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ダイガクコトハジメ - 大阪大学

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参考情報

参考文献・書籍

年表 | 適塾懐徳堂動画

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大阪大学医学部略歴

  • 1838(天保9)年3月、緒方洪庵、医業開業、蘭学塾・適塾創立、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針に

​→ 適塾(適々斎塾

​→ 京都大学

  • 1869(明治2)年2月、適塾元塾生らを中心に仮医学校設立

  • 1869(明治2)年8月、大阪府医学校設立

  • 1870(明治3)年、大学(後に文部省)の管轄に、大阪医学校に改称

  • 1872(明治5)年、学制公布に伴い中学校へと改組、第四大学区医学校

  • 1872(明治5)年10月2日、「医学教育を第一大学区医学校に一元化・集中させる」という文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が突然の廃校に、日本の医学教育についてドイツ医学への統一が図られる

  • 1880(明治13)年、大阪公立病院は府立大阪病院と改称、教授局を分離、府立大阪医学校設立

  • 1888(明治21)年、大阪医学校に改称

  • 1903(明治36)年9月、専門学校令に基づき、大阪府立高等医学校に改組

  • 1915(大正4)年4月、大阪に官立大学を望む声は大きく、先ずは大阪府立高等医学校の大学昇格を果たす、府立大阪医科大学に改組

  • 1919(大正8)年、大学令に基づき、大阪医科大学に昇格

  • 1942(昭和17)年9月、適塾が緒方家から国・大阪帝国大学に寄付される

大阪大学文系学部略歴

  • 1724(享保9)年5月、三宅石庵、門弟であった大坂の有力町人・五同志、中井甃庵とはかり、懐徳堂大阪大学文系学部の源流)創立

懐徳堂

  • 1726(享保11)年、中井甃庵、江戸幕府より官許を得、大坂学問所として認可される、大坂の有力町人・五同志を中心とする運営が基本となり、半官半民の体制を継続

  • 1782(天明2)年、中井竹山懐徳堂第4代学主に、上方を代表する学者として兄と共に並び称される中井履軒と共に全盛期を築く

  • 1788(天明8)年6月、中井竹山、昌平坂学問所(昌平黌)と同じく官立学問所を目指す、「寛政の三博士」と呼ばれる柴野栗山尾藤二洲古賀精里と親交、中井履軒と共に全盛期を築く

  • 1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日)、寛政異学の禁、江戸幕府が朱子学を正学(官学)に定める

  • 1869(明治2)年、幕末維新の動乱により懐徳堂閉校、40余年の歴史を閉じる

  • 1916(大正5)年、西村天囚大阪財界や政界に働きかけ、重建懐徳堂再建、長く帝国大学が設置されなかった大阪において、事実上唯一の文科大学としての機能を担うことに

大阪大学工学部略歴

  • 1896(明治29)年10月、東京工業学校(現・東京工業大学)に続く2番目の官立工業学校として、大阪工業学校(現・大阪大学工学部)創立、大阪の産業発展に大きく貢献

  • 1901(明治34)年、大阪高等工業学校に改称

  • 1919(大正8)年1月、大学昇格運動勃発

  • 1929(昭和4)年4月1日、大学令および官立工業大学官制に基づき、大阪工業大学に昇格

大阪帝国大学・大阪大学略歴

  • 1931(昭和6)年4月、国内6番目の帝国大学として、大阪医科大学を母体に大阪帝国大学発足、帝国大学の成立には2学部以上を備えることが要件に、大阪工業大学を工学部・塩見理化学研究所を理学部とする医学部・工学部理学3学部を構想、大阪工業大学の合併が遅れ、医学部理学2学部で発足

  • 1934(昭和9)年、大阪工業大学を合併、医学部・工学部理学部学部体制に

  • 1949(昭和24)年5月、国立学校設置法より、大阪帝国大学を母体に旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校など統合新制・大阪大学発足、文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部と一般教養部からなる重建懐徳堂の貴重な資料等と職員を移管し充実した文系学部の基盤が作られる

適塾(適々斎塾)創立者

懐徳堂創立者

学校総称

​学校年表

1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

  • 1724(享保9)年5月 三宅石庵(60歳)、門弟であった大坂の有力町人・五同志は中井甃庵とはかり、尼崎町一丁目北側(現・今橋三丁目)の道明寺屋吉左衛門(富永芳春)隠宅に懐徳堂大阪大学文系学部の源流)を創立。初代学主に迎えられ、初期懐徳堂の基礎を築く。朱子学を中心とする中国の思想を基礎としながらも諸学の良い点は何でも折衷して取り入りる学風より、「鵺学問」とも称される。

 

懐徳堂

  • 1726(享保11)年 三宅石庵(62歳)中井甃庵の奔走により、江戸幕府より官許を得る。懐徳堂が大坂学問所として認可される。大坂の有力町人・五同志を中心とする運営が基本となり、半官半民の体制が継続される。

  • 1726(享保11)年 中井甃庵(34歳)、三輪執斎を頼り、懐徳堂の官許獲得に奔走。大坂町奉行より官許を得る。初代学主に、三宅石庵。学問所預人に就任。

  • 中井履軒、上方を代表する学者として、兄・中井竹山と並び称される。古典・経学の注釈の第一人者であり、また天文学・解剖学など西洋科学にも通じる。西洋天文学者・麻田剛立を寄寓させ、多くを学ぶ。天文学説としては、ティコ・ブラーエの宇宙モデルを支持。懐徳堂学派で最大の学問的業績を残す。懐徳堂文人の特色とされる合理的・近代的な学風が確立される。

  • 1782(天明2)年5月16日 中井竹山(53歳)、大坂大火、懐徳堂が全焼。再建にあたり、念願の官学化を幕府に陳情するため江戸へ。老中・松平定信に会う事出来ず、願書を奉行所に提出するに留まる。幕府からの再建補助は300両という金額に抑えられ、官学化どころか、学舎再建にも窮する。門人らの寄贈により懐徳堂の再建が叶う。

  • 1787(天明7)年 柴野栗山(52歳)、江戸幕府老中・松平定信より招聘され、幕臣に。岡田寒泉と共に湯島聖堂取締に。大学頭・林信敬を補佐、朱子学による学風の統一・刷新と学制の整備に当たる。

  • 1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)懐徳堂大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。

  • 1790(寛政2)年 柴野栗山(55歳)、寛政の改革を進める江戸幕府老中・松平定信に湯島聖堂をはじめとする教育機関における朱子学の復興、異学の禁止を建議。寛政異学の禁を指導。

1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁

江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学が不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の威信を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。
林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。

朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。

1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立

学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山尾藤二洲古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。

  • 1836(天保7)年 緒方洪庵(27歳)、長崎遊学。オランダ人医師ニーマンに医学を学ぶ。この頃より、洪庵と号す。

  • 緒方洪庵適塾(適々斎塾)の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。

  • 緒方洪庵適塾(適々斎塾)の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。

 

​→ 適塾(適々斎塾

1839(天保10)年 蛮社の獄

「蛮社」は洋学仲間の意、「蛮学社中」の略。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。

  • 1844(天保15/弘化元)年 緒方洪庵(35歳)適塾(適々斎塾)入門者署名帳『姓名録』に記載されただけで636人、このほかに通いの塾生や1843年以前の門人等を含めると、資料で判明している限りでも、子弟は1000名を超えるものと推定される。

  • 1845(弘化元/弘化2)年 緒方洪庵(36歳)、名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増えた為、瓦町の塾では手狭に。過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入、適塾(適々斎塾)移転。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立

江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎

1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令

幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。

  • 1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。

  • 1858(安政5)年6月5日(旧暦・4月24日) 緒方洪庵(49歳)、天然痘予防の活動を幕府が公認。牛痘種痘が免許制に。

1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足

種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎

  • 1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。

  • 1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。

  • 1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。

  • 1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。

  • 1865(元治2/慶応元)年春 松本良順(34歳)、ポンペの教えに従い、医学所の組織を整備拡充、7科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く。

  • 1865(元治2/慶応元)年 緒方惟準(23歳)、幕府の命により、オランダ留学。ユトレヒト大学で学ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1868(慶応4/明治元)年7月 緒方惟準(26歳)、幕府崩壊の報を受け帰国。京都朝廷の命により、典薬寮医師、玄蕃少允に。

  • 1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、医学所医学校に改称。翌年1月より、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月 何礼之(29歳)、明治新政府に出仕。開成所御用掛・訳官に。次いで大阪行きを命じられ、外国事務局・小松清廉(小松帯刀)を補佐する一等訳官に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 何礼之(29歳)、『仮語学所積高』提案。大阪府に舎密局・医学館・語学所から成る大学校設置を計画。

1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収

明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。

1868(慶応4/明治元)年、大阪府知事・後藤象二郎と参与兼外国宮副知事・小松帯万により、理化学校の大阪移設が建言される。明治新政府は舎密局(京都大学の源流)として大阪移設を決定。開成所御用掛の田中芳男・神田孝平・箕作麟祥何礼之助、教師ハラタマと生徒数名を派遣。

​→ 京都大学

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される

 

適塾(適々斎塾

  • 1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。

  • 明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。

  • 1869(明治2)年2月、大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現・大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および適塾(適々斎塾)元塾生らを中心とする仮医学校(後に大阪医学校、現・大阪大学医学部)設立。院長に緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。

  • 1869(明治2)年2月 緒方惟準(27歳)医学校・大病院の取締を辞し、大阪の医学伝習御用掛に。浪華仮病院(現・大阪大学医学部)院長就任。オランダ軍医・ボードインと共に病院運営にあたる。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年8月、浪華仮病院が法円坂の鈴木町代官屋敷跡に移転。大阪府病院竣工。大阪府医学校設立。

  • 1869(明治2)年、幕末維新の動乱により、懐徳堂閉校。140余年の歴史を閉じる。

懐徳堂

  • ​1870(明治3)年、大阪府医学校が大学(後に文部省)の管轄に。大阪医学校と改称。大阪府病院は大阪医学校病院に改称。

  • 林洞海、明治維新後、大阪医学校(現・大阪大学医学部)校長に。

  • 1870(明治3)年7月、大学東校、普仏戦争の影響により、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンの来任が遅れる。大阪医学校教師の任期を終えたオランダ医ボードウィンに講義を委嘱。大学東校の上野移転計画はボードウィンの反対により中止。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

  • 1872(明治5)年、学制公布に伴い、大阪医学校中学校へと改組。第四大学区医学校に。

  • 1872(明治5)年10月2日、「医学教育を第一大学区医学校に一元化・集中させる」という文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が突然の廃校に。日本の医学教育について、ドイツ医学への統一が図られる。

  • 1873(明治6)年、大阪医学校病院、大阪府病院に改称。

  • 1873(明治6)年 緒方惟準(31歳)、学制改革により大阪医学校が廃校に、官立学校となる。現場を離れ、陸軍軍医に。大阪鎮台病院長、軍医学校長、軍医本部次長を歴任。陸軍軍医部創設に尽力。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1879(明治12)年4月、大阪府病院、中之島の旧藝州藩蔵屋敷跡に移転。大阪公立病院に改称。教授局を置く。

  • 1880(明治13)年、大阪公立病院は府立大阪病院に改称。教授局を分離、府立大阪医学校設立。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。

  • 1886(明治19)年、中学校令により、大学分校第三高等中学校に改組。高等中学校の設置区域決定、京都移転。新校地は愛宕郡吉田村に。

  • 1888(明治21)年、府立大阪医学校、大阪医学校に改称。

  • 1893(明治26)年、大阪市会が文部大臣に官立の工業学校設立を建議。

  • 1896(明治29)年10月、東京工業学校(現・東京工業大学)に続く2番目の官立工業学校として、大阪工業学校(現・大阪大学工学部)創立。大阪の産業発展に大きく貢献。また、全国で唯一の醸造科を有し、全国の清酒、醤油の醸造業者の子弟が学び、醸造業の近代化に貢献。

  • 1901(明治34)年、大阪工業学校、大阪高等工業学校に改組。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年9月、専門学校令に基づき、大阪府立高等医学校・大阪府立高等医学校病院に改組。

  • 1915(大正4)年4月、大阪に官立大学を望む声は大きく、先ずは大阪府立高等医学校の大学昇格を目指す。文部大臣より認可が下り、大学昇格。府立大阪医科大学(現・大阪大学医学部)に改組。

  • 1916(大正5)年 西村天囚(52歳)、漢学者として懐徳堂の復興を祈念。大阪財界や政界に働きかけ、重建懐徳堂大阪大学文系学部の源流)再建。長く帝国大学が設置されなかった大阪において、事実上唯一の文科大学としての機能を担うことになる。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1919(大正8)年、大学令に基づき、大阪医科大学に昇格。

  • 1919(大正8)年1月、大阪高等工業学校、大学昇格運動勃発。

  • 1929(昭和4)年4月1日、大学令および官立工業大学官制に基づき、大阪高等工業学校が大阪工業大学に昇格。

  • 1931(昭和6)年4月、国内6番目の帝国大学として、大阪医科大学を母体に大阪帝国大学発足。帝国大学の成立には2学部以上を備えることが要件に。大阪工業大学を合併し、工学部に。大学内の研究施設・塩見理化学研究所を理学部に。医学部・工学部・理学部3学部を構想。大阪工業大学の合併が遅れ、医学部・理学部2学部で発足。

  • 1934(昭和9)年、大阪帝国大学、大阪工業大学を合併。医学部・工学部理学部の3学部体制に。

  • 1942(昭和17)年9月、適塾(適々斎)が緒方家から国・大阪帝国大学に寄付される。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法

文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。

  • 1949(昭和24)年5月、国立学校設置法により、大阪帝国大学を母体に旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校など統合、新制・大阪大学発足。文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部と一般教養部からなる。法文学部が新設されるに際し、大阪大学と懐徳堂記念会との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の貴重な資料等と職員を移管。充実した文系学部の基盤が作られる。

 

大阪大学年表

適塾(適々斎塾

懐徳堂

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