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森有礼

出身校

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  • 1847(弘化4)年8月23日(旧暦・7月13日) 森有礼(1歳)、薩摩藩鹿児島城下春日小路町(現・鹿児島県鹿児島市春日町)に薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれる。兄は横山安武。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1858(安政5)年 森有礼(12歳)、薩摩藩校・造士館で漢学を学ぶ。

  • 1863(文久3)年 森有礼(17歳)、薩英戦争を経験。イギリス軍艦のアームストロング砲の威力に驚く。藩政も攘夷より、西欧から学ぶことでの富国強兵に舵を切る。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1864(文久4)年6月 伊藤博文(23-24歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。長州五傑と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。

  • 伊藤博文(23-24歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設・工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本とのあまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに。開国論に転じる。

  • 1864(文久4/元治元)年 森有礼(18歳)、薩摩藩に最初の洋学校・開成所が開講。薩摩藩校・開成所入学。英学を学ぶ。

  • 1865(元治2/慶応元)年 森有礼(19歳)、薩摩藩が幕府に対抗、英国留学生派遣を決定。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、五代友厚らと共にイギリス密航。ロンドン大学ユニバーシティカレッジに聴講生として通う。

  • 森有礼、薩摩藩第一次英国留学生の留学中、ロンドンにて長州五傑(井上聞多/井上馨遠藤謹助・山尾庸三伊藤博文・野村弥吉/井上勝)と出会う。

  • 森有礼、イギリスよりロシアへ渡る。さらに、ローレンス・オリファントの誘いでアメリカに渡る。新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心示す。また、アメリカの教科書を集める。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月 森有礼(22歳)、帰国、明治新政府に出仕。徴士外国官権判事、議事体裁取調、学校取調など兼勤。

  • 1868(慶応4/明治元)年 矢野二郎(24歳)、横浜に翻訳所を開く。翻訳業および外国貿易取引の仲介業に従事。成功を収める。

  • 1869(明治2)年 森有礼(23歳)、廃刀案を提案するも猛反発を受け、否決。一時、政府を去る。

  • 1869(明治2)年末 服部一三(19歳)、官費留学が決定。岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に、アメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックへ留学。

  • 1870(明治3)年 森有礼(24歳)、薩摩藩内の興国寺跡で英学塾をひらく。

  • 1870(明治3)年 森有礼(24歳)、横浜で翻訳業・外国貿易取引の仲介業で成功を収めていた矢野二郎を推挽。外務省に引き入れる。

  • 1870(明治3)年秋 森有礼(24歳)、少弁務使としてアメリカ赴任。外債募集・文化外交の折衝を担う。在任中、英文による『信仰自由論』・『日本の教育』刊行を試みる。

  • 1870(明治3)年11月 矢野二郎(26歳)、駐米弁務使・森有礼の推挽を受け、外務省入省。二等書記官に。渡米、ワシントンに在勤。一時駐米代理公使となる。

  • 1871(明治4)年 - 1879(明治12)年 神田乃武(15-23歳)、公使・森有礼に従い、渡米。アマースト大学卒業。

  • 服部一三、アメリカ留学時、上司である森有礼と共に、トマス・レイク・ハリスが設立した新興宗教・新生兄弟会の影響を受ける。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)岩倉遣欧使節団文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

  • 1872(明治5)年 森有礼(26歳)、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。

  • 1872(明治5)年2月3日 森有礼(26歳)、日本国駐米外交官として、ラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。回答書をダビット・モルレーが執筆。11月25日、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本における宗教の自由』)発表。翌年、ダビット・モルレーの返書を『Education in Japan』(『日本の教育』)として刊行。

  • 1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。

  • 1872(明治5)年 森有礼(26歳)、英語の日本語化を提唱(国語外国語化論)。イェール大学の言語学教授ウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛て、「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送る。ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語の廃止に反対。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1873(明治6)年7月 森有礼(27歳)、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長就任。

  • 1873(明治6)年 西村茂樹(46歳)森有礼の働きかけにより、明六社結成。「帝都下の名家」を召集するための相談を受け、同志への呼びかけを始める。

  • 1873(明治6)年 箕作秋坪(48歳)森有礼の働きかけに応じ、日本初の近代的啓蒙学術団体・明六社結成。森有礼の後を継ぎ、社長に。

  • 1873(明治6)年 箕作麟祥(28歳)明六社に参加。『明六雑誌』に「リボルチーの説」など寄稿、啓蒙活動に尽力。

  • 1873(明治6)年 森有礼(27歳)、外務大丞に。

  • 1874(明治7)年3月 森有礼(28歳)、明六社にて機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たす。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散。後に、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院に至る。

  • 1875(明治8)年 渋沢栄一(36歳)、東京府知事・楠本正隆の要請で東京会議所の肝煎となる。同じく大倉喜八郎も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1875(明治8)年8月 森有礼(29歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉渋沢栄一らの協力を得て、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(現・一橋大学)創立。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎も創立に参加。9月24日、東京会議所より、東京府知事に開設届出。

  • 森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった​商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾・商法講習所開設。

  • 1875(明治8)年11月 森有礼(29歳)、清国公使として清国渡航を拝命。私塾・商法講習所の経営に携わることができなくなり、管理を東京会議所に移管。渋沢栄一・益田孝・福地源一郎が経営委員に。

  • 1875(明治8)年 森有礼(29歳)、広瀬常と結婚、日本初の契約結婚といわれる。その契約は3条から成り、「それぞれが妻・夫であること、破棄しない限り互いに敬い愛すこと、共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」。福澤諭吉が証人となる。

  • 1876(明治9)年2月 福澤諭吉(42歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤諭吉が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

  • 1876(明治9)年5月東京会議所解散に伴い、商法講習所の管理が東京府に移管。木挽町に移転。

  • 1876(明治9)年5月 矢野二郎(32歳)森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟・大久保一翁らの熱心な説得を受け、商法講習所(現・一橋大学)所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、所管が変わるたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者として手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。

  • 1877(明治10)年 森有礼(31歳)、清国より帰国後、外務卿代理に。

  • 1878(明治11)年 森有礼(32歳)、外務大輔に。

  • 1879(明治12)年4月 渋沢栄一(40歳)、東京府に管理が移管された商法講習所について、東京府会により経費半減が決議、存亡の危機に。有志による献金を提唱、経費を補充する。

  • 1879(明治12)年11月 森有礼(33歳)、特命全権英国公使として英国渡航。条約改正を交渉。

  • 1881(明治14)年7月26日 渋沢栄一(42歳)、東京府会が商法講習所の経費を拒否、廃止を決議。存続の危機に。東京府知事・松田道之、農商務卿・河野敏鎌にはかり、農商務省の補助を得て存続を保つことに。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

  • ​1882(明治15)年夏 森有礼(36歳)、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。

  • 1884(明治17)年3月 森有礼(38歳)、伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」

  • 1884(明治17)年5月 九鬼隆一(33歳)、西洋化を進める伊藤博文の方針で、森有礼が初代文部大臣に。儒学的な指向を持っていた元田永孚と共に、文部省を去る。

  • 1884(明治17)年12月14日 森有礼(38歳)、学習院講堂で開かれた大日本教育会の常集会にて、大木喬任と共に演説。

  • 1885(明治18)年8月、東京大学予備門東京大学付属より分離。文部省の管轄に。制度を改め、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく、他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関と拡張される。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。

  • 森有礼、師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

  • 1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年3月6日 山川浩(42歳)師範学校を「教育の総本山」とし、軍隊式教育の導入を推進する初代文部大臣・森有礼より命じられ、現役陸軍軍人として高等師範学校(現・筑波大学)初代校長に。授業料値上げの増収により良い教師を招聘、大いに校風を振起。規律に厳しく、秩序が整然としたものに。

1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令

師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。

1886(明治19)年12月 文部省官制
文部省官制制定。「文部大臣ハ教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」と定め、総務局・学務局・編輯局・会計局を置く。また学事視察のため視学官を置く。

1886(明治19)年 私立法律学校特別監督条規

東京府下に所在し、特に教育水準が高く特別許認可を受けた英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)の5校について、帝国大学総長の監督下に。帝国大学特別監督学校(五大法律学校)となる。​

背景に、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、新たに私立法律学校にもその補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり。また、高等文官試験受験の特権を認める代わりに、放任されていた私立法律学校について監督・干渉することが構想された。

  • 1887(明治20)年4月 森有礼(41歳)、大日本教育会の果たすべき役割の重要性について、私案提出。​

1887(明治20)年5月21日 学位令

日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。

1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、
帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。

1887(明治20)年7月25日 文官試験試補及見習規則

官僚任用制度として、高等文官試験(高等試験)が定められる。試験は奏任官対象の高等試験と判任官対象の普通試験の二種類が設けられる。帝国大学法科大学帝国大学文科大学の卒業生に対し、無試験で高等官(勅任官・判任官)の試補となる特権が与えられる。

文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)に加えて、独逸学協会学校と東京仏学校(後に東京法学校と合併し和仏法律学校、現・法政大学)の7校が認可される。この特権を得られるか否かが、私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題となる。

  • 1887(明治20)年 森有礼(41歳)、岩倉具視の娘・岩倉寛子と再婚。

  • 1887(明治20)年 森有礼(41歳)、子爵を綬爵。

  • 1887(明治20)年11月 森有礼(41歳)、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と新聞が報じ、問題となる(伊勢神宮不敬事件)。「この大臣とは、急進的欧化主義者・森のことではないのか」と疑いの目が向けられる事に。後の暗殺事件の原因となる。

  • 1887(明治20)年 西村茂樹(60歳)、『日本道徳論』刊行。日本の近代教育制度が整備されつつある中、国民教育の根本精神が重要な問題として議論されるように。首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮。日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本に、西洋の精密な学理を結合させるべきと説く。国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示。文部大臣・森有礼はこれを読んで大いに賛成するも、伊藤博文首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責。

  • 1888(明治21)年 森有礼(42歳)、黒田内閣発足。文部大臣、留任。

​1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1889(明治22)年2月11日-12日 森有礼(43歳)、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺される。応急手当を受けるが傷が深く、翌日2月12日午前5時に死去。享年43歳。「明治の六大教育家」の1人に挙げられる。

森有礼

もりありのり

1847(弘化4)年8月23日(旧暦・7月13日) - 1889(明治22)年2月12日

外交官、アメリカ代理公使、外務大丞、清国公使、外務卿代理、外務大輔、明六社創立、商法講習所(現・一橋大学)創立、初代内閣総理大臣・伊藤博文の下で初代文部大臣として共に近代日本学校制度の基礎を確立、「教育の総本山」と称し師範学校改革、『日本における宗教の自由』・『日本の教育』ほか刊行、明治の六大教育家

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