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ダイガクコトハジメ - 下田歌子

下田歌子

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  • 1854(嘉永7/安政元)年9月29日(旧暦・8月8日) 下田歌子(1歳)、美濃国(現・岐阜県)に岩村藩士の子として生まれる。出生名、平尾鉐。

  • 下田歌子(5歳)、勤王派藩士の父が蟄居謹慎を命じられるも、苦難の中で祖母から読み書きを習う。俳句と漢詩を詠み、和歌を作るなど神童ぶりを発揮。

  • 1860(安政7/万延元)年 下田歌子(7歳)、桜田門外の変を聞き、「桜田に 思い残りて 今日の雪」と詠む。

  • 下田歌子、中国書『二十四孝』に「両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せた」という内容があり、実際に実行。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1871(明治4)年 下田歌子(18歳)、祖父と父が明治新政府より招聘されたことを受けて、東京へ。国境・三国山の峠にて、「綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ」と詠む。

  • 下田歌子、八田知紀をはじめ和歌を学ぶ、また祖父・東条琴台より漢学・古典を教わる。

  • 1872(明治5)年 下田歌子(19歳)、八田知紀その他多くの人々からの推挙を受け、女官に抜擢、宮中へ出仕。武家の子として身に付けた礼儀作法、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能により昭憲皇太后から寵愛される。歌子の名を賜る。 宮廷で和歌を教えるように。

  • 1876(明治9)年、皇族・華族のための教育機関として、改めて学校を整備。華族学校に名称変更。

  • 1877(明治10)年10月、華族学校より改めて学習院に改名。神田錦町に皇族・華族の教育機関として学習院設立。明治天皇、「学習院」勅額を下賜。

  • 1879(明治12)年 下田歌子(26歳)、旧丸亀藩士の剣客・下田猛雄と結婚、宮中出仕を辞す。

  • 1882(明治15)年7月 津田梅子(19歳)、私立女学校アーチャー・インスティチュート卒業。同年11月、岩倉遣欧使節団派遣より10年超におよぶ留学より日本帰国。

  • 津田梅子、帰国するも、儒学の価値観が色濃く残る日本において、女子留学生が活躍できる場は乏しく。山川捨松・永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁す。幼少からの長い留学生活により、日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった。

  • 1882(明治15)年 下田歌子(29歳)、夫・下田猛雄が病に臥す。看病の傍ら、東京九段の自宅にて桃夭女塾(実践女子大学の源流)開講。日本における私学女子教育の先駆けに。時の政府高官の殆どがかつての勤王志士であり、妻の多くが芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教える。

1884(明治17)年4月 学習院、宮内省所轄の官立学校に

学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で、華族の子弟なら原則として無償で入学することができた。学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致しないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当。

  • 1884(明治17)年5月 谷干城(48歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、学習院第2代院長として復帰。かねてより華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛(守護)となることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も。政治・外交にも長けた多様な人材育成を目指す。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

  • 1884(明治17)年 下田歌子(31歳)、夫・下田猛雄が病死。桃夭女塾の実績と皇后の推薦により、華族の子女を教える新設の華族女学校(現・学習院女子大学)教授に。翌年、学監に。古式ゆかしい儒教的な教育を施す。

  • 1885(明治18)年8月、昭憲皇太后の近代日本に相応しい、質実剛健で徳育に基本を置いた上流女子教育をという令旨により、四谷区尾張町に華族女学校開校。

  • 1888(明治21)年 津田梅子(25歳)、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日。留学を薦められ、再度の留学を決意。父・津田仙の知人、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介により、留学希望を伝え学費免除の承諾を得る。華族女学校校長・西村茂樹より、2年間の留学を許可される。

  • 1889(明治22)年7月 津田梅子(26歳)、再び渡米。進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、ブリンマー・カレッジで生物学専攻。使命であった教授法に関する研究は、オズウィゴー師範学校で学ぶ。

  • 津田梅子、アリス・ベーコンがアメリカ帰国。日本習俗に関心を持ち、日本女性を研究。『日本の女性』出版を手助けする。これが、日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。日本女性留学のための奨学金設立を発起、公演や募金活動など行う。

  • 1893(明治26)年春 下田歌子(40歳)、常宮・周宮両内親王の御養育主任・佐々木高行より、皇女教育のため欧米教育視察を拝命。皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することを目論む。

  • 1893(明治26)年9月 下田歌子(40歳)、イギリス・ブライトンで英語学校へ通う。12月、ロンドンへ。ヴィクトリア女王の女官を務めるエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得る。ヴィクトリア女王の孫娘が受ける教育と母親たちの生活に触れる。

  • 下田歌子、ヴィクトリア女王一家が市井の人々と親しく交わる姿や、ヴィクトリア女王が主婦として家庭を支える姿に強い感銘を受ける。出会う女性たちのその背景に、教育と生活習慣があることを知る。

  • 1894(明治27)年 下田歌子(41歳)、皇女教育の目的を越え、一般女学校への視察を始める。

  • 1895(明治28)年春 下田歌子(42歳)、チェルトナム・レディーズ・カレッジで校長ドロシア・ビールと面会。その人格と学問の深さ、教育に対する高い理念に感銘を受ける。その後、ケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジと女子教育養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジを視察。さらに湖水地方、スコットランド、フランス、ドイツ、イタリアなど大陸の女子学校を訪問。

  • 下田歌子、洋行視察を経て、キリスト教信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていると理解する。また、育児・教育学・衛生・生理・看護法に関する知識は、実利主義の下で最新の科学が背景にあることを理解する。

  • 1895(明治28)年5月8日 下田歌子(42歳)、ヴィクトリア女王との謁見を果たす。

  • 1895(明治28)年8月 下田歌子(42歳)、日本帰国。皇女教育を巡る宮中の勢力争いの渦中に。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

  • 1898(明治31)年11月 下田歌子(45歳)、当時日本の一般女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛める。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」と、帝国夫人協会設立。

  • 1899(明治32)年1月 下田歌子(46歳)、麹町元岡町に帝国夫人協会の事務所開設。12月、機関紙『日本婦人』創刊。

1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令

中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める​。

  • 1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。

  • 1902(明治35)年 下田歌子(49歳)、実践女学校(現・実践女子大学)に清国女子速成科設置。清国より留学生を受け入れ。常磐松御用地(現・渋谷区東)に校舎を新築・移転。

  • 1902(明治35)年 下田歌子(49歳)、大日本通信高等女学校の教科書編纂を指導。三段式教授法を用いる。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1906(明治39)年 下田歌子(53歳)、華族女学校学習院に統合。陸軍大将・乃木希典が院長に。方針を巡って対立。

  • 1907(明治40)年12月 下田歌子(54歳)、勲四等宝冠章に叙せられる。

  • 1908(明治41)年 下田歌子(55歳)、従三位に叙せられる。

  • 1918(大正7)年 下田歌子(65歳)、板垣退助の妻・絹子に招聘され、東京広尾に創設の順心女学校の初代校長に。

  • 1927(昭和2)年 下田歌子(74歳)、勲三等瑞宝章に叙せられる。

  • 1936(昭和11)年10月8日 下田歌子(83歳)、死去。享年83歳。生涯を女子教育振興に捧げ、実践女子学園の基礎を築く。

下田歌子

しもだうたこ

1854(嘉永7/安政元)年9月29日(旧暦・8月8日) - 1936(昭和11)年10月8日

教育者・歌人、桃夭女塾(実践女子大学の源流)創立、帝国夫人協会創立、実践女学校(現・実践女子大学)創立、華族女学校(現・学習院女子大学)教授・学監、学習院女学部長、順心女学校初代校長、「明治の紫式部」

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