大学創立年表 1880年代
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1880(明治13)年 辻新次(39歳)、地方学務局長兼官立学務局長に。教則取調掛長に。教育令改正に従事。
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1880(明治13)年3月12日 田中不二麿(36歳)、教育令公布(自由教育令)が未就学児増加ならびに学力低下を招いたとして政府内で批判が強まる。司法卿に配置換えに。以後、教育行政から遠ざかる。
1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者・官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。
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1880(明治13)年9月14日 相馬永胤(31歳)、慶應義塾夜間法律科を独立させる形で、三叉学舎法律経済科・東京攻法館法律科の3社を統合。田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格と共に専修学校(現・専修大学)創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。明治法律学校・東京専門学校・東京法学校・英吉利法律学校と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、簿記講習所を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部や司法省法学校など極少数であった。東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対し、専修学校法律科は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学校に。多くの学生を集める。
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1880(明治13)年11月 九鬼隆一(29歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌が教育行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。
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1880(明治13)年12月11日 折田彦市(32歳)、文部省の財政問題などを原因に、大阪専門学校の中学校改組が行われる。大阪中学校校長に。大学進学のための予科を主体とする学校となり、拡充を目指していた本科・医学科は消滅。在校生の行く先を求めて奔走することに。目まぐるしく変わる文部省の教育政策に対し、不満をあらわに。
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折田彦市、当時、中等教育と高等教育の接続方法も定まっておらず、中学校に関する運営方針が未整備であった。寄宿舎の整備・体操教育の導入など、後の中学校の在り方を方向付け、指導的な役割を果たす。中学校を大学に直接接続する学校として整備する一方、大阪中学校を大学相当の教育機関に発展させることを構想。
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1880(明治13)年 福澤諭吉(46歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、慶應義塾出身者を中心に、交詢社創立。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。福澤諭吉を会長に、大隈重信・鍋島直大・後藤象二郎をはじめ華族・官僚・学者・地主・商工業者など参加。
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矢野龍渓、私擬憲法が議論され始めると、交詢社創設に加わる。常議員に。
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1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信・伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。
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1881(明治14)年1月 福澤諭吉(47歳)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。慶應義塾の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。
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1881(明治14)年1月 高木兼寛(33歳)、日本医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色、学理第一・研究優先になっている現状を憂う。前年に廃止した英医学校・慶應義塾医学所創立者である松山棟庵らと共に、臨床を第一とする英医学・患者本位の医療を広めるための医学団体・成医会創立。
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1881(明治14)年1月17日 岸本辰雄(31歳)、有楽町数寄屋橋の旧・島原藩上屋敷にて、司法省法学校同窓の宮城浩蔵・矢代操と共に明治法律学校(現・明治大学)創立。旧鳥取藩主・池田輝知と旧島原藩主・松平忠和の財政的援助を受ける。校長を置かず、3名の合議制で学校運営。矢代操と民法・商法を、宮城浩蔵が刑事法を教授。
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1881(明治14)年 宮城浩蔵(30歳)、岸本辰雄・矢代操と共に明治法律学校(現・明治大学)創立。刑事法教授。旧刑法下、フランス刑法理論の新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献、「東洋のオルトラン」と呼ばれる。
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1881(明治14)年 西園寺公望(33歳)、フランス留学中に親交の岸本辰雄・宮城浩蔵らが創立した明治法律学校(現・明治大学)講師に迎えられる。行政法を教授。法論会会長に。
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司法省法学校卒業者による準官学的なフランス法系法律学校として出発するも、自由民権運動の高まりにより急速に野党色を強めていく。フランス革命の影響、権利自由の拡張を主張する学生たちが集い、政府より自由民権の牙城とみなされることに。自由党を支える人材を多数輩出。
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同じくフランス法系法律学校として司法省法学校関係者の支援を受け設立された東京法学社(現・法政大学)と激しく対抗。自由民権色を強めた明治法律学校(現・明治大学)と異なり、「本校に於て政事に関する事項は一切之を講ぜず」を掲げる東京法学社は準官学的な立場を貫く。熾烈な授業料値下げ競争、共倒れ危惧。明治10年代末に至り、和議。ようやく抗争終結。
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フランス留学組の岸本辰雄・宮城浩蔵・西園寺公望・光妙寺三郎ら、留学先で急進的法学者エミール・アコラスの影響を受ける。ボアソナードの怒りを買ったことで、ボアソナード直系・東京法学社(現・法政大学)と対立を深める。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年 渋沢栄一(42歳)、官尊民卑の世俗を憂い、また東京大学学生の実業軽視の風を嘆じ、東京大学総理・加藤弘之に訴える。是非、実際に学生に講じて欲しいと依頼され、東京大学文学部講師に。日本財政論を教える。
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1881(明治14)年5月1日 高木兼寛(33歳)、松山棟庵が設立した東京医学会社の2階大広間にて、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。夜間医学塾の形式で、講師の多くは海軍軍医団が務めた。
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1881(明治14)年5月26日 九鬼隆一(30歳)、中等工業技術教育の必要性を主張し続ける手島精一に、工業教育推進論者として同調。専門学務局長・濵尾新と共に、官立の東京職工学校(現・東京工業大学)創立を支援。
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1881(明治14)年5月26日 手島精一(32歳)、東京開成学校製作学教場の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続ける。文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。官立の東京職工学校(現・東京工業大学)創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、東京大学理学部を卒業した日本人教員が教鞭をとる。機械工芸科・化学工芸科からなる本科および予科設立。先行の東京開成学校製作学教場・工部大学校・東京大学大学理学部の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵。
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1881(明治14)年9月27日 正木退蔵(36歳)、九鬼隆一により日本に呼び戻される。創立間もない東京職工学校の初代校長に。学則改正・煉瓦校舎建設・学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場設立。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘。
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東京職工学校、浅草蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。
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東京職工学校、開校当初、前近代の伝統的な徒弟制度の下での技術伝承より、近代的・科学的な技術教育への転換を背景とするさまざな困難に直面。生徒がなかなか集まらず、入学者の中からも退学が続出するなど不振の時期が続く。不振を理由に、農商務省への移管論・不要論・廃止論が絶えず。
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1881(明治14)年7月26日 渋沢栄一(42歳)、東京府会が商法講習所の経費を拒否、廃止を決議。存続の危機に。東京府知事・松田道之、農商務卿・河野敏鎌にはかり、農商務省の補助を得て存続を保つことに。
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1881(明治14)年7月28日 辻新次(40歳)、東京府会で商法講習所(現・一橋大学)の廃止が決議される中、文部省地方学務局長として東京府知事・松田道之宛に商法講習所の存続希望を申し入れ。松田府知事から農商務卿・河野敏鎌宛に補助金下付の要望書を提出、農商務省が支援することで商法講習所の存続が決定する。
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1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。
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1881(明治14)年 福澤諭吉(47歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1881(明治14)年 九鬼隆一(30歳)、明治十四年の政変に組せず。文部省に残り、師である福澤諭吉の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となる。このため、福澤諭吉との関係が極度に緊張、後に和解。
1881(明治14)年 師範学校教則大綱
教育令の下、『師範学校教則大綱』が定められる。府県管轄の師範学校について、就業期間・入学年齢ほか統一される。
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1882(明治15)年3月1日 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」
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1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。
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1882(明治15)年夏 森有礼(36歳)、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い強感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。
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1882(明治15)年7月、東京女学校を起源とする東京女子師範学校附属高等女学校設立。日本最初の高等女学校に。
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津田梅子、帰国するも、儒学の価値観が色濃く残る日本において、女子留学生が活躍できる場は乏しく。山川捨松・永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁す。幼少からの長い留学生活により、日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった。
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1882(明治15)年10月21日 大隈重信(45歳)、英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として。小野梓・高田早苗らと共に、東京専門学校(現・早稲田大学)創立。「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げる。北門義塾校舎を受け継ぐ。政治経済学科・法律学科・理学科・英学科設置。理学科は学生が集まらず、早々に廃止。
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東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。
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1882(明治15)年秋、青山南町7丁目1番地に高等教育を行うに理想的な土地を見つける。ジョン・F・ガウチャーの寄付により、土地を購入。現在の青山キャンパスの中心に。東京英学校が移転、東京英和学校(現・青山学院大学)に改称。
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1882(明治15)年 高木兼寛(34歳)、海軍医務局副長に。また、アンダーソン医学博士の帰国により継続不可能になっていた海軍病院学舎を立て直すため、軍医スタッフと自ら教鞭をとり、海軍医務局学舎創立。学舎長に。
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1882(明治15)年 下田歌子(29歳)、夫・下田猛雄が病に臥す。看病の傍ら、東京九段の自宅にて桃夭女塾(実践女子大学の源流)開講。日本における私学女子教育の先駆けに。時の政府高官の殆どがかつての勤王志士であり、妻の多くが芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教える。
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1882(明治18)年 - 1883(明治19)年、アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価が行われる。国粋主義が台頭。西洋美術教育・工部美術学校廃校。
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1883(明治16)年 西周(55歳)、獨逸学協会を母体に、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。初代学長に。加藤弘之など啓蒙学者が設立に関与、精神的支柱にドイツ啓蒙主義を置く。設立メンバーに、政治・外交を支える品川弥二郎・井上毅・青木周蔵・桂太郎・平田東助・伊藤博文らが加わる。学校運営は、品川弥二郎が中心的役割を果たす。
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1883(明治16)年 品川弥二郎(41歳)、北白川宮能久親王を会長、自身を委員長に獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。学校運営において中心的役割を果たす。
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1883(明治16)年 津田梅子(20歳)、外務卿・伊藤博文の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会。華族子女を対象に教育を行う私塾・桃夭女塾(実践女子大学の源流)を設立した下田歌子を紹介される。
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1883(明治16)年 辻新次(42歳)、大日本教育会結成。役員選挙により初代会長に選出。
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1884(明治17)年3月 森有礼(38歳)、伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」
1884(明治17)年4月 学習院、宮内省所轄の官立学校に
学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で、華族の子弟なら原則として無償で入学することができた。学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致しないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当。
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1884(明治17)年5月 谷干城(48歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、学習院第2代院長として復帰。かねてより華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛(守護)となることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も。政治・外交にも長けた多様な人材育成を目指す。
1884(明治17)年7月7日 華族令
制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。
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1885(明治18)年6月、財政難を理由に全国府県の女子師範学校が師範学校に統合される流れの中、東京女子師範学校が東京師範学校に統合される。東京師範学校女子部に改組。東京師範学校は、全国唯一の官立師範学校となる。
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1885(明治18)年8月、昭憲皇太后の近代日本に相応しい、質実剛健で徳育に基本を置いた上流女子教育をという令旨により、四谷区尾張町に華族女学校開校。
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1885(明治18)年9月、東京大学法学部が東京法学校を併合。東京大学法学部仏法科設置。
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1885(明治18)年9月、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併。英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される。東京外国語学校(旧外語)は廃止に。東京商業学校への合併に対し、東京外国語学校学生が激しく反発、中退者も出現。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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森有礼、師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。
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1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
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1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。
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1886(明治19)年3月31日、政府直轄学校がすべて文部省所管に。大蔵省銀行事務講習所閉鎖。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1886(明治19)年3月6日 山川浩(42歳)、師範学校を「教育の総本山」とし、軍隊式教育の導入を推進する初代文部大臣・森有礼より命じられ、現役陸軍軍人として高等師範学校(現・筑波大学)初代校長に。授業料値上げの増収により良い教師を招聘、大いに校風を振起。規律に厳しく、秩序が整然としたものに。
1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令
師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校が高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。
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1886(明治19)年4月、東京師範学校の高等師範学校昇格に伴い、東京師範学校女子部は高等師範学校女子師範学科に。
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1886(明治19)年5月 辻新次(45歳)、帝国大学工科大学初代工科大学長に就任した古市公威らと共に、仏学会(日仏協会の前身)設立。初代会長に。11月、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立。
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1886(明治19)年11月 渋沢栄一(47歳)、帝国大学教授・外山正一の「欧米人に見劣りしないために日本人女性に対する高度な教育が必要」の意見に賛同。内閣総理大臣・伊藤博文の勧説に従い、女子教育奨励会設立に協力。東京女学館の母体に。資金募集など尽力。評議員に。
1886(明治19)年12月 文部省官制
文部省官制制定。「文部大臣ハ教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」と定め、総務局・学務局・編輯局・会計局を置く。また学事視察のため視学官を置く。
1886(明治19)年 私立法律学校特別監督条規
東京府下に所在し、特に教育水準が高く特別許認可を受けた英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校・東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)の5校について、帝国大学総長の監督下に。帝国大学特別監督学校(五大法律学校)となる。
背景に、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、新たに私立法律学校にもその補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり。また、高等文官試験受験の特権を認める代わりに、放任されていた私立法律学校について監督・干渉することが構想された。
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1886(明治19)年-1887(明治20)年 岡倉天心(24-25歳)、文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的に欧米調査旅行。東京美術学校を構想。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。
1887(明治20)年5月21日 学位令
日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。
1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
1887(明治20)年7月25日 文官試験試補及見習規則
官僚任用制度として、高等文官試験(高等試験)が定められる。試験は奏任官対象の高等試験と判任官対象の普通試験の二種類が設けられる。帝国大学法科大学・帝国大学文科大学の卒業生に対し、無試験で高等官(勅任官・判任官)の試補となる特権が与えられる。
文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校・東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)に加えて、独逸学協会学校と東京仏学校(後に東京法学校と合併し和仏法律学校、現・法政大学)の7校が認可される。この特権を得られるか否かが、私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題となる。
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1887(明治20)年、東京専門学校、高等文官試験の受験資格を得るため、東京専門学校法律学科にて特別認可を受ける。東京専門学校政治経済学科は認可対象外とし、監督・干渉を避ける。
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1887(明治20)年9月、高等中学校令施行に伴い、県立千葉医学校は官立に移管。第一高等中学校医学部に。第一高等中学校への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、県立千葉医学校・長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定。
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1887(明治20)年10月 岡倉天心(25歳)、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、東京美術学校創立を準備。文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合。
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1887(明治20)年10月4日 伊沢修二(37歳)、文部省音楽取調掛長であった自身のほか、菊池大麓・外山正一・穂積陳重ら代表的学者7名が連署した『音楽学校設立ノ儀ニ付建議』に基づき、文部省音楽取調掛を改称して東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立。初代校長に。
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1887(明治20)年10月 渡辺洪基(40歳)、明治政府が掲げる富国強兵・殖産興業政策の近代化の現場を支える職工育成を目的に。帝国大学工科大学初代工科大学長・古市公威、教授・辰野金吾、片山東熊、藤本寿吉らと共に、築地の地に日本で最古の私立の工業実業学校となる工手学校(現・工学院大学)創立。
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1887(明治20)年 西村茂樹(60歳)、『日本道徳論』刊行。日本の近代教育制度が整備されつつある中、国民教育の根本精神が重要な問題として議論されるように。首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮。日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本に、西洋の精密な学理を結合させるべきと説く。国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示。文部大臣・森有礼はこれを読んで大いに賛成するも、伊藤博文首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責。
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1887(明治20)年 伊藤博文(47歳)、創立委員長となり女子中等教育機関・女子教育奨励会(後に東京女学館)設立。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。創立委員に、渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一ほか、帝国大学英語教授・ジェムス・ディクソン、聖公会司教・アレキサンダー・ショーなど政財官界の有力者で構成。永田町御用邸(雲州屋敷)を貸与され、校舎に。
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1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥・田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀・高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一、「理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓。
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1888(明治21)年 伊沢修二(38歳)、文部省直轄の訓盲唖院を改称、東京盲唖学校(現・筑波大学付属視覚特別支援学校・筑波大学付属聴覚特別支援学校)が設立される。初代校長に。
1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)
君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。
明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。
版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。
衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。
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1889(明治22)年2月11日-12日 森有礼(43歳)、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺される。応急手当を受けるが傷が深く、翌日2月12日午前5時に死去。享年43歳。「明治の六大教育家」の1人に挙げられる。
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1889(明治22)年2月、東京美術学校開校。日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする。教官に黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲ほか。修業年限2年の普通科と3年の専修科から構成。後に西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も加わる。
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1889(明治22)年、国立の美術教育機関・東京美術学校が開校するも、西洋美術が排される。欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校した工部美術学校出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、明治美術会発足。当初は、反東京美術学校の一面を備えていた。後に1893(明治26)年にフランスより帰国した黒田清輝・久米桂一郎も入会。
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1889(明治22)年 松岡壽(28歳)、西洋美術作家達が大同団結、浅井忠らと明治美術会を組織する。会の運営にあたる。印象派風の新画風で新派・外光派(紫派)と呼ばれた黒田清輝に対し、工部美術学校系の西洋画家は旧派・脂派と呼ばれる。藤島武二ら多くの後進を指導。
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1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。
1889(明治22)年 - 1892(明治25)年 民法典論争
旧民法施行の是非を巡り論争展開。延期派は、「法典が簡明でなく」・「内容もフランス法的に過ぎる」・「拙速主義に依らず、条約改正事業と切り離して慎重に編纂すべき」と主張。断行派は、「形式上の問題は認めるが」・「内容面では十分日本の慣習を尊重している」・「法典断行が条約改正および司法権の確立に資する」と反論。論争の結果、延期派が勝利。ドイツ民法第一草案をはじめとする比較法研究を踏まえ、旧民法の形式上の欠点を克服しながら、現行日本民法典の成立に至る。
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箕作麟祥、民法典論争において、ボアソナード民法典をベースとする旧民法典の実施断行を主張。施行延期が決まった後も、法典調査会主査委員に任命され、新民法典編纂に積極的に関わっていく。1984(明治27)年に法典調査会副総裁を務めた西園寺公望は、総裁・伊藤博文に対し、副総裁を箕作麟祥に譲りたいと願い出ている。
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明治法律学校、民法典論争において和仏法律学校と共に実施断行論を掲げるも、延期派に敗れる。校運、一時衰退。ドイツ法全盛の中、ドイツ法系学者を多数招聘することで生き残り図る。