大学校・文部省文部省 | 『学制百年史』文部省 -3明治四年、廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府として同年七月文部省が設置された。これから文部省が全国の諸学校をすべて統轄する制度となった。 文部省の長官としては初めに江藤新平が文部大輔となったが、間もなく大木喬任が文部卿となり、...
昌平坂学問所(昌平黌)昌平坂学問所(昌平黌) | 『学制百年史』文部省 -2幕府は、江戸にさまざまな目的をもつ学校を開設して偉容を示していたが、直轄地には、それぞれに学校を設立していた。江戸に開設されていた幕府の学校のうち最も重要な地位を占めていたのは昌平坂学問所であった。この学校は、儒学を修めることを目的とした学校であって、林家の学者を大学頭に任...
学生(~江戸幕末)学生(~江戸幕末) | 『学制百年史』文部省 -1明治五年の学制による近代教育制度の創始は、わが国教育史上に一時期を画するものであった。しかしわが国においては、明治以前に多数の近世学校が設けられていた。近世学校の発端は室町時代に認められるが、江戸時代にこれらの学校が発達し、近世学校の体制がつくられていた。...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -25ソレから明治十五年に時事新報と云《い》う新聞紙を発起しました。丁度《ちょうど》十四年政府変動の後で、慶応義塾先進の人達が私方に来て頻《しき》りにこの事を勧める。私も亦《また》自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互《あい...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -24勤王佐幕など云《い》う喧《やかま》しい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字《もんじ》でも分る奴は皆役人になりたいと云う。仮令《たと》い役人にならぬでも、兎《と》に角《かく》に政府に近づいて何か金儲でもしようと云う...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -23私の考《かんがえ》は塾に少年を集めて原書を読ませる計《ばか》りが目的ではない。如何様《いかよう》にもしてこの鎖国の日本を開《ひらい》て西洋流の文明に導き、富国強兵|以《もっ》て世界中に後《おく》れを取らぬようにしたい。 左《さ》りとて唯《ただ》これを口に言うばかりでなく、近...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -22慶応義塾が芝《しば》の新銭座《しんせんざ》を去て三田の只《ただ》今の処に移《うつっ》たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。 その前年五月私が酷《ひど》い熱病に罹《かか》り、病後神経が過敏になった所為《せい》か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -21畢竟《ひっきょう》私がこの日本に洋学を盛《さかん》にして、如何《どう》でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶応義塾を西洋文明の案内者にして、恰《あたか》も東道の主人と為《な》り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせ...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -20新銭座《しんせんざ》の塾は幸に兵火の為《た》めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々|喧《やかま》しい。明治元年の五月、上野に大《おお》戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席《よせ》も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞《しまっ》て、八百八町は真の闇、...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -19扨《さて》鉄砲洲《てっぽうず》の塾を芝《しば》の新銭座《しんせんざ》に移したのは明治元年|即《すなわ》ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取《とっ》て慶応義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛《さかん》になる。塾が盛になって生徒が多くな...
慶應義塾慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -18扨《さて》四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞《しまっ》て、残《のこっ》た者は僅《わずか》に十八人、夫れから四月になった所が段々|帰《かえっ》て来て、追々塾の姿を成して次第に盛《さかん》になる。又盛になる訳《わ》けもある、と云《...
学生(~江戸幕末)学生(~江戸幕末) | 『福翁自伝』福沢諭吉 -17井伊掃部頭《いいかもんのかみ》はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》が浪人に疵《きず》を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込《かけこ》んだとか何とか云《い》う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張《やは》り攘夷の仲間に這...