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ダイガクコトハジメ - 杉田成卿

杉田成卿

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年表

杉田成卿

すぎたせいけい

1817(文化14)年12月18日(旧暦・11月11日) - 1859(安政6)年3月23日(旧暦・2月19日)

天文台訳員、藩書調所東京大学の源流)教授

  • 1817(文化14)年12月18日(旧暦・11月11日) 杉田成卿(1歳)、江戸浜町に西洋眼科医であった杉田立卿の子として生まれる。祖父は、杉田玄白。

  • 杉田成卿(幼少時)、学業に優れ、儒学を萩原緑野、蘭書を名倉五三郎などに学ぶ。

  • 1836(天保7)年 杉田成卿(20歳)、坪井信道に蘭学を学ぶ。人格的にも深い感化を受ける。

  • 1840(天保11)年 杉田成卿(24歳)、天文台訳員に。

  • 1843(天保14)年 杉田成卿(27歳)、老中・水野忠邦よりオランダの政治書(国憲)翻訳を命じられる。水野忠邦が失脚、この書は日の目を見ず。

  • 1843(天保14)年 杉田成卿(27歳)、『海上砲術全書』訳述。

  • 1844(天保15/弘化元)年 杉田成卿(28歳)、幕府に開国を求めるオランダ国王からの親書翻訳。

  • 1845(弘化2)年 杉田成卿(29歳)、西洋眼科医であった父・杉田立卿の後を継ぎ、若狭国小浜藩主の侍医に。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1853(嘉永6)年 杉田成卿(37歳)、アメリカ大統領からの国書翻訳。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事お呼び外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 杉田成卿(38歳)、天文台役員を辞す。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 西周(26歳)、ペリーの来航により洋学・蘭学の必要性を痛感。洋学に専念するため、脱藩。杉田成卿・手塚律蔵に英学を学ぶ。英語の発音を中浜万次郎に学ぶ。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 蕃書調所にて、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1857(安政4)年 杉田成卿(41歳)、蕃書調所東京大学の源流)教授に。砲術書など訳出、本格的蘭和辞典の編纂などに尽力。

  • 1859(安政6)年 杉田成卿(43歳)、死去。享年43歳。

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