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西周

出身校

  • 津和野藩校・養老館

  • ライデン大学

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参考情報

参考文献・書籍

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  • 1829(文政12)年3月7日(旧暦・2月3日) 西周(1歳)、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)に御典医・西時義とカネの長男として生まれる。

  • 西周、若くして朱子学を学ぶ。荻生徂徠に啓発される。

  • 1841(天保12)年 西周(13歳)、津和野藩校・養老館で学ぶ。

  • 島村鼎甫、大阪にて後藤松陰に儒学を学ぶ。曽根崎に寄宿、西周と同宿。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事お呼び外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 西周(26歳)、ペリーの来航により洋学・蘭学の必要性を痛感。洋学に専念するため、脱藩。杉田成卿・手塚律蔵に英学を学ぶ。英語の発音を中浜万次郎に学ぶ。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 蕃書調所にて、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1857(安政4)年 西周(29歳)蕃書調所の教授並手伝に。津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。

  • 1862(文久2)年 堀達之助(40歳)、教授主任に。西周・千村五郎・竹原勇四郎・箕作麟祥らが編纂に参加、蕃書調所より『英和対訳袖珍辞書』刊行。日本初の英和辞書に。

  • 1862(文久2)年 西周(34歳)、幕命により津田真道・榎本武揚らと共にオランダ留学。ライデン大学にてシモン・フィッセリングに法学を学ぶ。カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。

  • 1865(元治2/慶応元)年 西周(37歳)、オランダより帰国。開成所教授に。

  • 1866(慶応2)年 西周(38歳)、徳川慶喜の側近・政治顧問として京都へ。私塾設立、哲学講義。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年 西周(40歳)、徳川家が開設した沼津兵学校の初代校長就任。

  • 1868(慶応4/明治元)年 西周(40歳)、ライデン大学教授フィッセリングの万国公法講義筆記、『万国公法』訳刊。

  • 1870(明治3)年10月22日(旧暦・9月28日) 西周(42歳)、明治新政府に乞われ、兵部省に出仕。軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立に努める。文部省・宮内省など官僚歴任。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1873(明治6)年7月 森有礼(27歳)、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長就任。

  • 1874(明治7)年3月 森有礼(28歳)明六社にて機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たす。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散。後に、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院に至る。

  • 1874(明治7)年3月 西周(46歳)、明六社にて機関紙『明六雑誌』発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力。『洋字を以て国語を書するの論』発表。

  • 1874(明治7)年7月 西周(46歳)、形式論理学に関する最初の解説書『致知啓蒙』刊行。

  • 1875(明治8)年3月 西村茂樹(48歳)、『明六雑誌』にて『修身治国非二途論』発表。

  • 1875(明治8)年4月-1876(明治9)年9月 西周(47-48歳)、ヘヴン著西訳『心理学』刊行。

  • 1875(明治8)年6月-10月 西周(47歳)、『明六雑誌』にて『人世三宝説』発表。

1879(明治12)年 東京学士会院設立

文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直西周福澤諭吉箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉

  • 1879(明治12)年 福澤諭吉(45歳)東京学士会院(現・日本学士院)設立。初代会長

  • 1879(明治12)年6月 西周(51歳)、東京学士会院(現・日本学士院)第2代会長就任。

  • 1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。

  • 1882(明治15)年6月 西周(54歳)、東京学士会院(現・日本学士院)第4代会長就任。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1883(明治16)年 品川弥二郎(41歳)、北白川宮能久親王を会長、自身を委員長に獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。学校運営において中心的役割を果たす。

  • 1887(明治20)年 西周(59歳)、健康上の理由により、文部省・陸軍省・東京学士会院(現・日本学士院)会員の公職辞職。

  • 1890(明治23)年9月29日 西周(62歳)、貴族院勅選議員に選任される。

  • 1897(明治30)年 西周(69歳)、勲一等瑞宝章受勲。男爵に。

  • 1897(明治30)年1月31日 西周(69歳)、死去。享年69歳。

西周

にしあまね

1829(文政12)年3月7日(旧暦・2月3日) - 1897(明治30)年1月31日

蕃書調所・開成所(現・東京大学)教授、沼津兵学校頭取、兵部省・文部省・宮内省官僚、明六社設立発起人東京学士会院(現・日本学士院)会長、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)初代学長、元老院議官、貴族院議員

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