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ダイガクコトハジメ - 伊東玄朴

伊東玄朴

出身校

  • 鳴滝塾

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参考情報

参考文献・書籍

 

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1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

  • 1801(寛政13/享和元)年2月11日(旧暦・12月28日) 伊東玄朴(1歳)、肥前国(現・佐賀県神埼市神埼町的仁比山)に仁比山神社に仕える武士・執行重助の子として生まれる。佐賀藩着座執行家および櫛田宮社家執行家の一族と考えられる。

  • 伊東玄朴、龍造寺氏の譜代家臣・伊東家秀の子孫、伊藤家の養子となる。

  • 伊東玄朴(22歳)、佐賀城下の蘭方医・島本良順に入門。蘭学・医学を学ぶ。

  • 1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。

1825(文政8)年 異国船打払令

江戸幕府が発した、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃、追い返すとした外国船追放令。上陸外国人については逮捕を命じる。フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件を受けて発令したものとみられる。また水戸の漁民たちが沖合で操漁する欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機となっている。

  • 高橋景保、樺太東岸の資料を求めていたところ、シーボルトよりクルーゼンシュテルン『世界周航記』などが贈られる。その代わりに、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈る。日本地図は当時、禁制品扱いとなっており、これをシーボルトが持ち出そうとしたことが事件の発端となる。

  • 1826(文政9)年4月 伊東玄朴(26歳)、オランダ商館長(カピタン)の江戸参府にシーボルトが随行、一緒に江戸へ向う。江戸に留まり、佐賀藩医の身分で蘭学の諸同志と交流。

1828(文政11)年9月 シーボルト事件

オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。

  • 1828(文政11)年 伊東玄朴(28歳)、シーボルト事件、連座を免れる。

  • 1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。

  • 1831(天保2)年 古賀穀堂(54歳)鍋島直正(鍋島閑叟)に意見書『済急封事』提出。藩政改革の基本を「人才の登用」「勤倹の奨励」「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」と論じる。『葉隠』を崇拝し、その他の学問を軽視する藩内の風潮を批判。

  • 1831(天保2)年 伊東玄朴(31歳)、士分に昇格。佐賀藩医官に。江戸に蘭学塾・象先堂創立、杉谷雍助・佐野常民ら多くの門人を輩出。

  • 1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)古賀穀堂『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。

  • 1837(天保8)年 大槻俊斎(32歳)、才能を見込んだから手塚良仙より、学資の援助を受ける。長崎遊学。高島秋帆らに学ぶ。緒方洪庵を知る。

  • 緒方洪庵適塾(適々斎塾)の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。

  • 緒方洪庵適塾(適々斎塾)の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。

  • 1839(天保10)年 箕作阮甫(41歳)、火災により医院断念、翻訳に専心。幕府天文台蕃書和解御用手伝に。伊東玄朴名義で『医療正始』・『坤輿初問』など訳述刊行。日本最初の国医学雑誌『泰西名医彙講』を編訳刊行。『外科必読』はじめ未刊のものが多い。生涯99部160冊余りを訳述。その分野は、医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。

1839(天保10)年 蛮社の獄

「蛮社」は洋学仲間の意、「蛮学社中」の略。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。

  • 1840(天保11)年 大槻俊斎(35歳)、江戸に帰り、下谷練塀小路にて医業開業。手塚良仙の娘・海香と結婚。

  • 1841(天保12)年 大槻俊斎(36歳)、高島秋帆から痘苗を得、浅草蔵前の小児に接種。施術成功、江戸種痘の最初と言われる。

  • 1843(天保14)年12月 伊東玄朴(43歳)、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)の侍医に。7人扶持で召し抱えられる。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。

  • 1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。

  • 1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。

  • 1849(嘉永2)年冬 大槻俊斎(44歳)、桑田立斎・伊東玄朴らと共に、多数の小児に牛痘接種を実施。

  • 1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。

​1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令

新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。

  • 1857(安政4)年8月 大槻俊斎(52歳)、自宅に伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫ら蘭方医10人と斎藤源蔵が集まり、種痘所開設を会議。幕閣の開明派・川路聖謨に働きかけ。種痘所の計画用地として川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとする。

1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立

江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎

1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令

幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。

  • 1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。

  • 1858(安政5)年7月7日 伊東玄朴(58歳)、幕府奥医師に挙用されたこの機会を逃さず、蘭方の拡張を図る。伊東寛斎・竹内玄同の増員に成功。蘭方内科奥医師は4名に。

  • 1858(安政5)年10月16日 伊東玄朴(58歳)、コレラ流行に際し、松本良甫・吉田収庵・伊東玄圭ら蘭方医の幕府採用を申請。

  • 1858(安政5)年11月 大槻俊斎(53歳)、神田相生町からの出火でお玉ヶ池種痘所消失。自宅と伊東玄朴の家を臨時の種痘所に。種痘業務を続ける。

  • 1859(安政6)年9月 大槻俊斎(54歳)三宅艮斎の依頼を受けた濱口梧陵が建築資金として3百両、機材代として四百両という大金を寄贈。お玉ヶ池種痘所再建。

  • 1860(安政7/万延元)年9月1日 大槻俊斎(55歳)、将軍徳川家茂に拝謁。お目見え医師となる。

1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足

種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎

  • 1862(文久2)年5月7日(旧暦・4月9日) 大槻俊斎(57歳)、死去。享年57歳。

  • 1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。

  • 1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。

  • 1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。

  • 1863(文久3)年1月25日 伊東玄朴(63歳)、松本良順の弾劾により失脚。小普請入りとなる。

  • 1864(文久4/元治元)年10月28日 伊東玄朴(64歳)、小普請医師より寄合医師に昇格。いくぶん地位を回復するが、以後奥医師に返り咲くことはなかった。

  • 1871(明治4)年2月20日(旧暦・1月2日) 伊東玄朴(71歳)、死去。享年71歳。

伊東玄朴

いとうげんぼく

1801(寛政13/享和元)年2月11日(旧暦・12月28日) - 1871(明治4)年2月20日(旧暦・1月2日)

佐賀藩医師・医官、奥医師、法印、象先堂創立、お玉が池種痘所創立、西洋医学所(現・東京大学医学部)取締役、「江戸の三大蘭方医

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