ダイガクコトハジメ - 開成学校/大学南校
医学校/大学東校
創立 : 1858(安政5)年5月
前史 :
国学・漢学の昌平学校、洋学の開成所/開成学校、西洋医学の医学所/医学校の3校を統合 → 大学校(大学) → 東京大学の前身、文部省の前身
お玉ヶ池種痘所 → 西洋医学所 → 医学所 → 大病院 → 医学校兼病院 → 大学校(大学)/大学東校 → 東校 → 第一大学区医学校 → 東京医学校 → 東京大学医学部に
「医学校/大学東校」年表
1858(安政5)年5月
-
天然痘の予防及び治療を目的に、日本各地に「種痘所」が設立される。長崎の「鳴滝塾」でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学んだ伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海らを中心に、蘭方医83名の出資により「お玉ヶ池種痘所」を開設。種痘の普及と西洋医学の講習を行うことを目的とする。
1858(安政5)年5月
-
大槻俊斎(51-52歳)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学んだ伊東玄朴・戸塚静海らと共に、江戸に「お玉が池種痘所」開設。所長となる。
1858(安政5)年11月
1859(安政6)年9月
-
下谷和泉橋通りに「種痘所」を再建。
1860(万延元)年10月27日
-
大槻俊斎(53-54歳)、「種痘所」が幕府に接収され、官立に。初代頭取に。「東京大学医学部」の前身とされていることより、東大医学部初代総長ともみなされる。
1861(文久元)年
-
教育機関としての性格が強くなり、「西洋医学所」と改称。組織を種痘、医学教育、解剖の3科とする。
1862(文久2)年8月
-
大槻俊斎(55-56歳)、「西洋医学所」初代頭取にあったが、病床につく。後任に、幕命により大阪から「適塾」の緒方洪庵が呼び出され、2代頭取就任。
1862(文久2)年8月
-
緒方洪庵(51-52歳)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼「西洋医学所」2代頭取として江戸に出仕。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
1862(文久2)年8月8日
-
松本良順(30歳)、奥詰医師となる。「西洋医学所」頭取助を兼ねる。
1863(文久3)年2月
-
「西洋医学所」、「医学所」と改称。
1863(文久3)年6月10日/7月25日
-
緒方洪庵(54歳)、江戸の「医学所」頭取役宅で突然喀血、窒息により死去。享年54歳。
1863(文久3)年7月
-
松本良順(30-31歳)、「医学所」3代頭取就任。「適塾」式を廃止、教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」
1865(慶応元)年春
-
松本良順(32歳)、ポンペの教えに従い、「医学所」の組織を整備拡充、7科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く。
1866(慶応2)年5月
-
松本良順(33歳)、種痘のための出張所を江戸数ヵ所に設置。
1868(慶応4/明治元)年
-
幕府解体、明治新政府の布告により、「開成所」と共に新政府に接収される。
1868(慶応4/明治元)年7月
-
横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、「医学所」を含めて「大病院」と称す。
1868(明治元)年12月10日
-
島村鼎甫(37-38歳)、「医学校」および「開成学校」二等教授に。
1869(明治2)年1月
-
相良知安(32歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。
1869(明治2)年2月
-
「大病院」、「医学校兼病院」と改称。5局(医学校・病院・種痘館・黴毒院・薬園)を置く。
1869(明治2)年6月
-
相良知安(33歳)、ドイツより教師を招くことを建議、 2名を招請することに。
1869(明治2)年7月8日/8月15日
-
明治新政府が官立の教育機関および教育行政官庁を構想、「大学校」設立。教育機関としては、国学・漢学の「昌平学校」、洋学の「開成所/開成学校」、西洋医学の「医学所/医学校」の3校を統合。「昌平学校」を中枢機関とする案を構想した。また同時に、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた。長官・学長に相当する大学別当に、松平春獄が就任。
1869(明治2)年12月17日/1月18日
-
「大学校」を「大学」と改称。「昌平学校」を「大学本校」に、大学本校の南に所在していた「開成学校」は「大学南校(だいがくなんこう)」、東に所在していた「医学校」は「大学東校(だいがくとうこう)」と改称された。
1870(明治3)年5月
-
明治新政府、「大学東校」の上野移転を決定。
1870(明治3)年7月
-
普仏戦争の影響により、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンの来任が遅れる。「大阪医学校」教師の任期を終えたオランダ医ボードウィンに講義を委嘱。「大学東校」の上野移転計画はボードウィンの反対により中止。
1870(明治3)年11月
-
ドイツ医学修得のため、池田謙斎、大沢謙二、長井長義ら9名が国費留学。
1871(明治4)年7月18日/9月2日
-
明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。
-
「開成学校/大学南校」は「東京大学法学部・理学部・文学部」の、「医学校/大学東校」は「東京大学医学部」の直接の前身となった。「昌平学校/大学本校」は「東京大学」の源流の1つとして位置付けられるも、以後、間接的・限定的な影響力しか持ち得なかった。
1871(明治4)年7月21日/9月5日
-
文部省管轄に。「大学東校」は「東校」と改称。
1871(明治4)年8月
-
ドイツ人教師ミュルレルとホフマンが来任。外科学、内科学を講義。ミュルレルに日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年11月
-
種痘館を廃止。「東校」に種痘局を開設。
1872(明治5)年8月2日/9月4日公布
学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
1872(明治5)年8月
-
「学制」公布により、「第一大学区医学校」と改称。
1872(明治5)年9月
-
九鬼隆一(19-20歳)、「第一大学区医学校」事務主任に。
1872(明治5)年10月8日
-
相良知安(36歳)、「第一大学区医学校」校長に。
1873(明治6)年6月
1873(明治6)年6月
-
製薬学教場を置く。
1874(明治7)年5月
-
「第一大学区医学校」を「東京医学校」と改称。
1874(明治7)年10月3日
-
長與專齋(35-36歳)、文部省医務局長に就任。「東京医学校」校長を兼務。
1874(明治7)年
-
三宅秀(27-28歳)、「東京医学校」校長心得に。
1876(明治9)年11月
-
「東京医学校」、本郷に校舎病院の建築が完成、 移転。
1876(明治9)年
-
池田謙斎(34-35歳)、帰国。陸軍軍医監、三等侍医、「東京医学校」校長に。
1877(明治10)年4月12日
-
「東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。
-
校地は「東京大学法・理・文三学部」が錦町、「東京大学医学部」が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地とで離れていた。職制や事務章程も別々に定められ、それぞれに綜理が置かれる。
1877(明治10)年4月13日
1877(明治10)年4月13日
1879(明治12)年3月5日
-
石黒忠悳 (33歳)、「東京大学医学部」綜理心得に。
1881(明治14)年
-
「東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。
1881(明治14)年7月6日
1881(明治14)年7月14日