ダイガクコトハジメ - 加藤弘之
出身校
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出石藩校・弘道館
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済美館
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長崎英語伝習所
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佐賀藩校・致遠館
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関連する教育者
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赤沢寛堂
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大木仲益
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大村益次郎
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勝海舟
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川本幸民
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神田孝平
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津田真道
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坪井信良
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手塚律蔵
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寺島宗則
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フルベッキ
参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
加藤弘之
かとうひろゆき
1836(天保7)年8月5日(旧暦・6月23日) - 1916(大正5)年2月9日
文学博士、大学大丞、文部大丞、外務大丞、東京開成学校(現・東京大学)綜理、東京大学初代総理、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立、帝国大学第2代総長、明六社発起人、帝国学士院初代院長
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1836(天保7)年8月5日(旧暦・6月23日) 加藤弘之(1歳)、但馬国出石藩(現・兵庫県豊岡市)に出石藩家老を務めた加藤家の加藤正照と母・錫子の長男として生まれる。幼名、土代士。
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加藤弘之、出石藩校・弘道館で学ぶ。
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1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲鋳造に成功、西洋砲術家としての名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功、牛痘種の導入も企図。再び江戸に移住、木挽町に五月塾創立。砲術・兵学を教える。勝麟太郎(勝海舟)、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ら後の俊才が続々と入門。
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1852(嘉永5)年 加藤弘之(17歳)、江戸に出る。佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事お呼び外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。
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1854(嘉永7/安政元)年 加藤弘之(19歳)、大木仲益(坪井為春)に入門し蘭学を学ぶ。
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1855(安政2)年9月 古賀謹一郎(40歳)、蘭書翻訳・教育機関を構想。勝海舟(勝麟太郎)らと共に、蕃書調所(東京大学の源流)設立の草案作成。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。
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蕃書調所にて、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。
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1859(安政6)年、教授手伝に、坪井信良、赤沢寛堂、箕作秋坪が加わる。
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1860(安政7/万延元)年 加藤弘之(25歳)、蕃書調所教授手伝に。西洋文明の本質は兵学・武備よりも政体にあるとし、政治学に転じる。ドイツ語を学ぶ、日本のドイツ学の始まり。
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1861(万延2/文久元)年 加藤弘之(26歳)、日本で最初に欧米の立憲思想を紹介した『鄰草』著作。議会制度の必要性を説く。
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1861(万延2/文久元)年 辻新次(20歳)、江戸に出る。蕃書調所にて、苦学しながらオランダ語・英語・フランス語・西洋兵学を学ぶ。また、蕃書調所精錬所(後に化学局)に入所、大砲の鋳造や火薬製造学ほか化学を学ぶ。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
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1862(文久2)年、洋書調所、一ツ橋門外・護持院原(現・神田錦町)の広大な校地に移転。後の開成所・開成学校、東京大学法理文三学部に継承される。
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1864(文久4/元治元)年 辻新次(23歳)、軍人志望、西洋兵学を実戦で試す絶好の機会として、藩に無断で幕府の武田耕雲齋討伐軍に加わる(天狗党の乱)。藩に呼び戻され、譴責を受ける。
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1864(文久4/元治元)年 加藤弘之(29歳)、幕府旗本に。開成所教授職並に。
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1864(文久4/元治元)年頃 大隈重信(27歳)、鍋島直正より副島種臣と共に長崎での洋学研究を命じられる。長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)にて、来日直後のフルベッキに英語を学ぶ。新約聖書とアメリカ合衆国憲法を教材に英語学習、あわせてキリスト教と近代民主主義の精神を学ぶ。うち、アメリカ合衆国憲法に記された基本的人権と議会制民主主義の思想は、民主主義思想の根幹となり、生涯にわたる決定的な影響となる。長崎遊学時代に後藤象二郎・坂本竜馬・岩崎弥太郎らと親交を持つ。
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1866(慶応2)年 辻新次(25歳)、再び江戸へ、開成所に復帰も、火薬製造中の事故で負傷。以後、教育家になることを決心。フランス学の研究に邁進。開成所化学教授手伝並に。下谷練塀町(現・秋葉原)で仏学塾を経営。教え子に古市公威ら。
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1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三、相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。
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1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、副島種臣と共に長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で英語を学んだオランダ人宣教師フルベッキを佐賀藩に迎え入れる。長崎五島町の諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学校・致遠館にて、フルベッキを校長に。副島種臣と共に教頭格となる。学校運営と教育に熱中、宣教師フルベッキより英語を学びながら、自らも教壇に立つ。
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加藤弘之、幕府が運営する英語に特化した語学伝習所・済美館や佐賀藩校・致遠館にて、フルベッキの門弟に。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1867(慶応3)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年1月 加藤弘之(33歳)、幕府目付に。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。
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東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所・漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。
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1868(慶応4/明治元)年12月 加藤弘之(33歳)、明治新政府に出仕、政体律令取調御用掛に。新しい国の政体について研究・提言。『立憲政体略』刊行。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年7月 加藤弘之(35歳)、大学大丞に。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年7月 加藤弘之(35歳)、『真政大意』著作。天賦人権論を紹介。
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1870(明治3)年12月 加藤弘之(35歳)、侍講に。洋書進講を担当。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年6月28日(旧暦・5月11日) 楠田英世(41歳)、司法省明法寮権頭に。後に、司法大丞、司法大検事を兼任。江藤新平が主催する民法会議に出席。箕作麟祥・加藤弘之らと共に民法編纂に従事。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年10月 加藤弘之(35歳)、外務大丞に。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
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1872(明治5)年 濱尾新(24歳)、文部省入省。南校中監事に。後に東京職工学校(現・東京工業大学)設立を共にする手島精一が部下に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
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1872(明治5)年 加藤弘之(37歳)、ヨハン・カスパル・ブルンチュリの『国家学』進講。
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1872(明治5)年 - 1873(明治6)年、司法省顧問としてジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが来日。司法省明法寮教員に。フランス語による本格的な法学教育を開始。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制二編追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年5月 伴正順(31歳)、文部省六等出仕。開成学校(現・東京大学)校長に。
1873(明治6)年7月 明六社結成
アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
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1873(明治6)年 加藤弘之(38歳)、明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱える。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変
征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信・大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視
・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信・大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
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1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。
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1873(明治6)年11月 箕作麟祥(28歳)、ボアソナードが来日。以降、ボアソナードの下で法典編纂に従事。
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1874(明治7)年 箕作麟祥(29歳)、5年の歳月をかけ、フランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』上申。日本で初めて「権利」・「義務」という訳語を用いたほか、訳語を新規に創作。日本国に初めて近代法典を知らしめる。近代的裁判制度への大きな転換期にあり、手探りの中で裁判にあたっていた当時の司法官に多大な影響を与え、その後の日本の近代的法制度整備の基礎を築く。このことから、「法律の元祖」と評される。Constitutionを「憲法」と訳し、定着させる。
1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動
明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。
自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。
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1874(明治7)年 加藤弘之(39歳)、『国体新論』発表。天賦人権論の立場から人民の自由尊重を述べ、国家・政府・人民のあり方を説く。この頃まで、民撰議院設立尚早論を展開するも平等思想啓蒙の立場に立つ。自由民権運動の高まりを受け、次第に人権思想否認に傾斜。自ら『国体新論』・『真政大意』を絶版に。
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1874(明治7)年2月3日 加藤弘之(39歳)、『日新真事誌』に民撰議院設立尚早論掲載。
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1875(明治8)年5月、司法省所管の法学校、司法省法学校設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。卒業者に「学士」の称号を与えることができる司法省管轄の高等教育機関となる。
1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足
江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。
法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。
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東京大学法学部では英米人御雇教師により英米法が講じられ司法省明法寮(後に司法省法学校)ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校は英語・フランス語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。
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1876(昭和9)年7月、司法省法学校、第一期生20名が卒業。この時点では、法律学士の称号授与の権能を有していなかったため、称号授与は行われず。第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法など法典編纂に協力。民法典論争において断行派の中核に。
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司法省法学校、第一期生卒業を受け、第二期生入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)、定員100名に増員。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科はフランス語による法学教育が行われる。第一期・第二期卒業生の多くが、フランス法系私立法律学校の創立者や校長・講師となる。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 濱尾新(29歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。同郷の綜理・加藤弘之を補佐。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1877(明治10)年 箕作麟祥(32歳)、司法大書記官に。翻訳課長兼民法編纂課長に。民法編纂委員に。
1879(明治12)年 東京学士会院設立
文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関・東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直・西周・福澤諭吉・箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
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1879(明治12)年 福澤諭吉(45歳)、東京学士会院(現・日本学士院)設立。初代会長に。
1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。
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1880(明治13)年 箕作麟祥(35歳)、東京学士会院会員に。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年7月6日 加藤弘之(46歳)、機構改革により新設された東京大学初代総理に就任。
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1881(明治14)年 渋沢栄一(42歳)、官尊民卑の世俗を憂い、また東京大学学生の実業軽視の風を嘆じ、東京大学総理・加藤弘之に訴える。是非、実際に学生に講じて欲しいと依頼され、東京大学文学部講師に。日本財政論を教える。
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1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。
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森有礼、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・反映のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。
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1882(明治15)年10月 加藤弘之(47歳)、『人権新説』出版。社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こす。
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1883(明治16)年 西周(55歳)、獨逸学協会を母体に、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。初代学長に。加藤弘之など啓蒙学者が設立に関与、精神的支柱にドイツ啓蒙主義を置く。設立メンバーに、政治・外交を支える品川弥二郎・井上毅・青木周蔵・桂太郎・平田東助・伊藤博文らが加わる。学校運営は、品川弥二郎が中心的役割を果たす。
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1883(明治16)年 品川弥二郎(41歳)、北白川宮能久親王を会長、自身を委員長に獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。学校運営において中心的役割を果たす。
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1884(明治17)年3月 森有礼(36-37歳)、伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」
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1885(明治18)年9月、東京大学法学部が東京法学校を併合。東京大学法学部仏法科設置。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
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1886(明治19)年1月11日 加藤弘之(51歳)、元老院議官に。
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1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
1887(明治20)年5月21日 学位令
日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。
1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
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1887(明治20)年 箕作麟祥(42歳)、法律取調委員会委員に。
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1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥・田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀・高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一、「理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓。
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1888(明治21)年 加藤弘之(53歳)、日本最初の文学博士に。
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1888(明治21)年 箕作麟祥(43歳)、司法次官に。
1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)
君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。
明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。
版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。
衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。
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1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。
1889(明治22)年 - 1892(明治25)年 民法典論争
旧民法施行の是非を巡り論争展開。延期派は、「法典が簡明でなく」・「内容もフランス法的に過ぎる」・「拙速主義に依らず、条約改正事業と切り離して慎重に編纂すべき」と主張。断行派は、「形式上の問題は認めるが」・「内容面では十分日本の慣習を尊重している」・「法典断行が条約改正および司法権の確立に資する」と反論。論争の結果、延期派が勝利。ドイツ民法第一草案をはじめとする比較法研究を踏まえ、旧民法の形式上の欠点を克服しながら、現行日本民法典の成立に至る。
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箕作麟祥、民法典論争において、ボアソナード民法典をベースとする旧民法典の実施断行を主張。施行延期が決まった後も、法典調査会主査委員に任命され、新民法典編纂に積極的に関わっていく。1984(明治27)年に法典調査会副総裁を務めた西園寺公望は、総裁・伊藤博文に対し、副総裁を箕作麟祥に譲りたいと願い出ている。
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1890(明治23)年5月 加藤弘之(55歳)、帝国大学第2代総長に。
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1890(明治23)年9月29日 加藤弘之(55歳)、貴族院議員に勅任。
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1893(明治26)年7月 加藤弘之(58歳)、錦鶏間祗候に。
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1893(明治26)年11月29日 加藤弘之(58歳)、『強者の権利の競争』著作。強権的な国家主義を展開。
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1893(明治26)年 箕作麟祥(48歳)、法典調査会主査委員に。
1893(明治26)年12月 司法省指定学校
司法省が判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格を関西法律学校(現・関西大学)・日本法律学校(現・日本大学)・東京法学院(現・中央大学)・独逸学協会学校(獨協大学の源流)・東京専門学校(現・早稲田大学)・明治法律学校(現・明治大学)・慶應義塾(現・慶應義塾大学)・専修学校(現・専修大学)・和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与える。帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された。
九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き、帝国大学法科大学を加えた法律学校を「九大法律学校」と呼ぶ。
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1895(明治28)年7月 加藤弘之(60歳)、宮中顧問官に。
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1895(明治28)年、獨逸学協会学校専修科(獨協大学の源流)、政府からの補助金が打ち切られたことより経営が行き詰まる。教授陣や教育課程がそのまま帝国大学法科大学獨法科へ移管。廃校。普通科は旧制中学校として存続、現・獨協中学校・高等学校に。
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1898(明治31)年 加藤弘之(63歳)、高等教育会議議長に。
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1900(明治33)年 加藤弘之(65歳)、男爵に叙せられる。華族に列する。
1906(明治39)年 帝国学士院設立
帝国学士院規程の勅令公布。研究者に対する顕彰等の事業を通じ、日本の学術の発展を図る目的で設置。文部大臣の管理下に置かれ、勅旨により会員を任命。定数60人。日本列島だけでなく、台湾や南樺太など外地からも選任される。初代院長に、加藤弘之。
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1906(明治39)年7月 加藤弘之(71歳)、帝国学士院初代院長に。
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1906(明治39)年12月10日 加藤弘之(71歳)、枢密顧問官に。
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1907(明治40)年8月28日 加藤弘之(72歳)、『吾国体と基督教』著作。キリスト教を攻撃、国体とキリスト教をめぐって論争。
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1916(大正5)年2月9日 加藤弘之(81歳)、死去。享年81歳。
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