥山邸(曖依村荘)に招待。茶室・無心庵にて午餐会。

  • 1909(明治42)年10月26日 伊藤博文(69歳)、ハルビン駅で安重根に暗殺される。享年69歳。

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