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ダイガクコトハジメ - 尾藤二洲

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年表

尾藤二洲

びとうじしゅう/にしゅう

1745(延享2)年11月1日(旧暦・10月8日) - 1814(文化11)年1月24日(旧暦・12月4日)

湯島聖堂(​後に昌平坂学問所東京大学の源流)取締、儒学者、「寛政の三博士

  • 1745(延享2)年11月1日(旧暦・10月8日) 尾藤二洲(1歳)、伊予国川之江(現・愛媛県四国中央市)に船頭の子として生まれる。

  • 尾藤二洲、足を病み、家業を継ぐことができず。幼時、高津東白に句読を学ぶ。その後、儒医・宇田川楊軒に学ぶ。

  • 尾藤二洲、讃岐国和田浜(現・香川県観音寺市豊浜町)の儒医・藤村九皐、合田求吾に学ぶ。

  • 1768(明和5)年 尾藤二洲(24歳)、大阪遊学、儒者・片山北海の門下に。頼春水・頼春風・頼杏坪兄弟、中井竹山中井履軒兄弟、古賀精里らと共に学ぶ。

  • 古賀精里、大阪に私塾を拓く。尾藤二洲・頼春水らと親交を深め、朱子学を追究。

  • 1787(天明7)年 柴野栗山(52歳)、江戸幕府老中・松平定信より招聘され、幕臣に。岡田寒泉と共に湯島聖堂取締に。大学頭・林信敬を補佐、朱子学による学風の統一・刷新と学制の整備に当たる。

  • 1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)懐徳堂大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。

  • 1790(寛政2)年 柴野栗山(55歳)、寛政の改革を進める江戸幕府老中・松平定信に湯島聖堂をはじめとする教育機関における朱子学の復興、異学の禁止を建議。寛政異学の禁を指導。

1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁

江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学は不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の維新を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。

林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。

朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。

1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立

学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山尾藤二洲古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。

 

  • 1799(寛政11)年、長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成。敷地面積は1万6千坪余りに。大成殿も水戸孔子廟にならい、創建時2.5倍規模の黒塗りの建物に改められる。

  • 中井竹山尾藤二洲より昌平坂学問所(昌平黌)の史局総裁として招聘されるも、病気を理由に固辞。その後も薩摩藩、加賀藩、熊本藩から招聘されるも、すべて固辞。懐徳堂を離れることはなかった。

  • 尾藤二洲、『論孟衍旨』・『学庸衍旨』・『正学指掌』・『称謂私言』・『国学指要』ほか著作。青年時代より、読書や雑談のうちに思いつくことがあると、紙片に書き留める習慣があり。それら断片を整理配列、『素餐録』・『静寄余筆』・『冬読書余』が残る。

  • 1814(文化11)年1月24日(旧暦・12月4日) 尾藤二洲(70歳)、死去。享年70歳。後年、従四位を追贈される。

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