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一橋大学

森有礼

もりありのり

1847(弘化4)年7月13日/8月23日 - 1889(明治22)年2月12日

1847(弘化4)年7月13日/8月23日

  • 森有礼、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)に薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれる。兄は横山安武。

1858(安政5)年

  • 森有礼(12-13歳)、薩摩藩藩校「造士館」で漢学を学ぶ。

1864(元治元)年

  • 森有礼(16-17歳)、薩摩藩の洋学藩校「開成所」入学。英学講義を受講。

1865(慶応元)年

  • 森有礼(17-18歳)、五代友厚らと共にイギリスへ密航、留学(薩摩藩第一次英国留学生)。ロンドンにて、長州五傑(井上聞多/井上馨、遠藤謹助、山尾庸三伊藤博文、野村弥吉/井上勝)と出会う。

  • 森有礼、イギリスよりロシアへ渡る。さらに、ローレンス・オリファントの誘いでアメリカに渡る。新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心示す。また、アメリカの教科書を集める。

1868(明治元)年

  • 森有礼(20-21歳)、帰国後、徴士外国官権判事、学校取調を兼勤。

1869(明治2)年

  • 森有礼(21-22歳)、廃刀案を提案するも猛反発を受け、否決。一時、政府を去る。

1870(明治3)年

  • 森有礼(22-23歳)、薩摩藩内の興国寺跡で英学塾をひらく。

1870(明治3)年10月/11月

  • 森有礼(23歳)、横浜に翻訳所を開き、翻訳業および外国貿易取引の仲介業に従事、成功を収めていた矢野二郎を推挽、外務省に引き入れる。

1871(明治4)年1月 -

  • 森有礼(23-24歳)、少弁務使としてアメリカに渡る。

1872(明治5)年 

  • 森有礼(24-25歳)、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。

1872(明治5)年

  • 森有礼(24-25歳)、英語の日本語化を提唱(「国語外国語化論」)。イェール大学の言語学教授ウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛て、「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送る。ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語の廃止に反対。

1873(明治6)年

  • 森有礼(25-26歳)、ニューヨークにて『日本の教育』出版。

1873(明治6)年7月

  • 森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成所」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

1873(明治6)年

1873(明治6)年

  • 森有礼(25-26歳)、外務大丞に。

1874(明治7)年3月 - 1875(明治8)年

  • 森有礼(27-28歳)、「明六社」にてら機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たした。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散となる。後に、「明六社」は「明六会」となり、福澤諭吉を初代会長とする「東京学士会院」、「帝国学士院」を経て、「日本学士院」に至る。

1875(明治8)年8月

  • 森有礼(27-28歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉の賛同を得て、東京銀座尾張町に私塾「商法講習所」開設。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎もこれに参加。

1875(明治8)年9月24日

  • 森有礼(28歳)、私塾「商法講習所」開設を東京会議所より、東京府知事に届出。「一橋大学」の源流に。

1875(明治8)年11月

  • 森有礼(28歳)、特命全公使として清国渡航を拝命。私塾「商法講習所」の経営に携わることができなくなり、管理を東京会議所に移管。渋沢栄一、益田孝、福地源一郎が経営委員に。

1875(明治8)年

  • 森有礼(28歳)、広瀬常と結婚、日本初の契約結婚といわれる。その契約は3条から成り(それぞれが妻・夫であること、破棄しない限り互いに敬い愛すこと、共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと)、福澤諭吉が証人となる。

1875(明治8)年

  • 森有礼(28歳)、特命全公使として清国渡航。

1876(明治9)年2月

  • 福澤諭吉(41歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

1877(明治10)年

  • 森有礼(29-30歳)、清国より帰国後、外務卿代理に昇任。

1878(明治11)年

  • 森有礼(30-31歳)、外務大輔に昇任。

1879(明治12)年

  • 森有礼(31-32歳)、駐英公使として英国渡航。

1884(明治17)年

  • 森有礼(36-37歳)、英国より帰国後、参事院議官、文部省御用掛を兼勤。

1884(明治17)年12月14日

  • 森有礼(37歳)、「学習院」講堂で開かれた大日本教育会の常集会にて、大木喬任と共に演説。

1885(明治18)年12月22日 - 1888(明治21)年4月30日

  • 伊藤博文(44-46歳)、第1次伊藤内閣、憲法発布前の下準備の機関創設に奔走。1886(明治19)年2月、各省官制を制定。同3月、「帝国大学」創設。1887(明治20)年3月、「帝国大学法科大学」の研究団体「国家学会」創設、支援。

1885(明治18)年12月22日

  • 森有礼(38歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。「学政要領」立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」、「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 森有礼(38歳)、「師範学校」を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。

1886(明治19)年

  • 森有礼(38歳)、学位令を発令、日本における学位として大博士と博士の二等を定めた。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布に関与、様々な学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布

学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行

帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。

1887(明治20)年4月

  • 森有礼(39歳)、大日本教育会の果たすべき役割の重要性について、私案提出。​

1887(明治20)年

  • 森有礼(39-40歳)、岩倉具視の娘・岩倉寛子と再婚。

1887(明治20)年

  • 森有礼(39-40歳)、子爵となる。

1887(明治20)年11月

  • 森有礼(40歳)、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と新聞が報じ、問題となる(伊勢神宮不敬事件)。「この大臣とは、急進的欧化主義者・森のことではないのか」と疑いの目が向けられる事に。後の暗殺事件の原因となる。

1887(明治20)年

  • 西村茂樹(58-59歳)、『日本道徳論』刊行。日本の近代教育制度が整備されつつある中で、国民教育の根本精神が重要な問題として議論されるように。首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮。日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本に、西洋の精密な学理を結合させるべきと説く。国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示。文部大臣・森有礼はこれを読んで大いに賛成するも、伊藤博文首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責。

1888(明治21)年

  • 森有礼(40-41歳)、黒田内閣発足。文部大臣、留任。

1889(明治22)年2月11日-12日

  • 森有礼(43歳)、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺される。応急手当を受けるが傷が深く、翌日2月12日午前5時に死去。享年43歳。「明治の六大教育家」の1人に挙げられる。

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