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​大学創立年表 1900年代 -

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  • 1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。

  • 津田梅子女子英学塾(現・津田塾大学)開校式辞にて、「真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。」

  • 1900(明治33)年 広岡浅子(52歳)日本女子大学校学校建設に向け、広岡家、実家の三井家一門に働きかけ。三井家から目白台の土地5,520坪を寄贈させるに至る。

  • 1900(明治33)年7月 渋沢栄一(61歳)高等商業学校の同窓会にて、商業大学必要論を開陳。設立について調査研究を続ける。商業大学実現のために斡旋尽力。

  • 1900(明治33)年9月1日 大倉喜八郎(64歳)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として、私財50万円を投じ大倉商業学校(現・東京経済大学)創立。ロンドンタイムズなどで美挙と報じられる。港区赤坂葵町(現・港区虎ノ門)の邸宅(現在はホテルオークラ・大倉集古館が建つ)の隣接地に開校。

  • 1901(明治34)年1月 神田乃武(45歳)、​欧州留学中の高等商業学校教授7名(石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)と共に、ベルリンにおいて『商業大学の必要』を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への商業学士授与を足がかりに、大学昇格運動開始。

  • 明治30年代 松崎蔵之助、金井延と共に、東京帝国大学法科大学へ社会政策学派の経済学移植に貢献、一時代を築く。ワグナーに強く影響を受ける。門下生に、柳田国男・高野岩三郎・河上肇ほか。

  • 1902(明治35)年9月2日東京専門学校、専門学校令に基づき、専門学校に。将来の大学昇格を展望して組織改編、早稲田大学に改称。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年6月 - 1906(明治39)年1月、日露戦争開戦直前、東京帝国大学教授の戸水寛人・富井政章・小野塚喜平次・高橋作衛・金井延・寺尾亨、学習院教授の中村進午の7人が、内閣総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村壽太郎に意見書提出(七博士意見書)。桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「満州・朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、対露武力強硬路線の選択を迫った。主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかった。日露戦争末期、戸水寛人は賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。文部大臣・久保田譲は文官分限令を適用、休職処分とする。ところが、戸水寛人は金井延・寺尾亨と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出。文部大臣・久保田譲は、東京帝国大学総長・山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言。このため、1906(明治39)年1月、戸水寛人の復帰が認めらた(戸水事件)。

  • 1903(明治36)年11月、専修学校専門学校令に基づき、専門学校の認可を受ける。

  • 1904(明治37)年4月専門学校令に基づき、早稲田大学発足。大学部に政治経済学科・法学科・文学科に加えて、商科新設。

  • 1904(明治37)年4月 關一(32歳)高等商業学校同僚の下野直太郎星野太郎・佐野善作・村瀬春雄・坂本陶一・石川文吾・瀧本美夫・横井時冬らと共に、私立大学初の商学部となる明治大学商学部設立に尽力。鉄道・経済政策を講じる。

  • 1906(明治39)年9月、専修学校、学則改正、大学部経済科・法律科・商科を設置。修業年限3年。あわせて、専門部・高等専攻部、専門学校令による昼間の高等予科設置。

1906(明治39)年 帝国学士院設立

帝国学士院規程の勅令公布。研究者に対する顕彰等の事業を通じ、日本の学術の発展を図る目的で設置。文部大臣の管理下に置かれ、勅旨により会員を任命。定数60人。日本列島だけでなく、台湾や南樺太など外地からも選任される。初代院長に、加藤弘之

  • 1906(明治39)年 正木直彦(45歳)黒田清輝・大塚保治らと共に、政府による芸術振興を建議。これを受け、翌1907(明治40)年に第1回文部省展覧会(文展)が開催されることに。文展委員主事に。委員長は文部次官・澤柳政太郎。

  • 1907(明治40)年、『商科大学設置に関する建議案』が帝国議会を通過。東京高等商業学校の大学昇格運動は最高潮に。

1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 申酉事件

大学への昇格を目指す東京高等商業学校に対し、第2次桂内閣および文部省東京帝国大学法科大学に経済・商業2科を新設し、さらに東京高等商業学校専攻部を廃止、東京帝国大学法科大学に事実上吸収する方針を決定。商業大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる商業大学昇格運動は挫折。運動を進めてきた関一佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。

  • 1914(大正3)年11月5日 北里柴三郎(62歳)、私財を投じ、新たに北里研究所設立。初代所長に。狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発に取り組む。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1918(大正7)年、東京高等師範学校第一次世界大戦後の政府の高等教育拡充政策の下、大学令により多くの高等教育機関が大学昇格を果たす中。校友会が「吾人はすでに忍ぶべきを忍び堪うべきを堪えたり。今や我らは起りて死力を尽して目的の貫徹に努むるのみ」と宣言。教授会・茗渓会と連携、「教育尊重、精神文化の宣揚」をスローガンに掲げ、大学昇格運動が本格化。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 第二次高等学校令

高等教育の拡大・改善を目的に。高等学校を「男子ノ高等普通教育ヲ完成スル」ための機関と位置付け、その内容を拡大・充実。官立のナンバースクールのみであった高等学校が、官立・私立・公立に拡大。1943(昭和18)年までに、高等学校は33校に。

  • 1919(大正8)年、第二次高等学校令に基づき、学習院が高等学校に。中等科5年・高等科3年の8年制を採用。

1919(大正8)年2月7日公布・4月1日施行 第二次帝国大学

帝国大学令を全部改正。分科大学制を廃止、学部制に。帝国大学官制により、総長・学部長・教授・助教授その他必要な職員を設置。

  • 1919(大正8)年4月1日東京帝国大学第二次帝国大学令により学部制へ。法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部に加えて経済学部を新設。

  • 1920(大正9)年4月、慶應義塾大学、大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可。文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に。予科・大学院を付設。

  • 1920(大正9)年、早稲田大学、大学令に基づき、大学に。政治経済学部・法学部・文学部・商学部・理工学部設置。大学院設置。早稲田高等学院設置。

  • 1920(大正9)年、青山学院理事会、大学令公布を機に、独自に大学設置計画を進めることを決定。しかし、青山学院第4代目院長・高木壬太郎が翌年に死去、さらに関東大震災の被災もあり、計画は見送りに。

  • 1920(大正9)年3月、青山女学院、英文専門家が関東のミッション・スクールで唯一専門学校の認可を受けるなど発展を続けていたが、連合キリスト教主義女子高等教育機関として創立の東京女子大学の基礎高めに協力、閉校。

  • 1921(大正10)年11月、第二次高等学校令に基づき、官立・東京高等学校創立。日本初の官立七年制高校で尋常科および文科・理科からなる高等科を設置。独特の教育制度の下、数々の傑出した人材を生み出す。東京帝国大学への進学率は8割に。初代校長に、湯原元一

  • 1921(大正10)年12月9日 松岡壽(60歳)東京高等工藝学校設立。初代校長に。修業年限3年の本科に工芸図案科・工芸彫刻部・金属工芸科・木材工芸科・印刷工芸科を設置。

  • 1922(大正11)年5月、専修大学、大学令に基づき、大学昇格。専門学校令による専門部を併設。

1923(大正12)年9月1日11時58分32秒 関東大震災

神奈川県および東京府(現・東京都)を中心に、隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸・沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらす。死者・行方不明者は推定10万5,000人。明治以降の日本の地震被害として最大規模の被害に。

  • 1925(大正14)年 ​高田早苗(66歳)、仮放送を開始したばかりのラジオに出演。『新旧の弁』と題する講演を行う。日本最初の教育放送に。

  • 1929(昭和4)年4月1日、大学昇格、東京工業大学発足。染料化学科・紡織学科・窯業学科・応用化学科・電気化学科・機械工学科・電気工学科・建築学科の8学科と数学教室・物理学教室・物理化学教室・分析化学教室の4教室設置。

  • 1929(昭和4)年、東京高等師範学校専攻科を母体に、官立単科大学設立。東京文理科大学発足。政府や議会の審議にて、「教員養成を専門とする師範大学」か、「研究に重点を置く単科大学」かについて論争。結局後者の意見が通り、文理学部のみを置く文理科大学として実現をみることに。東京高等師範学校は大学昇格することなく、附設として存続。

  • 東京文理科大学設立後間もなく、深刻化した大恐慌に伴い財政難に。文部省からの廃止論に晒される。また、従来通り教員養成を主体とする教員と、大学での研究活動に重きを置く教員とが対立。研究重視に不満を持つ東京高等師範学校・茗渓会、東京文理科大学をフランスのエコール・ノルマルをモデルとする師範大学に改組するべく運動を起こす。

  • 1929(昭和4)年 佐野善作(57歳)、関東大震災により神田一ツ橋の東京商科大学校舎崩壊。これを契機に大学移転を検討、堤康次郎とともに神奈川県北多摩郡谷保村(現・東京都国立市)をドイツ・ゲッティンゲンをモデルに学園都市として開発。翌年9月にかけ、校舎移転。

  • 1943(昭和18)年 星野あい(60歳)、太平洋戦争勃発、英語不要論により全国の高等女学校英語科が廃止、英語教師の需要も激減。津田英学塾は再び存続の危機に。塾存続のため、校名から英学塾を外して津田塾専門学校に改称。理科(数学科・物理化学科)を増設。英文学科のみであった塾にとって、理科増設は困難を極める。

1943(昭和18)年2月16日 専門学校令改正

実業学校令廃止、専門学校と実業専門学校の区別廃止。翌年、各種専門学校は経済専門学校(旧高等商業学校・旧高商)・工業専門学校(旧高等工業学校・旧高工)・農林専門学校(旧高等農業学校・旧高農)・外事専門学校(旧外国語学校)など改称。

1943(昭和18)年3月8日公布 第2次師範教育令

師範学校はすべて官立に移管。専門学校と同格の教育機関に昇格。新しく青年師範学校設置。

  • 1945(昭和20)年4月5日、東京大空襲、東京工業専門学校、芝浦校舎が焼失。千葉県松戸の陸軍工兵学校跡地に移転。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 教員養成について、連合国軍最高司令官総司令部よりアメリカに倣って大学で行うよう指導。アメリカのリベラルアーツカレッジなどを手本に、各地の師範学校は新制大学の教育学部・学芸学部として再出発することに。

  • 1948(昭和23)年、東京文理科大学、下村寅太郎教授起草とされる『文理科大学宣言』を発表。大学再建の方針として「人文科学と自然科学との真の綜合大学たるの実を挙げ(中略)教養人としての教師を打出す」ことを掲げる。戦前以来の東京文理科大学東京高等師範学校・茗渓会との対立が再燃。

  • 1948(昭和23)年、学制改革により、新制大学として日本女子大学発足。家政学部・文学部設置。

  • 1949(昭和24)年4月、学制改革により、新制大学として慶應義塾大学発足。文学・経済学・法学・工学の4学部設置。

  • 1949(昭和24)年4月、学制改革により、新制大学として早稲田大学発足。11学部(第一政治経済学部・第一法学部・第一文学部・教育学部・第一商学部・第一理工学部・第二政治経済学部・第二法学部・第二文学部・第二商学部・第二理工学部)設置。

  • 1949(昭和24)年4月、学制改革により、新生大学として専修大学発足。商経学部・法学部設置。生田キャンパスにて授業開始。

  • 1949(昭和24)年4月1日、大倉経済専門学校新生大学へ昇格、東京経済大学に。在校生がアルバイトをして募金するなど、全校を挙げて旧制専門学校から新制大学への昇格運動に取り組む。経済学部経済学科・商学科設置。

1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法

文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。

  • 1949(昭和24)年5月、国立学校設置法より、大阪帝国大学を母体に旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校など統合、新制・大阪大学発足。文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部と一般教養部からなる。法文学部が新設されるに際し、大阪大学懐徳堂記念会との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の貴重な資料等と職員を移管。充実した文系学部の基盤が作られる。

  • 1949(昭和24)年5月31日、学制改革に伴い、新制・一橋大学発足。東京商科大学を内包。商学部・経済学部・法学社会学部を置く。

  • 1949(昭和24)年5月、学制改革に伴い、新制大学・東京工業大学発足。工学部設置。

  • 1949(昭和24)年5月、国立学校設置法、大阪帝国大学を母体に旧制大阪高等学校、旧制浪速高等学校、大阪薬学専門学校などを統合。5学部(文学部、法経学部、理学部、医学部、工学部)と一般教養部からなる新制・大阪大学発足。法文学部が新設されるに際し、大阪大学と懐徳堂記念会との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の貴重な資料等と職員を移管。充実した文系学部の基盤が作られる。

  • 1949(昭和24)年、学制改革により新生大学に、青山学院大学発足。文学部・商学部・工学部の3学部で開校。

  • 1951(昭和26)年、学制改革により新生大学に、順天堂大学発足。

  • 1953(昭和28)年 天野貞祐(70歳)、戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴い、母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が衰微。母校再建のため、獨協学園校長に。自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った獨協再建に尽くす。

  • 1964(昭和39)年、茨木市宿久庄に梅花女子大学設立。文学部・日本文学科・英米文学科設置。

  • 1973(昭和48)年10月、1970(昭和45)年成立の筑波研究学園都市建設法および1973(昭和48)年改正の国立学校設置法により、東京教育大学を母体に、新構想大学として筑波大学発足。

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