大学年表
1890年代
1890(明治23)年
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小泉信吉(36-37歳)、「慶應義塾」に大学部を創設。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、「慶應義塾」塾長を短期辞任に追い込まれる。
1890(明治23)年1月
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「慶應義塾大学部」発足、文学科・理財科・法律科の3科を設置。
1890(明治23)年
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手島精一(39-40歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、「東京職工学校」第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった「東京職工学校」の校名を、「東京工業学校」に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数も増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。
1890(明治23)年1月
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「高等商業学校」、「高等商業学校附設商工徒弟講習所職工科」を「東京職工学校」に移管。「東京職工学校附属職工徒弟講習所」に改称。同年8月に「附属職工徒弟学校」と改称。
1890(明治23)年3月25日
1890(明治23)年3月
1890(明治23)年3月24日
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「東京職工学校」、「東京工業学校」に改称。
1890(明治23)年3月
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小幡篤次郎(47-48歳)、「慶應義塾」塾長に。
1890(明治23)年5月
1890(明治23)年5月12日
1890(明治23)年10月30日
『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』、近代日本の教育の基本方針として発布。
1890(明治23)年
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濱尾新(40-41歳)、文部省専門学務局長に。農商務省主管「東京農林学校」の「帝国大学」合併を推進。
1890(明治23)年
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「東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。「帝国大学農科」再編にあたり、「帝国大学」側は一時この合併に猛反発、「帝国大学」評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。大学評議会への諮問がなかったこと、「東京農林学校」の学科水準が「帝国大学」の分科大学の程度にないという判断がなされたこと、「東京農林学校予科」の教育水準などが理由に。初代学長に、松井直吉。
1890(明治23)年
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松井直吉(32-33歳)、「帝国大学農科大学」設立、初代学長に。
1890(明治23)年
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岡倉天心(26-27歳)、「東京美術学校」校長に。日本美術史を講義、日本美術史叙述の嚆矢とされる。副校長に、フェノロサ。福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てる。
1890(明治23)年
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谷干城(52-53歳)、貴族院議員選挙に当選、政界復帰。帝国議会が開会を迎えると、「学習院」で掲げた皇室の藩屛たらんとし、政党・政府から自立して懇話会に属す。地租増徴に反対するなど、独自の政治運動を展開。明治天皇や元田永孚からは枢密院か宮中入りを望まれたが、それを断り政界から皇室を守ることを決断した上での貴族院入りとなる。
1890(明治23)年
1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月
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成瀬仁蔵(31-36歳)、アメリカ留学。「アンドーバー神学校」、「クラーク大学」にて教育学や社会学、キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察、女子教育研究。
1890(明治23)年
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坪内逍遥(30-31歳)、「東京専門学校」に文学部誕生。シェイクスピア講義は「東京専門学校」独自のものであり、花形講師に。後に、「早稲田といえば文科」と言われるほどに。
1890(明治23)年7月
1890(明治23)年
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北里柴三郎(36-37歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。
1891(明治24)年4月
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九鬼隆一(38歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令で、シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行なう、副総裁に。
1891(明治14)年
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天野為之(29-30歳)、国会にて予算委員として活動。予算削減のため、「第一高等中学校」ほか第五までの高等中学校、「女子高等師範学校」、「東京音楽学校」を廃止する案が出た際、これに異議を唱え、撤回させる。
1891(明治24)年
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「東京音楽学校」、開校まもなく、国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる。
1891(明治24)年8月13日
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嘉納治五郎(30歳)、旧制「第五高等中学校(現在の熊本大学)」校長に。
1891(明治24)年
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坪内逍遥(31-32歳)、雑誌『早稲田文学』創刊。
1892(明治25)年頃
1892(明治25)年頃
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「東京専門学校」、の別名として「早稲田大学」と呼ばれるように。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする「東京大学」教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈し、母校「東京大学医学部」と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
1892(明治25)年
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福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。
1892(明治25)年
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北里柴三郎(38-39歳)、福澤諭吉、森村市左衛門、長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立「伝染病研究所」設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
1893(明治26)年4月
1893(明治26)年
1893(明治26)年
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岡倉天心(29-30歳)、「東京美術学校」第1回卒業式を挙行。横山大観ら卒業生を送り出す。
1893(明治26)年6月
1893(明治26)年6月19日
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嘉納治五郎(32歳)、「第一高等中学校」校長に。
1893(明治26)年9月20日
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嘉納治五郎(32歳)、「東京高等師範学校」校長および「東京高等師範学校附属中学校」校長に。通算25年務める。「軍隊化」方針を一部緩和、スポーツ活動を通じた人材育成が進められた結果、日本の学生スポーツ濫觴の場となる。特に第一次大戦後、日本のスポーツが世界に飛躍していく基礎が築かれることになる。
1893(明治26)年12月
「九大法律学校」、司法省が最初に「判事検事登用試験」の受験資格を与えた司法省指定学校より、関西の「関西法律学校」を除いて「帝国大学」を加えたものに由来。「東京帝国大学」・「東京法学校」・「専修学校」・「明治法律学校」・「東京専門学校」・「東京法学院」・「獨逸学協会学校専修科」・「日本法律学校」・「慶應義塾大学部」の9つを指す。
1893(明治26)年
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九鬼隆一(40-41歳)、シカゴ万国博覧会の日本展示は、岡倉天心の意向もあり、日本画を中心とした伝統的なものとなる。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を「東京美術学校」が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。
1893(明治26)年
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小幡篤次郎(50-51歳)、「慶應義塾」副社頭に。
1893(明治26)年 - 1905(明治38)年
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「学習院」、大学科を設置。
1894(明治27)年6月25日公布
第一次高等学校令、1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、高等学校に改組することを目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。「帝国大学」に入学する者のための予科を設けることができるとしつつ、専門学校を教授することを原則とした。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。一方、制度としては従属的な扱いであった大学予科は、大いに発展。
1894(明治27)年7月
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高等学校令施行に伴い、「第一高等中学校医学部」は官立に移管、「第一高等学校医学部」に。
1894(明治27)年7月
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長尾精一(42-43歳)、「第一高等学校医学部」、医学部主事に。
1894(明治27)年9月11日
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第一次高等学校令により、「第一高等中学校」を「第一高等学校」に改組。卒業生の多くは「東京帝国大学」進学。政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)。
1894(明治27)年7月25日 - 1895(明治28)年4月17日
日清戦争
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、「帝国大学」を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置、専門教育機関として高等学校を機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた「帝国大学」を改革することはできず、日清戦争後は「帝国大学」そのものが増設。高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強めたため、構想は実現せず。
1894(明治27)年
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伊沢修二(43歳)、日清戦争後、日本が台湾を領有、台湾総督府民政局学務部長心得に。統治教育の先頭に立つ。
1894(明治27)年
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成瀬仁蔵(35-36歳)、帰国後、「梅花女学校」第5代校長に。女子高等教育機関の設立に着手。
1895(明治28)年
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近衛篤麿(31-32歳)、「学習院」院長に。華族子弟の教育に力を注ぐ。ノブレス・オブリージュを自覚、「学習院」が高い水準の教育機関であるようその組織を整備。必要な財源の確保と財務のあり方を確立することに尽力。
1896(明治29)年
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黒田清輝(29-30歳)、「明治美術会」脱退、「白馬会」結成。「東京美術学校」に西洋画科を発足。以後の日本洋画の動向を決定付ける。
1896(明治29)年
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「東京美術学校」、日本画ほか伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように。西洋画科・図案科、新設。西洋画科教官に、黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助。図案科教官に、福地復一・横山大観・本多天城。洋画興隆の基礎が形成される。
1896(明治29)年
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嘉納治五郎(35-36歳)、清国からの中国人留学生の受け入れにも努め、牛込に「弘文学院」設立。後に文学革命の旗手となる魯迅もここで学ぶ。
1896(明治29)年2月9日
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「工手学校」、第14回卒業式当夜、校舎全焼。罹災が明治天皇の天聴に達し、御下賜金を賜わる。
1896(明治29)年
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成瀬仁蔵(37-38歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。「日本女子大学校創設之趣旨」発表。
1896(明治29)年
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広岡浅子(46-47歳)、土倉庄三郎の紹介により、「梅花女学校」校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感、金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。
1897(明治30)年
帝国大学令、「京都帝国大学」設置以降、「東京帝国大学」以外の帝国大学も適用対象に。
1897(明治30)年3月24日
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成瀬仁蔵(38歳)、「日本女子大学校」第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、「学習院」院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
1897(明治30)年3月24日
1897(明治30)年3月
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嘉納治五郎(36歳)、創部仕立ての「東京専門学校」柔道部の柔道場にも指導。
1897(明治30)年4月22日
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第9帝国議会にて、衆議院・貴族院が外国語学校開設を建議。「高等商業学校」に「高等商業学校附属外国語学校」設置。
1897(明治30)年6月
1897(明治30)年9月
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「高等商業学校」、予科1年・本科3年の上に、「専攻部」(1年)を設置。大学への昇格を目指す。同じ官立高等商業学校の「神戸高等商業学校」の卒業生も受け入れる。
1897(明治30)年9月3日 - 1899(明治32)年8月24日
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三輪徳寛(37-39歳)、官費留学生が「帝国大学」教授だけでなく、「高等中学校医学部」教授にも認められることに。「高等中学校教授」の第一回官費留学生として、木村孝蔵・田代正と共にドイツ留学。留学先にて、呉秀三・佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成らと行動を共にすることも。
1897(明治30)年11月6日 - 1898(明治31)年1月12日
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濱尾新(48歳)、第2次松方正義内閣において、文部大臣に。内閣総辞職にて、辞職。
1897(明治30)年
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師範教育令により、「高等師範学校」は師範学校・尋常中学校・高等女学校の教員、「女子高等師範学校」は師範学校女子部・高等女学校の教員を養成することが定められる。また、尋常師範学校は「師範学校」と改められる。
1897(明治30)年11月19日
1897(明治30)年11月
1897(明治30)年
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学区制廃止。「第一高等学校」は全国から受験可能に。
1898(明治31)年2月8日
1898(明治31)年
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岡倉天心(34-35歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。「東京美術学校」での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長、「東京美術学校」校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦、西郷孤月、菱田春草、寺崎広業、横山大観、岡部覚弥、桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足。(美術学校騒動)
1898(明治31)年3月29日-12月22日
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高嶺秀夫(43-44歳)、「東京美術学校」校長に。
1898(明治31)年
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辰野金吾(43-44歳)、「東京帝国大学工科大学」学長に。
1898(明治31)年
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嘉納治五郎(37歳)、文部省普通学務局長に。全国各府県一校以上の高等女学校の設置を進める。
1898(明治31)年
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外山正一(49-50歳)、第3次伊藤博文内閣の文部大臣に就任。2ヶ月で退任。
1899(明治32)年2月7日公布 4月1日施行
高等女学校令、従来、中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
1899(明治32)年2月
1899(明治32)年3月
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「高等商業学校」、「商業教員養成所」を設置。
1899(明治32)年3月
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北里柴三郎(46歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念の下、「伝染病研究所」を国に寄付、内務省管轄の国立「伝染病研究所」となる。所長に。
1899(明治32)年4月4日
1899(明治32)年4月
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1899(明治32)年8月
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「慶應義塾大学」、私学として初めて、海外留学生派遣。
1899(明治32)年8月30日
1899(明治32)年9月
1899(明治32)年9月
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「東京工業学校工業図案科」、工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない、という考えに基づき設置。
1899(明治32)年
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駒井重格(46-47歳)、「高等商業学校」第10代校長に。
1899(明治32)年
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二葉亭四迷(34-35歳)、再び「東京外国語学校」設立。旧制「東京外国語学校」時代の恩師・古川常一郎の推薦を受け、ロシア語科教授に。
1899(明治32)年
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荘田平五郎(51-52歳)、三菱所内に「三菱工業予備学校」設立、所長に。自前で職工の養成を図る。