top of page

大学創立年表 1860年代

← - 1850年代1870年代 →

  • 1860(安政7/万延元)年 緒方洪庵(51歳)、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入、英語学習も開始。自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。柔軟な思考は最後まで衰えなかった。

1860(安政7/万延元)年 万延元年遣米使節

1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカにて、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関して衝撃を受ける。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないなど、不思議に思う。

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。​

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカより帰国後、江戸鉄炮洲中津藩邸内にて、講義再開。しかし講義内容は従来のオランダ語ではなく、専ら英語に。蘭学塾から英学塾へと方針転換。

  • 1860(安政7/万延元)年6月24日 勝海舟(38歳)アメリカより帰国。蕃書調所東京大学の源流)頭取助に異動。天守番頭過人に。海軍から切り離された為、これを左遷・追放と受け取る。

1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足

種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎

  • 1861(万延2/文久元)年8月5日(旧暦・6月29日) 箕作麟祥(16歳)蕃書調所の英学教授手伝並出役。この頃より英学私塾を開く。乙骨太郎乙・鈴木唯一・外山正一菊池大麓・箕作佳吉・大島貞益らに英学教授。

  • 1861(万延2/文久元)年9月(旧暦・8月16日) 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。

  • 1861(万延2/文久元)年 加藤弘之(26歳)、日本で最初に欧米の立憲思想を紹介した『鄰草』著作。議会制度の必要性を説く。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

 

  • 1862(文久2)年6月15日(旧暦・5月18日)、蕃書調所、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、洋書調所に改称。​

 

  • 1862(文久2)年8月 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。

  • 1862(文久2)年12月9日 勝海舟(40歳)、松平春嶽の招待状を手に坂本龍馬が来訪。「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」、開国派先鋒と目される勝海舟の暗殺も辞さぬ坂本龍馬だったが、勝海舟の主張は幕府・諸侯協力による国力・軍事力増強による欧米列強への対抗であり、すっかり感化される。「大いに余の固陋を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」と門弟に。師弟により、海軍操練所創設が構想される。

1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団

1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。

正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。

  • 1862(文久2)年 西周(34歳)、幕命により津田真道・榎本武揚らと共にオランダ留学。ライデン大学にてシモン・フィッセリングに法学を学ぶ。カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。

  • 1863(文久3)年 福澤諭吉(29歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。

  • 1863(文久3)年7月 福澤諭吉(29歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案。

  • 1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。

  • 1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、洋書調所開成所に改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。

  • 1863(文久3)年 勝海舟(41歳)、京都から大坂へ下った14代将軍・徳川家茂を出迎え、順動丸で神戸まで航行。神戸港を日本の中枢港湾にすべしと提案。後に神戸は東洋最大の港湾へ発展を遂げることに。また同行者していた公家・姉小路公知も抱き込み、神戸海軍操練所設立許可を取り付ける。幕府より、年3000両の援助金も約束。神戸海軍操練所と別に、私塾設立も認められる。

  • 勝海舟、神戸海軍操練所設立に先立ち、私塾・海軍塾(神戸塾)創立。薩摩藩や土佐藩の荒くれ者・脱藩者が塾生となり出入り。塾頭に、坂本龍馬。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1864(文久4)年6月 伊藤博文(23-24歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。

  • 伊藤博文(23-24歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設・工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本とのあまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに。開国論に転じる。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1868(慶応4/明治元)年 山尾庸三(27-32歳)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。一方、造船所で聴覚障害者が熟練工として働くのを見て、国家の近代化には障害者教育が必要と確信。

  • 森有礼、薩摩藩第一次英国留学生、五代友厚らと共にイギリスへ密航、留学。ロンドンにて、長州五傑(井上聞多/井上馨遠藤謹助・山尾庸三伊藤博文・野村弥吉/井上勝)と出会う。

  • 森有礼、イギリスよりロシアへ渡る。さらに、ローレンス・オリファントの誘いでアメリカに渡る。新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心示す。また、アメリカの教科書を集める。

  • 1863(文久3)年秋、ヘボン・クララ夫妻、1860年頃より米国長老教会宣教師による日本での教育事業の開始となる私塾開講。一時帰国より戻ったクララが私塾再開、ヘボン塾開校。クララが英語を、ヘボンが医学を教える。高橋是清・鈴木六三郎・林董・佐藤百太郎・沼間守一・服部綾雄・石本三十郎・益田孝・三宅秀らが学ぶ。1876年、ジョン・クレイグ・バラに引き継がれる。後の明治学院・フェリス女学院の源流に。

  • 1864(文久4/元治元)年5月 勝海舟(42歳)、海軍士官養成機関・神戸海軍操練所創立。公議政体論の軍事的応用、幕府や諸藩の垣根を越えて「日本の一大共有の海局を作りあげる」という壮大な構想を掲げ、「日本の海軍」創設を目指す。軍艦奉行に昇格。

  • 1864(文久4/元治元)年 箕作麟祥(19歳)、外国奉行支配翻訳御用頭取に。福澤諭吉・福地源一郎らと共に、英文外交文書の翻訳に従事。

  • 1864(元治元)年10月 福澤諭吉(30歳)、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕。臨時御雇いではなく、幕府直参として150俵・15両を受け、御目見以上となり、御旗本に。

  • 1864(元治元)年 佐久間象山(54歳)、一橋慶喜に招かれ、上洛。一橋慶喜に公武合体論と開国論を説く。当時京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、西洋かぶれとされた佐久間象山には危険な行動であった。

  • 1864(文久4/元治元)年頃 大隈重信(27歳)鍋島直正より副島種臣と共に長崎での洋学研究を命じられる。長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)にて、来日直後のフルベッキに英語を学ぶ。新約聖書とアメリカ合衆国憲法を教材に英語学習、あわせてキリスト教と近代民主主義の精神を学ぶ。うち、アメリカ合衆国憲法に記された基本的人権と議会制民主主義の思想は、民主主義思想の根幹となり、生涯にわたる決定的な影響となる。長崎遊学時代に後藤象二郎・坂本竜馬・岩崎弥太郎らと親交を持つ。

  • 1865(元治2/慶応元)年 勝海舟(43歳)神戸海軍操練所は土佐藩脱藩浪士や長州藩に同情的な意見を持つ生徒を多く抱えており、反幕的な色合いが濃いとして、閉鎖。

  • 1866(慶応2)年 - 1870(明治3) 福澤諭吉(33-37歳)1860(安政7/万延元)年に万延元年遣米使節随行員としてアメリカに渡って以降、ヨーロッパの状況を日本に紹介。『西洋事情』刊行。初編3冊・外編3冊・2編4冊の10冊。その内容は政治・税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。

  • 1867(慶応3)年2月27日(旧暦・1月23日) 福澤諭吉(33歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。

  • 1867(慶応3)年 福澤諭吉(33歳)、『西洋旅案内』刊行。アメリカより帰国後、謹慎中に執筆。

  • 1867(慶応3)年5月 大久保利通(38歳)、雄藩会議の開催を小松清廉や西郷隆盛と計画。四侯会議を開催。しかし、四侯会議が徳川慶喜によって頓挫させられたため、公武合体路線を改め、武力倒幕路線を指向することに。

  • 1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、副島種臣と共に長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で英語を学んだオランダ人宣教師フルベッキを佐賀藩に迎え入れる。長崎五島町の諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学校・致遠館にて、フルベッキを校長に。副島種臣と共に教頭格となる。学校運営と教育に熱中、宣教師フルベッキより英語を学びながら、自らも教壇に立つ。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)、幕末激動の中、政界において佐幕・尊王・公武合体派いずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒される。参預会議や小御所会議などで発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるも実らず。政治力・軍事力共に発揮できなかったことを背景に、佐賀藩内における犠牲者は最小限に。

  • 1867(慶応3)年9月8日 大久保利通(38歳)、三藩盟約、武力による新政府樹立を目指す小松清廉・西郷隆盛と共に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明ける。それを機に、京都において薩摩藩が大久保利通と西郷隆盛、長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し、出兵協定を結ぶ。

  • 1867(慶応3)年10月14日-10月15日 大久保利通(38歳)、正親町三条実愛より、倒幕の密勅の詔書を引き出す。小松清廉・西郷隆盛と共に署名、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たす。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1867(慶応3)年1月3日(旧暦・12月9日) 大久保利通(38歳)、岩倉具視ら倒幕派公家と共に、王政復古の大号令を計画、実行。

  • 1867(慶応3)年12月25日 福澤諭吉(33歳)建設用地として、芝新銭座の久留米藩有馬家中屋敷を355両で購入。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)、官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。

  • 勝海舟、上野戦争後も戊辰戦争は続いたが、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対。戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であること、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあることが理由。

  • 1868(慶応4)年3月 福澤諭吉(34歳)を江戸鉄炮洲中津屋敷より芝新銭座へ移転。

  • 1868(慶応4)年4月4日(旧暦・3月12日)、学習院、大政奉還以後の政治的混乱より一時閉鎖。半年後、再開。しかし、平田派の国学者は、学習院が旧来の大学寮と同様に漢学(儒教)に基づく教育方針であったことに不満。国学と神道を中心に据えた教育改革または新制学校の創設を求める。

1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文

政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」

  • 1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住

徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。

  • 勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直津田仙永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。

  • 1868(慶応4/明治元)年 箕作秋坪(43歳)、浜町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷一角を借り、私塾・三叉学舎創立。漢学、数学に加え、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語を教える。福沢諭吉慶應義塾と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。

  • 1868(慶応4)年7月4日(旧暦・5月15日) 福澤諭吉(34歳)、上野戦争、明治新政府軍と彰義隊の合戦が起こる中、慶應義塾でF・ウェイランド『経済学原論』の講義を続ける。「日本国中苟も書を読んで居る処は唯慶應義塾ばかり」。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 箕作麟祥(23歳)、フランスより帰国後、明治新政府に出仕。開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。当時の兵庫県令・伊藤博文、着任を騎馬で出迎えて歓迎。

  • 1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、医学所医学校に改称。翌年1月より、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月 何礼之(29歳)、明治新政府に出仕。開成所御用掛・訳官に。次いで大阪行きを命じられ、外国事務局・小松清廉(小松帯刀)を補佐する一等訳官に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 何礼之(29歳)、『仮語学所積高』提案。大阪府に舎密局・医学館・語学所から成る大学校設置を計画。

1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収

明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。

1868(慶応4/明治元)年7月、横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、大病院と称す。医学所を附属とする。

  • 1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、岩倉具視に対し、大木喬任と連名で江戸を東京と改称、遷都すべきこと(東京奠都)を献言。献言が認められる。明治天皇が行幸、江戸は東京と改称される。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

  • 1868(慶応4)年10月28日(旧暦・9月13日)、松代藩士・長谷川昭道が学習院を巡る平田鐵胤・玉松操・矢野玄道ら国学派と漢学派の対立を憂慮。岩倉具視に両者間の妥協を促す意見書を提出。平田案に基づく国学中心の皇学所と、大学寮代を改組した漢学中心の漢学所の2校体制に。​

  • 1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。

  • 1868(慶応4/明治元)年12月 加藤弘之(33歳)、明治新政府に出仕、政体律令取調御用掛に。新しい国の政体について研究・提言。『立憲政体略』刊行。

  • 1868(慶応4/明治元)年 西周(40歳)、ライデン大学教授フィッセリングの万国公法講義筆記、『万国公法』を訳刊。

  • 1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。

  • 1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。

  • 明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。

  • 1869(明治2)年5月 柳田藤吉(32歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校・北門義塾創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。​

  • 1869(明治2)年6月 相良知安(34歳)、ドイツより教師を招くことを建議。2名を招請することに。

  • 1869(明治2)年 福澤諭吉(35歳)「教授もやはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある」と、日本で初めて授業料の制度をつくる。

  • 1869(明治2)年6月10日(旧暦・5月1日)、大阪城西側大手前旧城番邸跡にて、大阪府所轄の舎密局(大阪舎密局)開校。オランダ人化学教師・ハラタマが教頭に。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 古賀謹一郎大学校教授として明治新政府から招聘されるも、幕臣としての節を守り拒否。徳川家の駿府転封に伴い、静岡移住。

  • 1869(明治2)年 箕作麟祥(24歳)、東京に戻る、外国官翻訳御用掛となるも、外交官を好まず。大学南校大学中博士に転じる。この頃、私塾を開く。岸本辰雄・中江兆民・大井憲太郎らを育てる。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任。版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。

  • 1869(明治2)年 何礼之(30歳)大阪洋学校創立を発議・設立。督務に。教鞭を執る傍ら、『経済便蒙』・『西洋法制』など訳出。

  • 1869(明治2)年10月6日(旧暦・9月2日)、明治新政府より皇学所漢学所の廃止命令が出される。

← - 1850年代1870年代 →

bottom of page