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ダイガクコトハジメ - 長崎海軍伝習所

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長崎海軍伝習所年表

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学校略歴

  • 1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日)、黒船来襲(ペリー来航)、一気に政局が混乱、翌年にペリー再来航、日米和親条約締結

  • 1853(嘉永6)年、安政の改革、江戸幕府老中首座・阿部正弘、、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募る、勝海舟らが・西洋式兵学校設立など意見書提出

  • 1853(嘉永6)年、江川英龍・岩瀬忠震・勝海舟・大久保忠寛(一翁)、永井尚志が海岸防禦御用掛に

  • 1855(安政2)年、長崎海軍伝習所設立、総監理に永井尚志、オランダ人教官隊によりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学、またその基礎として西洋数学・天文学・地理学なども授けられる、幕臣のみならず諸藩からも多数の者が伝習に参加、幕末維新期の指導的人材を数多輩出

  • 1855(安政2)年12月1日、第一回伝習、オランダに発注の蒸気船2隻(咸臨丸・朝陽丸)の員養成

  • 1857(安政4)年、第二回伝習

  • 1857(安政4)年3月、江戸から離れた長崎で伝習所を維持することが幕府の財政負担に築地に軍艦操練所新設

  • 1857(安政4)年11月12日、第二次海軍伝習隊と共にオランダ軍医ポンぺ来日、幕府医官・松本良順らを中心に医学伝習所創立

医学伝習所

  • 1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉校、設置期間は短かったものの、西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たす

  • 1860(安政7)年、万延元年遣米使節、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める、同行の福澤諭吉「日本人の手で成し遂げた壮挙」

創立者

 

学校年表

1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。

  • 1853(嘉永6)年 老中首座・阿部正弘、江川英龍・岩瀬忠震・勝海舟・大久保忠寛(一翁)、永井尚志を海岸防禦御用掛へ任用。幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせる。

  • 1853(嘉永6)年10月8日 永井尚志(38歳)、目付に。海防掛を兼帯。砲台普請・大砲製鋳等を担当。

  • 1855(安政2)年1月18日 勝海舟(33歳)、目付兼海防掛・大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられる。

  • 1855(安政2)年 勝海舟(33歳)、勘定奉行・石河政平と大久保忠寛(一翁)が命じられた大阪湾検分調査に参加。

1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立

ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志

 

  • 長崎海軍伝習所にて、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。

  • 1855(安政2)年7月29日 永井尚志(40歳)、長崎に新設された海軍士官養成機関・長崎海軍伝習所総監理に。長崎赴任。長崎製鉄所設立に着手するなど活躍。

  • 1855(安政2)年10月20日 勝海舟(33歳)長崎海軍伝習所入所。オランダ語が堪能であった為、教監も兼ねる。伝習生とオランダ人教官の連絡役も担う。第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。

  • 1855(安政2)年12月1日、日蘭和親条約締結、第一回の伝習が行われる。第一期生として幕府伝習生37名、諸藩の伝習生128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が参加。オランダに発注した蒸気船2隻(後の咸臨丸・朝陽丸)の乗員養成が図られる。

  • 1857(安政4)年、第二回の伝習が行われる。

1857(安政4)年3月 築地に軍艦操練所新設

永井尚志をはじめ多数の幕府伝習生が長崎海軍伝習所より教員として動員され、長崎海軍伝習所生は45名程に勝海舟は留任。江戸から遠い長崎で伝習所を維持することが財政負担となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになる。

 

 

  • 1857(安政4)年5月 永井尚志(42歳)長崎海軍伝習所での功績が賞され、江戸に呼び戻される。勘定奉行(勝手掛)に。江戸詰にて長崎御用を兼帯。

  • 1857(安政4)年11月12日、第二次海軍伝習隊と共に、オランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら12名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。

  • 1857(安政4)年11月12日 松本良順(26歳)、幕府より長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く。医学伝習所創立に奔走。オランダ軍医・ポンペより蘭学・蘭医を学ぶ。

  • 1858(安政5)年7月29日 永井尚志(43歳)、岩瀬忠震と共に外国奉行に。ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行う。

 

  • 1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、長崎滞在中に薩摩藩主・島津斉彬の知遇を得る。幕末における自身の行動に大きな影響を及ぼす。

  • 1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、安政の大獄、自身を推挙した大久保一翁が左遷にあうも、長崎にいるため難を逃れる。大獄を主導した大老・井伊直弼の政治手法、南紀派と一橋派の政争を批判。

  • 1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、外国奉行・永井尚志と水野忠徳の遣米使節建言を受け、渡米希望を伝える。受諾され、長崎より朝陽丸で帰府。軍艦操練所教授方頭取に命じられ、海軍技術を教える。

  • 1859(安政6)年2月24日 永井尚志(44歳)、外国奉行の功績より、軍艦奉行に転進。直後の将軍後継者争いにて一橋慶喜を支持する一橋派に組する。

1858(安政5)年 - 1859(安政6)年 安政の大獄

幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝ら、勅許を得ないまま日米修好通商条約調印。将軍継嗣、徳川家茂に決定。これに反対した尊王攘夷派や一橋派の大名・公卿・志士を弾圧。連座した者は100人以上に。

1860(安政7)年3月3日、桜田門外の変にて井伊直弼殺害、弾圧収束。

  • 1859(安政6)年8月27日 永井尚志(44歳)、一橋慶喜支持を理由に、南紀派の大老・井伊直弼によって軍艦奉行を罷免され、失脚。隠居差控の処分を受ける。

  • 1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉鎖。設置期間は短かったが、江戸時代においてオランダを通じて西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たした。洋学者の多くは先ずは長崎で蘭学を学ぶことに。

1860(安政7)年 万延元年遣米使節

1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。

  • 1860(安政7/万延元)年 勝海舟(38歳)万延元年遣米使節、アメリカ海軍・ポーハタン号の護衛艦として、咸臨丸を操舵。サンフランシスコに渡る。同行した福澤諭吉、「日本人の手で成し遂げた壮挙」。

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