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ダイガクコトハジメ - 高橋是清

 

高橋是清

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  • ヘボン塾

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  • 1853(嘉永6)年9月19日(旧暦・7月27日) 高橋是清(1歳)、江戸芝中門前町(現・東京都港区芝大門)に幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として生まれる。生後間もなく里子に出され、仙台藩の足軽・高橋覚治の養子に。

  • 1864(文久4/元治元)年 高橋是清(12歳)、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学ぶ。

  • 1867(慶応3)年 高橋是清(15歳)、幕府の命により、勝海舟の息子・小鹿と海外留学。しかし、アメリカ人貿易商に学費・渡航費を着服され、ホームステイ先で年季奉公の契約書にサイン。オークランドで奴隷労働をしながら勉強。本人は奴隷になっていることに気付かず。英語習得。森有礼の知遇を得る。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月 森有礼(22歳)、帰国、明治新政府に出仕。徴士外国官権判事、議事体裁取調、学校取調など兼勤。

  • 1868(慶応4/明治元)年12月 高橋是清(16歳)、帰国。森有礼家の書生に。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

 

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1870(明治3)年1月 高橋是清(18歳)、大学南校入学。3月、教官三等手伝に。秋ごろ、放蕩生活に、教官辞職。

  • 1871(明治4)年 高橋是清(19歳)、唐津藩の英語学校・耐恒寮教員に。辰野金吾・曽禰達蔵・大島小太郎・天野為之・掛下重次郎・田邊新之助らを教える。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

  • 1872(明治5)年 高橋是清(20歳)、上京、駅逓寮で翻訳の仕事をするも間もなく辞職。南校入学。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年 高橋是清(21歳)、森有礼に薦められ、文部省入省。十等出仕に。ダビット・モルレー博士の通訳に。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。

  • 1877(明治10)年 高橋是清(25歳)、廃校寸前にあった共立学校教師に。進学予備校として再起させる。校長に。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1878(明治11)年 高橋是清(26歳)、大学予備門英語教員に。

  • 1881(明治14)年5月 高橋是清(29歳)、農商務省御用掛に。

  • 1884(明治17)年 高橋是清(32歳)、農商務省外局として設置された特許庁の初代局長に。日本の特許制度を整備。

  • 1885(明治18)年 高橋是清(33歳)、専売特許所長兼務。商標登録専売特許制度視察のため欧米各国視察。

  • 1887(明治20)年12月 高橋是清(35歳)、特許局長。

  • 1889(明治22)年 - 1890(明治23)年 高橋是清(37-38歳)、ペルーのカラワクラ銀山経営に着手も、廃坑であることが判明。帰国。

  • 1892(明治25)年6月 高橋是清(40歳)、銀山経営失敗以降在野となるも、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行入行。

  • 1895(明治28)年8月 高橋是清(43歳)、横浜正金銀行本店支配人に。

  • 1897(明治30)年3月 高橋是清(45歳)、横浜正金銀行副頭取に。

  • 1899(明治32)年2月 高橋是清(47歳)、日本銀行副総裁に。

  • 1904(明治37)年 高橋是清(52歳)、日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。公債募集を成功に導き、戦費調達。

  • 1905(明治38)年1月29日 高橋是清(53歳)、貴族院勅選議員に勅任。

  • 1906(明治39)年3月 高橋是清(54歳)、日本銀行副総裁のまま、横浜正金銀行頭取を兼務。

  • 1907(明治40)年9月 高橋是清(55歳)、戦時の公債募集の勲功により、男爵授爵。

  • 1911(明治44)年6月 高橋是清(59歳)、日本銀行総裁に。

  • 1913(大正2)年2月 - 1914(大正3)年4月 高橋是清(61-62歳)、第一次山本権兵衛内閣にて大蔵大臣に。立憲政友会入党。

  • 1918(大正7)年9月 高橋是清(66歳)、原敬内閣にて大蔵大臣に。

  • 1920(大正9)年 高橋是清(68歳)、子爵授爵。

  • 1921(大正10)年11月 - 1922(大正11)年6月 高橋是清(69-70歳)、原敬総理大臣が暗殺される。後継として、第20代内閣総理大臣に。大蔵大臣を兼任。立憲政友会総裁に。『ダルマ宰相』の愛称で人々に親しまれる。

  • 1924(大正13)年3月 高橋是清(72歳)、貴族院議員辞職。爵位を長男に譲り、隠居。

  • 1924(大正13)年5月 高橋是清(72歳)、岩手県盛岡市の原敬の旧選挙区より衆議院議員選挙に立候補、当選。

  • 1924(大正13)年6月 高橋是清(72歳)、加藤高明内閣にて、農商務大臣に。

  • 1925(大正14)年4月 高橋是清(73歳)、農商務省再分割により、農林大臣兼商工大臣に。2週間後、依願免職。

  • 1927(昭和2)年4月-6月 高橋是清(75歳)、金融恐慌下の田中義一内閣にて、大蔵大臣に。緊急勅令渙発と大量の紙幣増発により恐慌を鎮静化。金融恐慌収束を節目に、依願免職。

  • 1931(昭和6)年12月 高橋是清(79歳)、犬養毅内閣にて、大蔵大臣に。

  • 1932(昭和7)年5月 - 1934(昭和9)年7月 高橋是清(82歳) 高橋是清(80歳)、五・一五事件、犬養毅総理大臣暗殺。内閣総理大臣を臨時兼任。斎藤実内閣にて、大蔵大臣留任。

  • 1934(昭和9)年11月 高橋是清(82歳)、岡田啓介内閣にて、大蔵大臣に。

  • 1936(昭和11)年 高橋是清(84歳)、二・二六事件、赤坂私邸にて銃弾に倒れ、死去。享年84歳。

高橋是清

たかはしこれきよ

1853(嘉永6)年9月19日(旧暦・7月27日) - 1936(昭和11)年2月26日

大学南校教官手伝、耐恒寮教員、文部省大阪英語学校校長、東京英語学校教員、共立学校校長、大学予備門教員、農商務省、特許庁初代局長、専売特許所長、東京農林学校校長、日本銀行総裁、横浜正金銀行頭取、貴族院勅選議員衆議院議員、第20代内閣総理大臣・大蔵大臣・農商務大臣・農林大臣・商工大臣、立憲政友会総裁、『ダルマ宰相』

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