新銭座《しんせんざ》の塾は幸に兵火の為《た》めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々|喧《やかま》しい。明治元年の五月、上野に大《おお》戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席《よせ》も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞《しまっ》て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷《や》めない。上野ではどん/″\鉄砲を打《うっ》て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛《とん》で来る気遣《きづかい》はないと云うので、丁度あの時私は英書で経済《エコノミー》の講釈をして居ました。大分|騒々敷《そうぞうし》い容子《ようす》だが烟《けぶり》でも見えるかと云うので、生徒|等《ら》は面白がって梯子《はしご》に登《のぼっ》て屋根の上から見物する。何でも昼から暮《くれ》過ぎまでの戦争でしたが、此方《こちら》に関係がなければ怖い事もない。
此方《こっち》がこの通りに落付払《おちつきはらっ》て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと云《い》う気風は何処《どこ》かに流行して、上野の騒動が済《す》むと奥州の戦争と為《な》り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\盛《さかん》になりました。顧《かえり》みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛《ゆくえ》が分らぬ位、況《ま》して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中|苟《いやしく》も書を読《よん》で居る処は唯《ただ》慶応義塾ばかりと云う有様《ありさま》で、その時に私が塾の者に語《かたっ》たことがある。
「昔し/\拿破翁《ナポレオン》の乱に和蘭《オランダ》国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度《インド》地方まで悉《ことごと》く取られて仕舞《しまっ》て、国旗を挙《あ》げる場所がなくなった。所が、世界中|纔《わずか》に一箇処を遺《のこ》した。ソレは即《すなわ》ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭《ひゃくしゃくかんとう》に飜々《へんぺん》して和蘭王国は曾《かつ》て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が誇《ほこっ》て居る。シテ見るとこの慶応義塾は日本の洋学の為《た》めには和蘭の出島と同様、世の中に如何《いか》なる騒動があっても変乱があっても未《いま》だ曾《かつ》て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ慶応義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着《とんじゃく》するな」と申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。