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ダイガクコトハジメ - 堀達之助

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  • 1823(文政6)年 堀達之助(1歳)、肥前長崎にオランダ語通詞・中山武徳と陳の五男として生まれる。後に通詞・堀政信の養嗣子に。

  • 堀達之助、西吉兵衛に蘭学を学ぶ。

  • 1845(弘化2)年 堀達之助(23歳)、江戸幕府小通詞末席に。

  • 1848(弘化5/嘉永元)年 堀達之助(26歳)、米国捕鯨船員のラナルド・マクドナルドより、日本で初めて英語を学んだとされる。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1853(嘉永6)年 堀達之助(31歳)、黒船来航、浦賀奉行所与力・中島三郎助と共に交渉担当。米国側通訳のオランダ人アントン・ポートマン(後に駐日米国代理公使)を介し、オランダ語で交渉を行う。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 堀達之助(32歳)、米国東インド艦隊の再来航時にも活躍、米国側からも好評価を受ける。日米和親条約の翻訳にも関与。締結後、下田詰めに。下田滞在時にドイツ商人リュードルフが、ドイツ(プロイセン、オーストリアおよびドイツ関税同盟諸国)も米英露と同様の条約を締結したい旨を要求。書簡を幕閣に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ、入牢処分に。この事件は冤罪と言われる。獄中、吉田松陰と文通。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1859(安政6)年 古賀謹一郎(44歳)、入獄中の堀達之助の才能を惜しみ、便宜を図って出獄させる。日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせる。 

  • 1860(安政7/万延元)年 堀達之助(38歳)、蕃書調所筆記方兼務。外国新聞の翻訳作業に従事。『官板バタビヤ新聞』発行、日本初の新聞に。

  • 1860(安政7/万延元)年12月 吉田賢輔(23歳)蕃書調所筆記方出仕に。取締兼任。蘭英書を翻訳。海外の新聞を口訳、筆記方が筆記した後に出版。日本における新聞の始まりと言われる。

  • 1861(万延2/文久元)年 堀達之助(39歳)、西周と共に、教授方就任。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

  • 1862(文久2)年 古賀謹一郎(47歳)、御留守居番に就任。同時に、蕃書調所頭取を解任される。原因は不明。以後4年間失職、不遇の内に過ごす。

  • 1862(文久2)年 堀達之助(40歳)、教授主任に。西周・千村五郎・竹原勇四郎・箕作麟祥らが編纂に参加、蕃書調所より『英和対訳袖珍辞書』刊行。日本初の英和辞書に。

  • 1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、洋書調所開成所に改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。

  • 1863(文久3)年 堀達之助(41歳)、開成所教授に。

 

  • 1865(元治2/慶応元)年 堀達之助(43歳)、箱館赴任、箱館奉行通詞に。箱館洋学所で英語通詞を育成。函館文庫を作り、箱館奉行所の洋書の保存に努める。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 堀達之助(46歳)、箱館裁判所参事席、文武学授掛に就任。

  • 1870(明治3)年 堀達之助(48歳)、開拓大主典に。

  • 堀達之助、開拓吏時代、豪商・柳田藤吉が函館に創立した北門社郷塾および開拓使立函館学校の教師に。

  • 1872(明治5)年 堀達之助(50歳)、一等訳官に。

  • 1872(明治5)年 堀達之助(50歳)、長崎に戻る。

  • 1894(明治27)年1月3日 堀達之助(72歳)、死去。享年72歳。

堀達之助

ほりたつのすけ

1823(文政6)年12月24日(旧暦・11月23日) - 1894(明治27)年1月3日

通詞、蕃書調所東京大学の源流)教授主任、開成所教授、北門社郷塾教師

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