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ダイガクコトハジメ - 渋沢栄一

渋沢栄一

 

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1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。

  • 1840(天保11)年3月16日(旧暦・2月13日) 渋沢栄一(1歳)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助、母・エイの長男として生まれる。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営、米・麦・野菜の生産も手がける豪農であった。

  • 1847(弘化4)年 渋沢栄一(8歳)、従兄・尾高惇忠の許に通い、四書五経・日本外史を学ぶ。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年 渋沢栄一(14歳)、単身で藍葉の仕入れに出かけるように。この時の経験が経済システムを吸収する素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想に繋がったといわれる。

  • 1858(安政5)年 渋沢栄一(19歳)、尾高惇忠の妹・尾高千代と結婚。名を栄一郎と改める。

  • 1861(万延2/文久元)年 渋沢栄一(22歳)、江戸に出て、海保漁村の門下生となる。

  • 渋沢栄一、北辰一刀流・千葉栄次郎のお玉が池千葉道場入門。剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結び、尊皇攘夷の思想に目覚める。

  • 1863(文久3)年 渋沢栄一(24歳)、「高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ち、長州と連携して幕府を倒す」倒幕計画をたてる。しかし、尾高惇忠の弟・尾高長七郎の懸命な説得により、中止。

  • 1864(文久4/元治元)年 渋沢栄一(25歳)、高崎城乗っ取りの計画を中止、親族に累が及ばぬよう、父より勘当を受けた体裁を取って京都に。八月十八日の政変直後であり、勤皇派が凋落。京都での志士活動に行き詰まる。江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙を得、一橋慶喜に仕える。一橋家領内を巡回、農兵募集に携わる。

  • 1866(慶応2)年12月 渋沢栄一(27歳)、主君・一橋慶喜が徳川宗家を相続、将軍に。幕臣となる。

  • 1867(慶応3)年 箕作麟祥(22歳)、ナポレオン3世のパリ万国博覧会、幕府の命により、徳川慶喜将軍の名代として出席する弟・徳川昭武に、渋沢栄一らと随行。その後、徳川昭武と共にフランス留学。

  • 1867(慶応3)年 渋沢栄一(27歳)、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として、御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランス渡航。パリ万博を視察。ヨーロッパ各国を訪問、各地で先進的な産業・軍備を実見、社会を見て感銘を受ける。

  • 渋沢栄一、パリ滞在中、通訳で同行していたシーボルトの長男、アレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学ぶ。

  • 渋沢栄一、パリ滞在中、外国奉行支配調役に。

  • 渋沢栄一、パリ滞在中、開成所奉行支配調役に。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月、朝廷に政府運営のための資金調達の機関として、金穀出納所設置。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伊藤博文(28歳)、外国事務総裁・東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。出世の足掛かりに。

  • 明治維新後、伊藤博文、博文と改名。長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与・外国事務局判事・大蔵少輔兼民部少輔・初代兵庫県知事(官選)・初代工部卿・宮内卿など明治新政府の様々な要職を歴任。木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)、官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。

  • 勝海舟、上野戦争後も戊辰戦争は続いたが、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対。戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であること、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあることが理由。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月、明治政府が太政官制導入。金穀出納所は会計官に。

1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文

政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」

1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住

徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。

  • 勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直津田仙永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。

  • 1868(慶応4/明治元)年 前島密(34歳)、駿府移住。駿河藩留守居添役、本役に。間もなく駿河藩用人に。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(慶応4)年12月16日(旧暦・11月3日) 渋沢栄一(28歳)、大政奉還、明治新政府よりマルセイユからの帰国を命じられる。静岡に謹慎していた徳川慶喜と面会、「これからはお前の道を行きなさい」と言葉を拝受。

  • 1869(明治2)年1月 渋沢栄一(29歳)、フランスで学んだ株式会社制度を実践、明治新政府からの拝借金返済を目的に、静岡で商法会所設立。

  • 1869(明治2)年 前島密(35歳)、駿河藩浜松添奉行、遠州中泉奉行に。後に、静岡藩開業方物産掛に。

  • 1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。

  • 1869(明治2)年1月 伊藤博文(27歳)、兵庫県知事時代、『国是綱目』いわゆる『兵庫論』を捧呈。「君主政体」・「兵馬の大権を朝廷に返上」・「世界万国との通交」・「国民に上下の別をなくし自在自由の権を付与」・「世界万国の学術の普及」・「国際協調・攘夷の戒め」を主張。

  • 伊藤博文、明治新政府に提出した『国是綱目』が当時極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたため、大久保利通や岩倉具視の不興を買う。大蔵省の権限を巡る論争でも、大久保利通と対立関係に。

  • 1869(明治2)年3月17日(旧暦・2月5日) 大隈重信(32歳)外国官判事兼会計御用掛として造幣局設立を建白、貨幣制度改革を主導。3月4日、三条実美に対して通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白、了承される。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月、二官六省制により、会計官は大蔵省に。初代大蔵卿に松平慶永。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策・政治勢力で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。

  • 1869(明治2)年 前島密(35歳)、明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕。この頃、前島密に改名。

  • 1869(明治2)年10月 渋沢栄一(29歳)、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、大久保一翁に相談。上京。大隈重信に説得され、大蔵省入省。民部省改正掛を率いて改革案を企画立案、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。

  • 1869(明治2)年12月7日(旧暦・11月5日) 大隈重信(32歳)伊藤博文と共に日本発の鉄道敷設を計画。右大臣三条実美の東京邸宅にて、岩倉具視・沢宣嘉・大隈重信・伊藤博文の4者がパークスと非公式に会談、鉄道計画を相談。事前にパークスと協議した脚本通りに進行。岩倉具視・沢宣嘉の賛同を得る。12月12日(旧暦・11月10日)、鉄道敷設が正式に廟議決定。

  • 1870(明治3)年3月 大隈重信(33歳)、貿易による外貨獲得を目的に、生糸の輸出振興を主政策として、近代生産方式による産業育成を図る。伊藤博文らと協議、官営の模範製糸場・富岡製糸場設立を廟議決定。富岡製糸場設置主任に、渋沢栄一を任命。

  • 1870(明治3)年 渋沢栄一(31歳)、大蔵少丞に。官営富岡製糸場設置主任に。

  • 1870(明治3)年11月 - 1871(明治4)年5月 伊藤博文(30-31歳)、財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学ぶ。帰国後、日本最初の貨幣法である新貨条例を建議。制定。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大隈重信(34歳)、民部省を改めて大蔵省に合併。巨大官庁・大蔵省を誕生させる。地租改正などの改革に当たると共に、殖産興業政策を推進。

  • 1871(明治4)年 渋沢栄一(32歳)、紙幣頭に。

  • 1871(明治4)年 渋沢栄一(32歳)、『立会略則』発刊。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵少輔兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年 渋沢栄一(33歳)、大蔵少輔事務取扱に。

  • 1872(明治5)年6月、大蔵大輔・井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した、大蔵省翻訳局設立。外国書翻訳や銀行要員養成のため、有給生徒を募集。小池清一(後に貴族院議員)・島田三郎・田口卯吉・高梨哲四郎(後に衆議院議員)・三輪信次郎(後に銀行学局教官)など錚々たる人財が入局。

  • 1873(明治6)年2月12日 渋沢栄一(34歳)、抄紙会社(現王子製紙)創立。

  • 1873(明治6)年 渋沢栄一(34歳)、大蔵省内で予算編成を巡り、大久保利通大隈重信と対立。井上馨と共に、大蔵省退官。

  • 1873(明治6)年7月20日 渋沢栄一(34歳)、第一国立銀行開業。総監役に。

  • 1873(明治6)年 大倉喜八郎(37歳)、銀座に大倉組商会を設立。貿易および用達事業に乗り出し、後に台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争の軍需物資調達で巨利を得る。

  • 1874(明治7)年 渋沢栄一(35歳)、東京府知事より、東京会議所共有金取締を嘱託される。

  • 1875(明治8)年 渋沢栄一(36歳)、東京府知事・楠本正隆の要請で東京会議所の肝煎となる。同じく大倉喜八郎も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1875(明治8)年 大倉喜八郎(39歳)、東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1875(明治8)年8月 森有礼(29歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉渋沢栄一らの協力を得て、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(現・一橋大学)創立。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎も創立に参加。9月24日、東京会議所より、東京府知事に開設届出。

  • 森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった​商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾・商法講習所開設。

  • 1875(明治8)年11月 森有礼(29歳)、清国公使として清国渡航を拝命。私塾・商法講習所の経営に携わることができなくなり、管理を東京会議所に移管。渋沢栄一・益田孝・福地源一郎が経営委員に。

  • 1875(明治8)年 渋沢栄一(36歳)、第一国立銀行頭取に。

  • 1876(明治9)年 渋沢栄一(37歳)、東京会議所会頭に。

  • 1876(明治9)年5月東京会議所解散に伴い、商法講習所の管理が東京府に移管。木挽町に移転。

  • 1876(明治9)年5月 矢野二郎(32歳)森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟・大久保一翁らの熱心な説得を受け、商法講習所(現・一橋大学)所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、所管が変わるたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者として手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。

  • 1876(明治9)年 渋沢栄一(37歳)、東京府養育院事務長に。

  • 1877(明治10)年 渋沢栄一(38歳)、択善会(現・東京銀行集会所)創立。

  • 1878(明治11)年 渋沢栄一(39歳)、大蔵卿・大隈重信より「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案を受け、大倉喜八郎と二人で発起人となり東京商法会議所(後に東京商業会議所、現・東京商工会議所)創立。会頭に。

  • 1879(明治12)年4月 渋沢栄一(40歳)、東京府に管理が移管された商法講習所について、東京府会により経費半減が決議、存亡の危機に。有志による献金を提唱、経費を補充する。

  • 1879(明治12)年7月3日 嘉納治五郎(20歳)渋沢栄一の依頼にて、飛鳥山別荘に訪問のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領を前に柔術を演武。

  • 1879(明治12)年11月 渋沢栄一(40歳)、東京府の命により、商法講習所委員に。

  • 1879(明治12)年 渋沢栄一(40歳)、東京府養育院院長に。

  • 1880(明治13)年 渋沢栄一(41歳)、博愛社(現・日本赤十字社)創立支援。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1881(明治14)年 渋沢栄一(42歳)、官尊民卑の世俗を憂い、また東京大学学生の実業軽視の風を嘆じ、東京大学総理・加藤弘之に訴える。是非、実際に学生に講じて欲しいと依頼され、東京大学文学部講師に。日本財政論を教える。

  • 1881(明治14)年7月26日 渋沢栄一(42歳)、東京府会が商法講習所の経費を拒否、廃止を決議。存続の危機に。東京府知事・松田道之、農商務卿・河野敏鎌にはかり、農商務省の補助を得て存続を保つことに。

  • 1881(明治14)年 大倉喜八郎(45歳)、藤田伝三郎ら共に発起人に、大阪紡績会社創立。

  • 1882(明治15)年3月 大倉喜八郎(46歳)、矢島作郎・蜂須賀茂韶と共に、日本初の電力会社・東京電燈創立。宣伝の一環として、銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火。驚嘆した市民が毎夜見学に押しかける。​

  • 1883(明治16)年 渋沢栄一(44歳)、大阪紡績会社相談役に。

  • 1883(明治16)年 渋沢栄一(44歳)、東京電燈会社創立。

  • 1884(明治17)年6月10日 渋沢栄一(45歳)、商法講習所の管理が農商務省に移管され、東京商業学校に改称。益田孝・富田鉄之助と共に、農商務省より校務商議委員を嘱託される。

  • 1884(明治17)年 渋沢栄一(45歳)、日本鉄道会社理事委員に。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)、内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。

  • 1885(明治18)年 渋沢栄一(46歳)、日本郵船会社創立。

  • 1885(明治18)年 渋沢栄一(46歳)、東京瓦斯会社創立。

  • 大倉喜八郎、東京瓦斯・京都織物会社・日本製茶・東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ね、日本の近代化に尽力。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

  • 1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。

  • 1886(明治19)年11月 渋沢栄一(47歳)帝国大学教授・外山正一の「欧米人に見劣りしないために日本人女性に対する高度な教育が必要」の意見に賛同。内閣総理大臣・伊藤博文の勧説に従い、女子教育奨励会設立に協力。東京女学館の母体に。資金募集など尽力。評議員に。

  • 1886(明治19)年 渋沢栄一(47歳)、自身を慕う経営者や管理職が集まる龍門社を組織。昭和初期には数千名の会員を擁する。

  • 1887(明治20)年 渋沢栄一(48歳)、日本煉瓦製造会社創立。理事に。

  • 1887(明治20)年 渋沢栄一(48歳)、東京ホテル(現・帝国ホテル)創立。理事長に。

  • 1887(明治20)年 伊藤博文(47歳)、創立委員長となり女子中等教育機関・女子教育奨励会(後に東京女学館)設立。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。創立委員に、渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一ほか、帝国大学英語教授ジェムス・ディクソン、聖公会司教アレキサンダー・ショーなど政財官界の有力者で構成。​​永田町御用邸(雲州屋敷)を貸与され、校舎に。

  • 1888(明治21)年9月11日 渋沢栄一(49歳)東京女学館開校。会計監督に。

  • 1888(明治21)年 渋沢栄一(49歳)、札幌麦酒会社(現・サッポロビール)創立。発起人総代に。​

  • 1889(明治22)年 渋沢栄一(50歳)、東京石川島造船所(現・IHI)創立。創立委員に。

  • 1890(明治23)年 渋沢栄一(51歳)、貴族院議員に。翌年、辞任。

  • 1891(明治24)年 渋沢栄一(52歳)、東京交換所創立。委員長に。

  • 1892(明治25)年 渋沢栄一(53歳)、東京貯蓄銀行創立。取締役に。

  • 1893(明治26)年 渋沢栄一(54歳)、喜賓会創立。幹事長に。

  • 1894(明治27)年 渋沢栄一(55歳)、東京海上保険創立。取締役に。

  • 1894(明治27)年 福澤諭吉(60歳)、日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まる。終始、『時事新報』での言論をもって、熱心に政府と軍を支持。日清戦争遂行を激励。戦費の募金運動を積極的に行い、自身で1万円という大金を募金。三井財閥・三井八郎右衛門、三菱財閥・岩崎久弥、渋沢財閥・渋沢栄一らと共に、戦費募金組織・報国会を結成。

  • 1895(明治28)年 渋沢栄一(56歳)、北越鉄道会社創立。監査役に。

  • 1896(明治29)年 渋沢栄一(57歳)、日本精糖会社創立。取締役に。

  • 1896(明治29)年 渋沢栄一(57歳)、第一国立銀行が営業満期により第一銀行となる。頭取に。

  • 1896(明治29)年 渋沢栄一(57歳)、日本勧業銀行設立。設立委員に。

  • 1896(明治29)年2月9日 渋沢栄一(57歳)工手学校(現・工学院大学)校舎消失。校舎再築のため、援助・寄付。また、石川島造船所取締役会長としても寄付。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

  • 1896(明治29)年 森下岩楠(45歳)渋沢栄一が設立した東京興信所入所。所長に。

  • 1897(明治30)年9月、高等商業学校、予科1年・本科3年の上に専攻部(1年)設置。大学昇格を目指す。

  • 1897(明治30)年 渋沢栄一(58歳)、澁澤倉庫部開業。営業主に。

  • 1898(明治31)年 渋沢栄一(59歳)、浅野セメント合資会社監査役に。

  • ​1899(明治32)年 渋沢栄一(60歳)、北海道拓殖銀行設立委員に。

  • 1900(明治33)年7月 渋沢栄一(61歳)、高等商業学校の同窓会にて、商業大学必要論を開陳。設立について調査研究を続ける。商業大学実現のために斡旋尽力。

  • 1900(明治33)年9月1日 大倉喜八郎(64歳)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として、私財50万円を投じ大倉商業学校(現・東京経済大学)創立。ロンドンタイムズなどで美挙と報じられる。港区赤坂葵町(現・港区虎ノ門)の邸宅(現在はホテルオークラ・大倉集古館が建つ)の隣接地に開校。

  • 1900(明治33)年 渋沢栄一(61歳)、日本興業銀行設立委員に。

  • 1900(明治33)年 渋沢栄一(61歳)、男爵に叙せられる。

  • 1901(明治34)年1月 神田乃武(45歳)、​欧州留学中の高等商業学校教授7名(石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)と共に、ベルリンにおいて『商業大学の必要』を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への商業学士授与を足がかりに、大学昇格運動開始

  • 1902(明治35)年 渋沢栄一(63歳)、欧米視察。ルーズベルト大統領と会見。

  • 明治30年代 松崎蔵之助、金井延と共に、東京帝国大学法科大学へ社会政策学派の経済学移植に貢献、一時代を築く。ワグナーに強く影響を受ける。門下生に、柳田国男・高野岩三郎・河上肇ほか。

  • 1903(明治36)年 嘉悦孝(37歳)、日本で初めて女子を対象とした商業学校・私立女子商業学校(現・嘉悦大学)創立。創立にあたり、金銭面の工面に苦労。商業教育の援助を行っていた渋沢栄一を訪れ、新校舎建設に掛かる費用援助を申し入れる。東京商業学校の一部を借り、校長に和田垣謙三を迎える。

  • 1903(明治36)年 渋沢栄一(64歳)、日印協会創立。

  • 1905(明治38)年 渋沢栄一(66歳)、徳川慶喜・伊藤博文らを飛鳥山邸(曖依村荘)に招待。茶室・無心庵にて午餐会。

  • 1906(明治39)年 渋沢栄一(67歳)、東京電力会社創立。取締役に。

  • 1906(明治39)年 渋沢栄一(67歳)、京阪電気鉄道会社創立。創立委員長に。

  • 1907(明治40)年 渋沢栄一(68歳)、帝国劇場会社創立。取締役会長に。

  • 1907(明治40)年 渋沢栄一(68歳)東京慈恵医院開院より20数年、熱心に支援。経営基盤を盤石とするための社団法人設立を準備、募金委員長を引き受け、政治家・実業家・財界人に働きかける。社団法人東京慈恵会の設立が認可される。

  • 1907(明治40)年、『商科大学設置に関する建議案』が帝国議会を通過。東京高等商業学校の大学昇格運動は最高潮に。

1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 申酉事件

大学への昇格を目指す東京高等商業学校に対し、第2次桂内閣および文部省東京帝国大学法科大学に経済・商業2科を新設し、さらに東京高等商業学校専攻部を廃止、東京帝国大学法科大学に事実上吸収する方針を決定。商業大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる商業大学昇格運動は挫折。運動を進めてきた関一佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。

  • 1909(明治42)年 渋沢栄一(70歳)、古稀に際し、多くの企業・団体の役員を辞任。

  • 1909(明治42)年 渋沢栄一(70歳)、渡米実業団を組織、団長として渡米。タフト大統領と会見。

  • 1910(明治43)年 渋沢栄一(71歳)、政府諮問機関の生産調査会創立。副会長に。

  • 1911(明治44)年 渋沢栄一(72歳)、勲一等に叙せられる。瑞宝章を受章。

  • 1912(明治45/大正元)年 成瀬仁蔵(55歳)渋沢栄一・森村市左衛門・姉崎正治らと共に、諸宗教・道徳などが同一の目的に向かって相互理解と協力を推進することを期した会、帰一協会を設立。会員には、江原素六・島田三郎・新渡戸稲造・石橋智信・今岡信一良・高木八尺やM・C・ハリス、D・C・グリーン、C・マコウリー、W・アキスリングなど宣教師たちも参加。

  • 1912(明治45/大正元)年 渋沢栄一(73歳)、ニューヨーク日本協会協賛会創立。名誉委員長に。

  • 1913(大正2)年 渋沢栄一(74歳)、日本結核予防協会創立。副会頭に。

  • 1913(大正2)年 渋沢栄一(74歳)、日本実業協会創立。会長に。

  • 1914(大正3)年 渋沢栄一(75歳)、日中経済界の提携のため、中国訪問。

  • 1914(大正3)年 關一(42歳)、申酉事件を経て、大学教授の世界に嫌気がさす。京都帝国大学・戸田海市教授及び東京高等商業学校・小山健校長の紹介・斡旋で、池上四郎大阪市長の補佐として大阪市助役に招かれる。「栄誉ある東京高等商業学校教授を辞し、格下の大阪市助役に就任するのはどういうことか」と騒がれる。文部省渋沢栄一からも留まるよう説得を受けるも、意思は変わらず。

  • 1915(大正4)年 渋沢栄一(76歳)、パナマ運河開通博覧会のため渡米。ウイルソン大統領と会見。

  • 1916(大正5)年 渋沢栄一(77歳)、第一銀行頭取等を辞任。実業界引退。

  • 1916(大正5)年 渋沢栄一(77歳)、『論語と算盤』刊行。

  • 1916(大正5)年 渋沢栄一(77歳)、海外植民学校顧問に。

  • 1917(大正6)年 渋沢栄一(78歳)、日米協会創立。名誉副会長に。

  • 1918(大正7)年 渋沢栄一(79歳)、『徳川慶喜公伝』刊行。

  • 1919(大正8)年 渋沢栄一(80歳)、協調会創立。副会長に。

  • 1920(大正9)年 渋沢栄一(81歳)、国際連盟協会創立。会長に。

  • 1920(大正9)年 渋沢栄一(81歳)、子爵に叙せられる。

  • 1921(大正10)年 渋沢栄一(82歳)、排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見。

  • 1923(大正12)年 渋沢栄一(84歳)、大震災善後会創立。副会長に。

  • 1924(大正13)年 渋沢栄一(85歳)、日仏会館開館。理事長に。

  • 1924(大正13)年 渋沢栄一(85歳)、東京女学館第5代館長に。

  • 1925(大正14)年 渋沢栄一(86歳)、製鉄鋼調査会委員に。

  • 1925(大正14)年 渋沢栄一(86歳)、日本無線電信株式会社設立。委員長に。

  • 1926(大正15/昭和元)年 渋沢栄一(87歳)、日本太平洋問題調査会創立。評議員会長に。

  • 1926(大正15/昭和元)年 渋沢栄一(87歳)、日本放送協会創立。顧問に。

  • 1927(昭和2)年 渋沢栄一(88歳)、日本国際児童親善会創立。会長に。日米親善人形歓迎会主催。

 

  • 1928(昭和3)年 渋沢栄一(89歳)、日本航空輸送会社創立。創立委員長に。

  • 1929(昭和4)年 渋沢栄一(90歳)、中央盲人福祉協会創立。会長に。

  • 1930(昭和5)年 渋沢栄一(91歳)、財団法人楽翁公遺徳顕彰会会長に。

  • 1931(昭和6)年11月11日 渋沢栄一(92歳)、死去。享年92歳。​数多の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われ、その功績より「日本の資本主義の父」と称される。

渋沢栄一

​しぶさわえいいち

1840(天保11)年3月16日(旧暦・2月13日) - 1931(昭和6)年11月11日

幕臣、大蔵省官僚、経済人・実業家、金融・紡績・海運・鉄道ほか約500企業の創設・育成に携わる、大蔵省翻訳局構想、商法講習所(現・一橋大学)創立協力・東京商業学校校務商議委員・東京高等商業学校商議員、東京大学講師、女子教育奨励会(現・東京女学館大学)創立委員・会計監督・第5代館長、工手学校(現・工学院大学)創立協力、日本女子大学校創立委員・第3代校長、大倉商業学校(現・東京経済大学)創立委員、私立女子商業学校(現・嘉悦大学)創立協力、東京商法会議所(現・東京商工会議所)創立・会頭、龍門社設立、報国会結成、貴族院議員、「日本の資本主義の父」

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