大学年表
1860年代
1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(万延元)年9月27日/11月9日
万延元年遣米使節、1858(安政5)年6月19日/7月29日締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを「軍艦操練所」教授・勝海舟をはじめとする「海軍伝習所」出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(万延元)年9月27日/11月9日
-
福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。
-
福澤諭吉(25歳)、アメリカにて、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関して衝撃を受ける。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないなど、不思議に思う。
-
福澤諭吉(25歳)、アメリカにて、通訳・中浜万次郎(ジョン万次郎)と共に、『ウェブスター大辞書』省略版を購入。日本へ持ち帰り、研究の助けに。
1860(万延元)年
-
福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。
1860(万延元)年
-
福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国後、江戸鉄炮洲中津藩邸内にて、講義再開。しかし講義内容は従来のオランダ語ではなく、専ら英語に。蘭学塾から英学塾へと方針転換。
-
福澤諭吉、アメリカより帰国後、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集『華英通語』の英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』出版。初めて出版した書物に。
1860(万延元)年10月27日
-
大槻俊斎(53-54歳)、「種痘所」が幕府に接収され、官立に。初代頭取に。「東京大学医学部」の前身とされていることより、東大医学部初代総長ともみなされる。
1860(万延元)年
-
緒方洪庵(49-50歳)、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入、英語学習も開始。自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
1861(文久元)年
-
教育機関としての性格が強くなり、「西洋医学所」と改称。組織を種痘、医学教育、解剖の3科とする。
1862(文久2)年5月18日/6月15日
-
「蕃書調所」、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、「洋書調所」と改称。
1862(文久2)年8月
-
大槻俊斎(55-56歳)、「西洋医学所」初代頭取にあったが、病床につく。後任に、幕命により大阪から「適塾」の緒方洪庵が呼び出され、2代頭取就任。
1862(文久2)年8月
-
緒方洪庵(51-52歳)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼「西洋医学所」2代頭取として江戸に出仕。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
1862(文久2)年8月8日
1862(文久2)年11月14日/1月3日
-
江戸幕府、文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した「学問所奉行」設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、「昌平坂学問所」および「洋書調所」の監督を行なった。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。「洋書調所」は「昌平坂学問所」と同格の幕府官立学校となった。
1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日
文久遣欧使節団、1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎、福澤諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
1862(文久元)年1月1日/1月30日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日
-
福澤諭吉(27-28歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。
-
福澤諭吉(27-28歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。
-
福澤諭吉(27-28歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。
1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日
-
箕作秋坪(34-35歳)、幕府による文久遣欧使節に。福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行、ヨーロッパを視察。
1863(文久3)年 -
-
福澤諭吉(27-歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、1863(文久3)年3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。
1863(文久3)年2月
-
「西洋医学所」、「医学所」と改称。
1863(文久3)年5月12日 - 1864(元治元)年6月
-
伊藤博文(21-22歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。
-
伊藤博文(21-22歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに、開国論に転じる。
-
伊藤博文(22歳)、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と共に急ぎ帰国。
1863(文久3)年5月12日 - 1868(明治元)年
-
山尾庸三(25-31歳)、藩命により陪臣から士籍に。密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。
1863(文久3)年6月10日/7月25日
1863(文久3)年7月
-
松本良順(30-31歳)、「医学所」3代頭取就任。「適塾」式を廃止、教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」
1863(文久3)年7月
-
福澤諭吉(28歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案。
1863(文久3)年8月29日/10月11日
-
「洋書調所」、「開成所」と改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。
1864(元治元)年7月/8月
-
福澤諭吉(29歳)、禁門の変、長州藩追討の朝命が下り、中津藩に出兵を命じられるも、拒否。代わりに、以前より親交のあった仙台藩・大童信太夫を通じ、「江戸中津藩邸塾」の横尾東作を派遣。新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳、諸藩を援助。
1865(慶応元)年春
1866(慶応2)年 -
-
福澤諭吉(30-歳)、ヨーロッパの状況を日本に紹介、『西洋事情』刊行。初編3冊、外編3冊、2編4冊の10冊。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。
1866(慶応2)年
1866(慶応2)年
-
「松下村塾」再開、馬島甫仙、河合惣太らが教授に。
1866(慶応2)年10月26日 - 1868(明治元)年6月
-
中村正直(33-36歳)、幕府のイギリス留学生監督として、川路寛堂と供に外山正一ほか留学生12名を引き連れ、渡英。幕府瓦解、帰国。
1866(慶応2)年 - 1869(明治2)年
-
外山正一(17-21歳)、勝海舟の推挙により、中村正直らと共に幕府派遣留学生として渡英。イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府瓦解、帰国。
1867(慶応3)年1月23日/2月27日
-
福澤諭吉(31-32歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。
1867(慶応3)年12月9日/1月3日
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1867(慶応3)年12月9日/1月3日
-
田中不二麿(21-22歳)、王政復古の大号令を受け、新政府の参与に。小御所会議に尾張藩代表として出席。
1868(慶応4)年3月12日/4月4日
-
「学習院」、大政奉還以後の政治的混乱より、一時閉鎖。半年後、再開。しかし、平田派の国学者は、「学習院」が旧来の「大学寮」と同様に儒教に基づく教育方針を採っていたことに不満。国学と神道を中心に据えた教育改革または新制学校の創設を求める。
1868(慶応4)年3月14日/4月6日
『五箇条の御誓文』、政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
1868(慶応4)年3月28日/5月9日
-
「学習院」、平田鐵胤・玉松操・矢野玄道の3名の国学者、新制学校の調査。「大学寮」・「学習院」に替わり、学舎制を導入。本教学(国学・神道)・経世学(政治・経済)・辞章学(文学・書画)・方伎学(医学・芸術)・外蕃学(洋学・科学)の5科編成の構成とし、儒教を中心とする明経道に代わり、国学を中心とする本教学を中心とする制度を提唱。
1868(慶応4)年3月
-
福澤諭吉(33歳)、塾を江戸鉄炮洲中津屋敷より芝新銭座へ移転。
1868(慶応4)年4月15日/5月26日
-
「学習院」、保守的な公家勢力や儒学者は、新制学校構想に反対。「学習院」を「大学寮代」と改称、大学寮再建方針を打ち出す。平田鐵胤・玉松操・矢野玄道らは、強く反発。
1868(慶応4)年4月
-
福澤諭吉(33歳)、塾を「慶應義塾」と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は「慶應義塾」内に「紀州塾」という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
1868(慶応4)年5月15日/7月4日
1868(慶応4)年6月13日/8月1日
1868(慶応4)年6月29日/8月17日
-
「昌平坂学問所(昌平黌)」、明治新政府に接収され、官立の「昌平学校」として再出発。しかし、従来のような儒学・漢学中心ではなく、皇学(国学・神道)を上位に、儒学を従とする機関として位置付けられる。
1868(慶応4/明治元)年7月
-
横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、「医学所」を含めて「大病院」と称す。
1868(慶応4)年7月17日/9月3日
東京奠都、江戸が「東京」と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年
戊辰戦争
1868(明治元)年9月12日/10月27日
-
明治政府に接収された「開成所」、官立「開成学校」として再興。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。
1868(慶応4)年9月13日/10月28日
-
「学習院」を巡る平田鐵胤・玉松操・矢野玄道らと保守勢力の対立を憂慮した松代藩士・長谷川昭道は、岩倉具視に両者間の妥協を促す意見書を提出。岩倉具視は同意。平田案に基づく国学中心の「皇学所」と、大学寮代を改組した漢学中心の「漢学所」の2校体制に移行。
1868(慶応4)年9月16日/10月31日
1868(慶応4年/明治元)年
-
「適塾」閉鎖
1868(明治元)年
-
箕作秋坪(41-42歳)、浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷の一角を借り、私塾「三叉学舎」を創立。漢学、数学に加えて、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語が教えられる。福沢諭吉の「慶應義塾」と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。
1869(明治2)年
-
田中不二麿(23-24歳)、「大学」御用掛を拝命。教育行政に携わるように。
1869(明治2)年1月
-
伊藤博文(27歳)、兵庫県知事時代、『国是綱目』いわゆる『兵庫論』を捧呈。「君主政体」、「兵馬の大権を朝廷に返上」、「世界万国との通交」、「国民に上下の別をなくし自在自由の権を付与」、「世界万国の学術の普及」、「国際協調・攘夷の戒め」を主張。
1869(明治2)年1月
-
相良知安(32歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。
1869(明治2)年2月
-
「大病院」、「医学校兼病院」と改称。5局(医学校・病院・種痘館・黴毒院・薬園)を置く。
1869(明治2)年4月/5月
-
柳田藤吉(30-31歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉・箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校「北門義塾」創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。
1869(明治2)年7月8日/8月15日
-
東京奠都、東京に移った新政府により、「大学校」構想は江戸幕府の「昌平坂学問所(昌平黌)」などを基礎とし、洋学・医学を織り交ぜる案へと修正される。これにより、両学所の実質は東京へ移されることに。皇漢両学を教授する「大学校」の「本校」に、「皇学所」出身者が採用される。「昌平坂学問所(昌平黌)」系儒学者と、「皇学所」系国学者が激しく対立。
1869(明治2)年7月8日/8月15日
-
明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、「大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の「昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。
1869(明治2)年9月2日/10月6日
1869(明治2)年12月10日/1月11日
-
「皇学所」・「漢学所」、廃止命令に強く反発。この声に圧された京都留守官は、東京に置かれた「大学校」を補完する学校として、独断で旧「皇学所」と旧「漢学所」を統合した「大学校代」を設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。
1869(明治2)年12月17日/1月18日
-
「大学校」を「大学」と改称。「昌平学校」を「大学本校」に、大学本校の南に所在していた「開成学校」は「大学南校(だいがくなんこう)」、東に所在していた「医学校」は「大学東校(だいがくとうこう)」と改称された。
1869(明治2)年
-
大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および「適塾」元塾生らを中心とする「仮医学校」を設立。院長は緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。
1869(明治2)年
-
前田献吉(33-34歳)、留学費用を稼ぐため、高橋新吉、弟・前田正名と共に英和辞書編纂を計画。1866(慶応2)年に「開成所」から出された『英和対訳袖珍辞書』を底本に、辞書編纂を開始。上海の美華書院の印刷により、『和訳英辞書』(通称『薩摩辞書』)の名で刊行。