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ダイガクコトハジメ - 星野あい

星野あい

出身校

  • フェリス英和女学校

  • 女子英学塾

  • ブリンマー大学

  • コロンビア大学

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

参考情報

参考文献・書籍

 

年表

星野あい

ほしのあい

1884(明治17)年9月19日 - 1972(昭和47)年12月5日

女子英学塾(現・津田塾大学)第2代塾長・津田塾大学初代学長

  • 1884(明治17)年9月19日 星野あい(1歳)、横浜に生まれる。父の事業がうまくいかず、一家で生家・群馬県沼田に戻る。

  • 1897(明治30)年 星野あい(14歳)、キリスト教受洗。

  • 1899(明治32)年 星野あい(16歳)、フェリス英和女学校(現・フェリス女学院大学)入学。

  • 1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。

  • 津田梅子女子英学塾(現・津田塾大学)開校式辞にて、「真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。」

  • 1906(明治39)年9月 星野あい(23歳)、津田梅子が創設した日本婦人米国奨学金の受給者に選ばれる。津田梅子の母校・ブリンマー大学入学。

  • 1919(大正8)年1月 津田梅子(56歳)、​女子英学塾の経営基礎が整うと、塾長辞職。創業期より健康を損ない、鎌倉の別荘で長期闘病。

  • 1919(大正8)年9月 星野あい(36歳)、帰国。重態に陥っていた病気療養中の津田梅子より、「あまり規模を大きくしないこと、あくまでも堅実にやってゆくこと、万事よろしく頼む」と紙片を受け取る。女子英学塾(現・津田塾大学)教頭に就任。

  • 1922(大正11)年、女子英学塾、東京府北多摩郡小平村に新校地2万5千坪を購入。

  • 1923(大正12)年、女子英学塾、関東大震災、五番町校舎が全焼。存続の危機に。

 

  • 1929(昭和4)年8月16日 津田梅子(66歳)、死去。享年66歳。生涯、独身を貫く。

  • 1932(昭和7)年、女子英学塾、アナ・ハーツホンのアメリカでの献身的な募金活動により、小平校舎建設。移転。

  • 1943(昭和18)年 星野あい(60歳)、太平洋戦争勃発、英語不要論により全国の高等女学校英語科が廃止、英語教師の需要も激減。津田英学塾は再び存続の危機に。塾存続のため、校名から英学塾を外して津田塾専門学校に改称。理科(数学科・物理化学科)を増設。英文学科のみであった塾にとって、理科増設は困難を極める。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 1948(昭和23)年3月25日、学制改革により新生大学に、津田塾大学発足。初代学長に、星野あい

  • 1952(昭和27)年 星野あい(69歳)、津田塾大学学長退任。名誉学長に。

  • 星野あい、汎太平洋東南アジア婦人協会日本委員に。

  • 星野あい、国際基督教大学評議委員に。

  • 星野あい、日本国際協会婦人部委員に。

  • 1972(昭和47)年 星野あい(89歳)、死去。享年89歳。

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