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ダイガクコトハジメ - 大学創立年表

大学創立年表 - 1850年代

1860年代

  • 671(天智天皇10)年、『日本書紀』に「学識頭」の役職名の記述。『懐風藻』序文に「天智天皇が学校創立」の記述もあり、この時代に朝廷内における官人育成の教育機関・大学寮の由来があるという説が有力。壬申の乱などの影響で、整備が遅れる。

  • 701(大宝元)年、大宝律令、学令の制定により、官人育成の教育機関として大学寮の制度が確立。儒教を教える明経道が中心となる。

  • 821(弘仁12)年 藤原冬嗣、藤原氏一族の官界進出を援ける教育機関として勧学院創立。大学寮の付属機関・大学別曹として位置付けられたが、運営は氏族に属しており、大学寮の統制下にはなかった。各氏族が大学別曹創設、大学寮の地位が徐々に低下。

  • 平安時代初期大学寮の全盛期。背景に、勧学田の拡張や大学教官への職田設定、学生に対する学問料・給料(学資)支給制定などの財政支援策。

「日本最古の学校」・「日本最古の総合大学」とされる足利学校創立

平安時代初期・832(天長9)年に小野篁が創立した説、鎌倉時代初期・建久年間(1190年-1199年)に足利義兼が創立した説など年代・創立者には諸説あり。「坂東の大学」と呼ばれ、室町時代の全盛期には学徒3,000人と言われ、事実上日本の最高学府となる。儒学を中心に史学易学・医学・兵学など教える。

  • 1177(安元3)年5月27日(旧暦・4月28日)、平安時代末期、平安京内で安元の大火。大学寮、事実上廃絶。以後、朝廷内に公式な教育機関は存在せず。

日本における近世学校の発端は、室町時代より認められる。

  • 1432(永享4)年 上杉憲実(23歳)、足利領主に。室町前期に衰退した足利学校の再興に尽力。鎌倉円覚寺の僧快元を初代庠主に招く。蔵書寄贈。

  • 1447(文安4)年 上杉憲実(38歳)、足利荘及び足利学校に対し、3か条の規定を定める。足利学校で教えるべき学問を『三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選』のみと限定。「仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべき」とし、仏教色を排す。教育の中心は儒学であったが、初代庠主・僧快元が『易経』のみならず易学にも精通、易学を学ぶために訪れる者も多く、また兵学、医学なども教える。

  • 享禄年間(1530年頃)、足利学校、火災で一時的に衰退。第7代庠主・九華、北条氏政の保護を受けて再興。学徒3,000人と全盛期を迎える。

  • 1549(天文18)年、足利学校の隆盛について、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記す。海外まで名が伝わる。

  • 1587(天正15)年、足利学校の隆盛について、ルイス・フロイス『日本史』に「坂東随一の大学」と記す。

  • 江戸時代前期 - 中期、足利学校の第9代庠主・三要が徳川家康の信任を受け、京都伏見・瑞巖山圓光寺の開山となる。徳川家康の下で詩経の講義、漢籍の出版、近畿地方の寺院の統制、外交文書の作成等に活躍。幕府より100石の朱印地を賜る。毎年初めにその年の吉凶を占った年筮を幕府に提出。足利領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、2度目の繁栄を迎える。

1630(寛永7)年 - 1632(寛永9)年 上野忍岡に林家の書院・学寮設立・聖廟(先聖殿)建立

1630(寛永7)年、3代将軍・徳川家光が林家に上野忍岡の五千余坪の土地と二百両を与え、書院と学寮を設立。昌平坂学問所の起源に。1632(寛永9)年、徳川義直が同地内に聖廟(先聖殿、後に忍岡聖堂)建立。

  • 1632(寛永9)年 林羅山(50歳)、将軍・徳川家光より江戸上野忍岡に土地を与えられ、私塾弘文館(学問所)・文庫と孔子廟を建て、先聖殿(後に忍岡聖堂)と称する。私塾より多くの門人を輩出、後の昌平坂学問所東京大学の源流)の起源となる。尾張藩初代藩主・徳川義直がこれを助け、孔子の聖像、顔子・曾子・子思・孟子の四賢像、祭器を寄付。先聖堂の扁額を書いて与える。祭祀の維持運営が代々の林家当主に継承される。門下より幕府および諸藩に仕える者を多数輩出。

1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

- 江戸時代中期 藩校設立

3代将軍・徳川家光時代までの武断政治から文治政治へ転換。優秀な人材の育成のため、諸藩により藩校が各地に設立されていった。日本初の藩校は、1669(寛文9)年に岡山藩主・池田光政が設立した岡山学校、または寛永年間(1624年-1644年)名古屋藩が設立した明倫堂と言われる。藩校が全国に拡がったのは宝暦期(1751年-1764年)以後。藩政改革の一環として諸藩により設立が進められ、発展期には全国255校を数え、ほぼ全藩に設立される。

1690(元禄3)年 神田湯島に聖廟(大成殿)建立・林家塾を移す

5代将軍・徳川綱吉が神田湯島に六千坪の土地を与えて聖廟(大成殿)建立。林家塾(後に昌平坂学問所)を移す。孔子の生地である「昌平郷」に因み、「昌平坂」と命名。

  • 1691(元禄4)年 林鳳岡(47歳)、5代将軍・徳川綱吉の命にて、上野忍岡邸内の聖堂(孔子廟)を神田台(現・湯島)に移す。先聖殿を大成殿と改称。あわせて、講堂・学寮が整備される。この土地を孔子の生地である昌平郷にちなみ、昌平坂と命名。聖堂学問所東京大学の源流)を管掌、大学頭に任じられる。以降、大学頭の官職は林家の世襲となる。この時まで、儒者は仏僧の風に従い、士籍に入ることはできなかったが、これに強く反対。士籍に入ることが認められ、束髪改服。従五位下に叙せられる。

  • 1724(享保9)年5月 三宅石庵(60歳)、門弟であった大坂の有力町人・五同志は中井甃庵とはかり、尼崎町一丁目北側(現・今橋三丁目)の道明寺屋吉左衛門(富永芳春)隠宅に懐徳堂大阪大学文系学部の源流)を創立。初代学主に迎えられ、初期懐徳堂の基礎を築く。朱子学を中心とする中国の思想を基礎としながらも諸学の良い点は何でも折衷して取り入りる学風より、「鵺学問」とも称される。

  • 1726(享保11)年 三宅石庵(62歳)中井甃庵の奔走により、江戸幕府より官許を得る。懐徳堂が大坂学問所として認可される。大坂の有力町人・五同志を中心とする運営が基本となり、半官半民の体制が継続される。

  • 1726(享保11)年 中井甃庵(34歳)、三輪執斎を頼り、懐徳堂の官許獲得に奔走。大坂町奉行より官許を得る。初代学主に、三宅石庵。学問所預人に就任。

  • 1787(天明7)年 柴野栗山(52歳)、江戸幕府老中・松平定信より招聘され、幕臣に。岡田寒泉と共に湯島聖堂取締に。大学頭・林信敬を補佐、朱子学による学風の統一・刷新と学制の整備に当たる。

  • 1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)懐徳堂大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。

  • 1790(寛政2)年 柴野栗山(55歳)、寛政の改革を進める江戸幕府老中・松平定信に湯島聖堂をはじめとする教育機関における朱子学の復興、異学の禁止を建議。寛政異学の禁を指導。

1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁

江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学は不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の維新を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。

林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。

朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。

  • 江戸時代中期 - 後期、京都より関東に伝えられた朱子学の官学化により、易学中心となっていた足利学校は衰退。貴重な古典籍を所蔵する図書館としての役割となる。

1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立

学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山尾藤二洲古賀精里の3名は寛政の三博士」と呼ばれる。

  • 1799(寛政11)年、長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成。敷地面積は1万6千坪余りに。大成殿も水戸孔子廟にならい、創建時2.5倍規模の黒塗りの建物に改められる。

  • 1806(文化3)年 古賀穀堂(29歳)、佐賀に帰藩。佐賀藩校・弘道館の教授に任じられる。佐賀藩第9代藩主・鍋島斉直に意見書『学政管見』提出。「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」など提言、教育の重要性を訴えるのみならず、学問に励まない藩士・僧侶の処罰、儒学以外の医学・蘭学の振興の必要性を訴える。

  • 1814(文化11)年 安積艮斎(24歳)、江戸神田駿河台の幕府旗本小栗家屋敷内に私塾・見山桜を創立。朱子学だけでなく、危険視されていた陽明学など他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱える。外国事情にも詳しく、海防論の論客としても知られる。学んだ門人は2,000人以上と言われ、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、安場保和、秋月悌次郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎、近藤長次郎、前島密などが学ぶ。見山桜創立の頃、蘭学者・儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した尚歯会に参加。渡辺崋山らと親交。

  • 1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。

1825(文政8)年 異国船打払令

江戸幕府が発した、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃、追い返すとした外国船追放令。上陸外国人については逮捕を命じる。フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件を受けて発令したものとみられる。また水戸の漁民たちが沖合で操漁する欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機となっている。

  • 高橋景保、樺太東岸の資料を求めていたところ、シーボルトよりクルーゼンシュテルン『世界周航記』などが贈られる。その代わりに、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈る。日本地図は当時、禁制品扱いとなっており、これをシーボルトが持ち出そうとしたことが事件の発端となる。

1828(文政11)年9月 シーボルト事件

オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。

  • 1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。

  • 1831(天保2)年 伊東玄朴(31歳)、士分に昇格。佐賀藩医官に。江戸に蘭学塾・象先堂設立、杉谷雍助・佐野常民ら多くの門人を輩出。

  • 1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢でああった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)古賀穀堂『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。

  • 1836(天保7)年 緒方洪庵(27歳)、長崎遊学。オランダ人医師ニーマンに医学を学ぶ。この頃より、洪庵と号す。

  • 1837(天保8)年 大槻俊斎(32歳)、才能を見込んだから手塚良仙より、学資の援助を受ける。長崎遊学。高島秋帆らに学ぶ。緒方洪庵を知る。

  • 緒方洪庵適塾(適々斎塾)の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。

  • 緒方洪庵適塾(適々斎塾)の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。

1839(天保10)年 蛮社の獄

「蛮社」は洋学仲間の意、「蛮学社中」の略。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。

  • 1840(天保11)年 - 鍋島直正(鍋島閑叟)(26-歳)、アヘン戦争で清国がイギリスに敗北、長崎警備の任を担っていた佐賀藩でも欧米列強に対する危機感が急速に高まる。長崎警備・長崎港警備の強化を掲げるも、幕府の財政難で支援を得られず。独自に西洋の軍事技術導入を図る。精錬方設置、反射炉などの科学技術の導入と展開に努める。結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功。蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所設置。蒸気機関・蒸気船の製造にも成功。

  • 1842(天保13)年 玉木文之進(33歳)、畳一間の私塾を開き、松下村塾と名付ける。少年だった甥・吉田松陰も入門。指導は非常に厳格なもので、吉田松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。親戚の乃木希典も教育を受ける。

  • 1843(天保14)年10月 佐藤泰然(40歳)、蛮社の獄で永牢となった高野長明との師弟関係などから幕府より要注意人物とされていた折、佐倉藩家老・渡辺弥一兵衛より招聘を受ける。蘭医学塾・和田塾を女婿の林洞海に託し、佐倉に移住。門人・山口舜海(後に佐藤尚中)らが同行。病院兼蘭医学塾・佐倉順天堂創立。初代堂主に。その治療は当時の最高水準を極める。手術の記録は高弟・関寛斎の『順天堂外科実験』に記される。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。

  • 1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。

  • 1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。

  • 1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。

  • 1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、蘭書翻訳取締令、『増訂荷蘭語彙』が出版禁止・不許可に。

  • 1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラス製造、地震予知器開発に成功。牛痘種の導入も企図。木挽町(現・東京都中央区銀座)に五月塾創立。砲術・西洋学を講じる。勝麟太郎(勝海舟)吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙加藤弘之、山本覚馬ほか幕末・明治維新に影響を与えることになる人材が続々と入門、門下は数百人に及ぶ。

  • 吉田松陰アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感。西洋兵学を学ぶため、九州遊学。次いで、江戸に出て佐久間象山安積艮斎に師事。

  • 佐久間象山、地理的に近かった中津藩江戸藩邸より、多数の子弟を受け入れ。砲術・兵学を教える。中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造。また、藩邸に赴き、学問教授。このため、中津藩の調練は他藩に比べて大いに進歩。

  • 1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。

  • 1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。

  • 1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1853(嘉永6)年 佐久間象山(43歳)、ペリー来航。松代藩軍議役として浦賀の地を訪れる。報告を江戸幕府老中・阿部正弘に『急務十条』として奏上。この機に、吉田松陰に暗に外国行きを勧める。

  • 1853(嘉永6)年 吉田松陰(24歳)、ペリーが浦賀に来航。師・佐久間象山と黒船を遠望観察。西洋の先進文明に心を打たれる。同志・宮部鼎蔵に「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と書簡を送る。

  • 1853(嘉永6)年 吉田松陰(24歳)、師・佐久間象山の薦めもあり、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と共に長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとする。クリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航、想いを果たせず。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。

  • 1853(嘉永6)年 老中首座・阿部正弘、江川英龍・岩瀬忠震・勝海舟・大久保忠寛(一翁)・永井尚志を海岸防禦御用掛へ任用。幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせる。

  • 1853(嘉永6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(39歳)、江戸幕府老中・阿部正弘による意見募集にて、アメリカの武力外交に対する強固な攘夷論を唱える。品川台場建設に佐賀藩の技術を提供、阿部正弘の信頼を得る。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を熟知、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。

  • 1854(嘉永7)年 吉田松陰(25歳)、日米和親条約締結の為にペリー再来航。金子重之輔と二人、海岸につないであった漁民の小舟を盗み、下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船。しかし、渡航拒否、小船も流される。下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄される。幕府の一部にて佐久間象山吉田松陰両名を死罪にという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中・松平忠固、老中首座・阿部正弘が反対。助命、国許蟄居に。長州へ檻送、野山獄に幽囚。ここで富永有隣、高須久子と知り合う。獄中にて、密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記す。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 古賀謹一郎(39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中・阿部正弘に対し建白書を提出。洋学所東京大学の源流)設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求め、阿部正弘の目に留まる。

  • 1855(安政2)年8月30日 古賀謹一郎(40歳)、黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充、洋学所創立。老中・阿部正弘より直に、頭取を任じられる。

  • 1855(安政2)年 安政の大地震、洋学所が全壊消失。

1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立

ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志

  • 長崎海軍伝習所、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。

  • 1855(安政2)年7月29日 永井尚志(40歳)、長崎に新設された海軍士官養成機関・長崎海軍伝習所総監理に。長崎赴任。長崎製鉄所設立に着手するなど活躍。

  • 1855(安政2)年10月20日 勝海舟(33歳)長崎海軍伝習所入所。オランダ語が堪能であった為、教監も兼ねる。伝習生とオランダ人教官の連絡役も担う。第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。

  • 1855(安政2)年12月1日、日蘭和親条約締結、長崎海軍伝習所にて第一回の伝習が行われる。第一期生として幕府伝習生37名、諸藩の伝習生128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が参加。オランダに発注した蒸気船2隻(後の咸臨丸・朝陽丸)の乗員養成が図られる。

1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令

新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

1857(安政4)年3月 築地に軍艦操練所新設

永井尚志をはじめ多数の幕府伝習生が長崎海軍伝習所より教員として動員され、長崎海軍伝習所生は45名程に勝海舟は留任。江戸から遠い長崎で伝習所を維持することが財政負担となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになる。

  • 1857(安政4)年8月 大槻俊斎(52歳)、自宅に伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫ら蘭方医10人と斎藤源蔵が集まり、種痘所開設を会議。幕閣の開明派・川路聖謨に働きかけ。種痘所の計画用地として川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとする。

  • 1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共に、オランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら11名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。

  • 1857(安政4)年 吉田松陰(28歳)、叔父・玉木文之進が主宰する松下村塾の名を引き継ぎ、杉家隣の小屋を改装、8畳1間の松下村塾創立。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学など広範な学問が教授される。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。

1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立

江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎

1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令

幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。

  • 1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。

  • 1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。

  • 1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。

 

1858(安政5)年 - 1859(安政6)年 安政の大獄

幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印。また、将軍継嗣を徳川家茂に決定。これら諸策に反対する尊王攘夷家や一橋派の大名・公卿・志士らを弾圧。連座した者は100人以上に。

  • 1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉鎖。設置期間は短かったが、江戸時代においてオランダを通じて西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たした。洋学者の多くは先ずは長崎で蘭学を学ぶことに。

  • 1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾英学塾に転身する契機に。

  • 福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。

1860年代

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