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学校略歴

  • 1724(享保9)年5月、三宅石庵、門弟であった大坂の有力町人・五同志、中井甃庵とはかり、懐徳堂大阪大学文系学部の源流)創立

  • 1726(享保11)年、中井甃庵、江戸幕府より官許を得、大坂学問所として認可される、大坂の有力町人・五同志を中心とする運営が基本となり、半官半民の体制を継続

  • 1782(天明2)年、中井竹山懐徳堂第4代学主に、上方を代表する学者として兄と共に並び称される中井履軒と共に全盛期を築く

  • 1788(天明8)年6月、中井竹山、昌平坂学問所(昌平黌)と同じく官立学問所を目指す、「寛政の三博士」と呼ばれる柴野栗山尾藤二洲古賀精里と親交、中井履軒と共に全盛期を築く

  • 1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日)、寛政異学の禁、江戸幕府が朱子学を正学(官学)に定める

  • 1869(明治2)年、幕末維新の動乱により懐徳堂閉校、40余年の歴史を閉じる

  • 1916(大正5)年、西村天囚大阪財界や政界に働きかけ、重建懐徳堂再建、長く帝国大学が設置されなかった大阪において、事実上唯一の文科大学としての機能を担うことに

大阪大学文系学部

創立者

 

学校年表

  • 1700(元禄13)年 三宅石庵(36歳)、大坂尼崎町二丁目御霊筋(現・大阪府大阪市中央区今橋四丁目)にて私塾を開く。町人を中心に多くの門弟を集める。

  • 1724(享保9)年3月 三宅石庵(60歳)、大阪市中の大火(妙知焼)で被災。郷学含翠堂に避難。門弟への教授を続ける。

  • 1724(享保9)年5月 三宅石庵(60歳)、門弟であった大坂の有力町人・五同志は中井甃庵とはかり、尼崎町一丁目北側(現・今橋三丁目)の道明寺屋吉左衛門(富永芳春)隠宅に懐徳堂大阪大学文系学部の源流)を創立。初代学主に迎えられ、初期懐徳堂の基礎を築く。朱子学を中心とする中国の思想を基礎としながらも諸学の良い点は何でも折衷して取り入りる学風より、「鵺学問」とも称される。

  • 1726(享保11)年 三宅石庵(62歳)中井甃庵の奔走により、江戸幕府より官許を得る。懐徳堂が大坂学問所として認可される。大坂の有力町人・五同志を中心とする運営が基本となり、半官半民の体制が継続される。

  • 1726(享保11)年 中井甃庵(34歳)、三輪執斎を頼り、懐徳堂の官許獲得に奔走。大坂町奉行より官許を得る。初代学主に、三宅石庵。学問所預人に就任。

  • 1739(元文4)年頃 中井竹山(10歳)、弟・中井履軒と共に、懐徳堂の助講・五井蘭洲に師事。五井蘭洲は和漢の学に通じ、その教えは経学・漢学以外に文章・詩歌・神道・仏教・史学・経済・兵学などに及ぶ。兄弟に与えた影響は大きく、後に懐徳堂学派と呼ばれるほど独自の学風が培われる。

  • 1758(宝暦8)年 中井竹山(29歳)、父・​中井甃庵が病没。その意思を継ぎ、懐徳堂預人となり、校務全般を司る。第3代学主となった三宅春楼を支える。

  • 1766(明和3)年 中井履軒(35歳)、大坂・和泉町に私塾・水哉館創立、教授。兄・中井竹山に比べ、懐徳堂の経営にあまり積極的でなく、交際範囲も少なく、専ら研究と著述に従事。

  • 1782(天明2)年 中井竹山(53歳)、第3代学主・三宅春楼が死去。懐徳堂第4代学主に。弟・中井履軒と共に全盛期を築く。

  • 中井履軒、上方を代表する学者として、兄・中井竹山と並び称される。古典・経学の注釈の第一人者であり、また天文学・解剖学など西洋科学にも通じる。西洋天文学者・麻田剛立を寄寓させ、多くを学ぶ。天文学説としては、ティコ・ブラーエの宇宙モデルを支持。懐徳堂学派で最大の学問的業績を残す。懐徳堂文人の特色とされる合理的・近代的な学風が確立される。

  • 1782(天明2)年5月16日 中井竹山(53歳)、大坂大火、懐徳堂が全焼。再建にあたり、念願の官学化を幕府に陳情するため江戸へ。老中・松平定信に会う事出来ず、願書を奉行所に提出するに留まる。幕府からの再建補助は300両という金額に抑えられ、官学化どころか、学舎再建にも窮する。門人らの寄贈により懐徳堂の再建が叶う。

  • 1787(天明7)年 柴野栗山(52歳)、江戸幕府老中・松平定信より招聘され、幕臣に。岡田寒泉と共に湯島聖堂取締に。大学頭・林信敬を補佐、朱子学による学風の統一・刷新と学制の整備に当たる。

  • 1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)懐徳堂大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。

  • 1789(天明9/寛政元)年 中井竹山(60歳)、徳川家の伝記『逸史』著作、幕府に献上。将軍家より褒美を賜る。

  • 1790(寛政2)年 柴野栗山(55歳)、寛政の改革を進める江戸幕府老中・松平定信に湯島聖堂をはじめとする教育機関における朱子学の復興、異学の禁止を建議。寛政異学の禁を指導。

1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁

江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学が不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の威信を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。
林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。

朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。

1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立

学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山尾藤二洲古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。

  • 中井竹山尾藤二洲より昌平坂学問所(昌平黌)の史局総裁として招聘されるも、病気を理由に固辞。その後も薩摩藩、加賀藩、熊本藩から招聘されるも、すべて固辞。懐徳堂を離れることはなかった。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

 

1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収

明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年、幕末維新の動乱により、懐徳堂閉校。140余年の歴史を閉じる。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

  • 1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1916(大正5)年 西村天囚(52歳)、漢学者として懐徳堂の復興を祈念。大阪財界や政界に働きかけ、重建懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)再建。長く帝国大学が設置されなかった大阪において、事実上唯一の文科大学としての機能を担うことになる。

​→ 大阪大学文系学部

 

懐徳堂年表

大阪大学文系学部

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