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ダイガクコトハジメ - 大蔵省銀行学局

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​学校略歴

  • 1869(明治2)年8月、二官六省制により、大蔵省発足

  • 1872(明治5)年6月、大蔵省翻訳局設立、外国書翻訳や銀行要員養成のため有給生徒募集、錚々たる人財が入局

  • 1874(明治7)年4月、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより、紙幣寮銀行課の一部局として大蔵省銀行学局設立、日本で最初の商業教育機関と呼べる

  • 1875(明治8)年8月、森有礼、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉渋沢栄一らの協力を得て東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(現・一橋大学)創立、当初は官立による商業学校設立を目指したものの資金不足が課題となり断念、9月24日に東京会議所より東京府知事に開設届出、創立記念日となる

  • 1875(明治8)年 - 1876(明治9)年、国立銀行などから自費通学生を募集、銀行学局生徒の多くが紙幣寮に採用された為、銀行学局閉鎖

  • 1877(明治10)年12月、大蔵省銀行学伝習所設立

  • 1879(明治12)年6月30日、大蔵省銀行学伝習所閉鎖

  • 1879(明治12)年 - 1882(明治15)年、大蔵省簿記学伝習所を開設するも、閉鎖

  • 1882(明治15)年4月、大蔵省銀行局直属の大蔵省銀行事務講習所開設

  • 1885(明治18)年5月、東京商業学校(現・一橋大学)、管轄が文部省に移管

  • 1886(明治19)年3月31日、政府直轄学校がすべて文部省所管に、大蔵省銀行事務講習所閉鎖

  • 1886(明治19)年5月、大蔵省銀行事務講習所東京商業学校に付属、銀行専修科に

​→ 橋大学

創立者

学校年表

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月、朝廷に政府運営のための資金調達の機関として、金穀出納所設置。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月、明治政府が太政官制導入。金穀出納所は会計官に。

  • 1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。

  • 1869(明治2)年3月17日(旧暦・2月5日) 大隈重信(32歳)、外国官判事兼会計御用掛として造幣局設立を建白、貨幣制度改革を主導。3月4日、三条実美に対して通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白、了承される。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月、二官六省制により、会計官は大蔵省に。初代大蔵卿に松平慶永。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策・政治勢力で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。

  • 1869(明治2)年10月 渋沢栄一(29歳)、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、大久保一翁に相談。上京。大隈重信に説得され、大蔵省入省。民部省改正掛を率いて改革案を企画立案、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。

  • 1870(明治3)年3月 大隈重信(33歳)、貿易による外貨獲得を目的に、生糸の輸出振興を主政策として、近代生産方式による産業育成を図る。伊藤博文らと協議、官営の模範製糸場・富岡製糸場設立を廟議決定。富岡製糸場設置主任に、渋沢栄一を任命。

  • 1870(明治3)年 渋沢栄一(31歳)、大蔵少丞に。官営富岡製糸場設置主任に。

  • 1870(明治3)年11月 - 1871(明治4)年5月 伊藤博文(30-31歳)、財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学ぶ。帰国後、日本最初の貨幣法である新貨条例を建議。制定。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大隈重信(34歳)、民部省を改めて大蔵省に合併。巨大官庁・大蔵省を誕生させる。地租改正などの改革に当たると共に、殖産興業政策を推進。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵少輔兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年6月、大蔵大輔・井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した、大蔵省翻訳局設立。外国書翻訳や銀行要員養成のため、有給生徒を募集。小池清一(後に貴族院議員)・島田三郎・田口卯吉・高梨哲四郎(後に衆議院議員)・三輪信次郎(後に銀行学局教官)など錚々たる人財が入局。

  • 1874(明治7)年4月、大蔵省、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより紙幣寮銀行課の一部局として、大蔵省銀行学局設立。実質的に翻訳局を引き継ぐものに。日本で最初の商業教育機関と呼べる。銀行学局長に、日下義雄。副長に、宇佐川秀次郎

  • 1874(明治7)年4月 日下義雄(23歳)、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより紙幣寮銀行課の一部局として、大蔵省銀行学局設立。実質的に大蔵省翻訳局を引き継ぐ。銀行学局局長に。

  • 1874(明治7)年5月 藤尾録郎(20歳)大蔵省銀行学局入局。紙幣寮御用掛。

  • 1874(明治7)年6月- 福澤諭吉(40歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を慶應義塾出版局より刊行。

  • 1874(明治7)年6月10日 宇佐川秀次郎(26歳)、大蔵省紙幣寮入省。八等出仕。丹吉人・小林雄七郎・遠藤敬止ら慶應義塾の同窓と共に、初期の大蔵省を牽引。

  • 1875(明治8)年8月 森有礼(29歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉渋沢栄一らの協力を得て、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(現・一橋大学)創立。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎も創立に参加。9月24日、東京会議所より、東京府知事に開設届出。

  • 森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった​商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾・商法講習所開設。

  • 1875(明治8)年11月 森有礼(29歳)、清国公使として清国渡航を拝命。私塾・商法講習所の経営に携わることができなくなり、管理を東京会議所に移管。渋沢栄一・益田孝・福地源一郎が経営委員に。

  • 1875(明治8)年 - 1876(明治9)年、大蔵省、国立銀行などから自費通学生を募集。銀行学局生徒の多くが紙幣寮に採用された為、銀行学局閉鎖。銀行課内に翻訳掛を新設、生徒の教育と翻訳が委嘱される。

  • 1876(明治9)年7月 藤尾録郎(22歳)大蔵省銀行学局卒業。紙幣寮銀行課翻訳掛助手。

  • 1879(明治12)年6月30日、銀行学伝習所閉鎖。

  • 1879(明治12)年 - 1882(明治15)年、銀行学伝習所教官が諸器械類を下賜。大蔵省官用地を借用し、大蔵省簿記学伝習所を開設するも、閉鎖。

  • 1882(明治15)年4月、大蔵省銀行局直属の大蔵省銀行事務講習所開設。所長心得に、藤尾録郎

  • 1886(明治19)年3月31日、政府直轄学校がすべて文部省所管に。大蔵省銀行事務講習所閉鎖。

  • 1886(明治19)年5月、大蔵省銀行事務講習所東京商業学校に付属。銀行専修科に。

​→ 一橋大学

 

大蔵省銀行学局年表

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