ダイガクコトハジメ - 早稲田大学
早稲田大学
創立 : 1881(明治14)年10月12日
大学設立: 1920(大正9)年
前史 :
早稲田の北門義塾校舎を受け継ぐ → 東京専門学校 → 早稲田大学
1872(明治5)年
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柳田藤吉(33-34歳)、「北門義塾」閉学。学舎は、柳田藤吉の理念を継承した「東京専門学校」に受け継がれる。
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1878(明治11)年
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市島謙吉(17-18歳)、「東京大学文学部」入学。同級に、高田早苗・坪内逍遥・山田一郎・有賀長雄・天野為之・福井彦次郎・真崎孝人。後の足掛かりとなる人脈を得る。
1880(明治13)年
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定、「代言人規則」改正により資格試験が厳格化、本格的な法律学校が設立されるように。
1881(明治14)年
明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓らと共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。
1881(明治14)年10月12日
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大隈重信(43歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調、国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。
1881(明治14)年
1881(明治14)年
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大隈英麿(24-25歳)、明治十四年の政変、大隈重信の下野と共に、官を辞す。
1881(明治14)年
1882(明治15)年2月
1882(明治15)年3月
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大隈重信(43-44歳)、10年後の国会開設に備え、小野梓と共に立憲改進党を結成。尾崎行雄、犬養毅、矢野龍渓、前島密らが馳せ参じる。
1882(明治15)年3月
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小野梓(29-30歳)、大隈重信の幕下として、「東京大学」学生を中心とする鷗渡会を率い、立憲改進党結成に参加。
1882(明治15)年3月
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市島謙吉(21-22歳)、明治十四年の政変で下野していた大隈重信に就き、小野梓らと共に立憲改進党設立に参画。
1882(明治15)年3月
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矢野龍渓(31歳)、所属していた東洋議政会を率い、立憲改進党に参加。
1882(明治15)年3月
1882(明治15)年10月21日
1882(明治15)年10月21日
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小野梓(30歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、「東京専門学校」創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。
1882(明治15)年10月21日
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高田早苗(22歳)、「東京専門学校」創立に参画。評議員・講師に。学校運営に尽力。
1882(明治15)年10月21日
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大隈英麿(26歳)、「東京専門学校」初代校長に。開校式において、「開校の詞」を朗読、「学の独立」を謳う開校宣言を行う。大隈重信は当初、大隈英麿が留学時代に得た学識を活用、理科系の学校を興そうと考えていたが、同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換したと言われる。
1882(明治15)年10月21日
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矢野龍渓(31歳)、「東京専門学校」設立に携わる。創立委員に。
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官学中心主義をとる政府は、「東京専門学校」が「学問の独立」を謳うに関わらず、大隈重信が設立に関与していたことより、これを改進党系の学校とみなす。私立校への判事・検事および「東京大学」教授の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加える。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省・文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告される。しばらくの間、講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の「英吉利法律学校」との合併話が持ち上がるほど、学校存続の危機に。
1883(明治16)年
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坪内逍遥(23-24歳)、「東京大学文学部政治科」卒業。高田早苗に協力、「東京専門学校」講師に。英書・西洋史・社会学・憲法論・修辞学・心理学など多数の講義を受け持つ。
1880年中頃
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天野為之、改進党党員、「東京専門学校」講師として働く傍ら、『朝野新聞』や『読売新聞』など紙面に寄稿。
1885(明治18)年
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市島謙吉(24-25歳)、「東京専門学校」にて、政治学を教える。
1886(明治19)年
「五大法律学校」、私立法律学校特別監督条規、東京府下に所在、特に教育水準が高く特別許認可を受けた「英吉利法律学校」・「専修学校」・「東京専門学校」・「東京法学校」・「明治法律学校」の5校について、「帝国大学」総長の監督下に。帝国大学特別監督学校となる。
1886(明治19)年
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前島密(50-51歳)、「東京専門学校」第2代校長に。
1886(明治19)年
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天野為之(24-25歳)、『経済原論』発表。日本人による完全書下ろしの経済書として、版を22回重ね、3万部を売り上げたロングセラーとして広く読まれる。執筆に当たり、ミル、ジョン・ネヴィル・ケインズ、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズなど、古典学派から多くが参考に供せられているほか、「東京専門学校」での講義用の資料が内容の基になる。「邦語による速成教育」を掲げる「東京専門学校」の活動が、出版の形で社会へ還元される。
1887(明治20)年
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天野為之(25-26歳)、町田忠治より、創立間もない東洋経済新報社の経営を引き継ぐ。以後10年間、経営基盤構築、社風形成に大きく寄与。在任中、植松考昭や三浦銕太郎など「東京専門学校」出身者たちが続々入社、活動の中心的役割を担うように。自身は「牛中山人」の筆名で社説など担当。保護貿易論に反対して自由貿易経済政策をとることを主張したり、日露戦争に際しては冷徹な視点からの論陣を張ったり、経済教育の重要性を説いたりした。
1890(明治23)年
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坪内逍遥(30-31歳)、「東京専門学校」に文学部誕生。シェイクスピア講義は「東京専門学校」独自のものであり、花形講師に。後に、「早稲田といえば文科」と言われるほどに。
1890(明治23)年7月
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鳩山和夫(34歳)、「東京専門学校」第3代校長に。
1891(明治24)年
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坪内逍遥(31-32歳)、雑誌『早稲田文学』創刊。
1892(明治25)年頃
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「東京専門学校」の別名として、「早稲田大学」と呼ばれるように。
1893(明治26)年12月
「九大法律学校」、司法省が最初に「判事検事登用試験」の受験資格を与えた司法省指定学校より、関西の「関西法律学校」を除いて「帝国大学」を加えたものに由来。「東京帝国大学」・「東京法学校」・「専修学校」・「明治法律学校」・「東京専門学校」・「東京法学院」・「獨逸学協会学校専修科」・「日本法律学校」・「慶應義塾大学部」の9つを指す。
1896(明治19)年
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大隈英麿(39-40歳)、大隈重信と共に「早稲田尋常中学校」設立。初代校長に。
1897(明治30)年3月
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嘉納治五郎(36歳)、創部仕立ての「東京専門学校」柔道部の柔道場にも指導。
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1900(明治33)年
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私立学校令に基づき、認可学校に。
1900(明治33)年
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初めての海外留学生2名をドイツ派遣。
1901(明治34)年
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市島謙吉(40-41歳)、体調悪化、衆議院議員辞職、政治活動を断念。高田早苗の薦めにより、「東京専門学校」図書館長に。
1901(明治34)年
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大隈英麿(44-41歳)、「早稲田実業中学」初代校長に。
1902(明治35)年9月2日
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「早稲田大学」に改称。大学部と専門部新設。大学部に政治経済学科、法学科、文学科設置。
1902(明治35)年
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市島謙吉(41-42歳)、「早稲田大学」初代図書館長に。1917(大正6)年、早稲田騒動で辞するまで、和漢洋の蔵書の拡充に奔走。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1903(明治36)年
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高等師範部設置。
1903(明治36)年
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「慶應義塾大学」との早慶野球戦、開始。
1904(明治37)年
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専門学校令に基づき、大学に。大学部に商科設置。
1904(明治37)年
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天野為之(42-43歳)、新設の「早稲田大学商科」科長に。開放自由主義経済実現のため、国民に経済理論や知識の普及が必要不可欠であると考え、経済教育の拡充を模索。
1904(明治37)年
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天野為之(42-43歳)、新設の「早稲田大学商科」科長と共に、「早稲田実業学校」校長を兼ねる。中等教育の段階で専門学校に匹敵する水準の教育を施すことを志向。
1905(明治38)年
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清国留学生部設置。
1907(明治40)年
1907(明治40)年
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大隈重信(68-69歳)、政界引退。「早稲田大学」が総長・学長制を敷く、初代総長に。初代学長、高田早苗。
1907(明治40)年
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高田早苗(46-47歳)、「早稲田大学」が総長・学長制を敷く、初代学長に就任。初代総長、大隈重信。
1908(明治41)年11月22日
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大隈重信(70歳)、戸塚球場で開催の米大リーグ選抜チーム リーチ・オール・アメリカンチーム対「早稲田大学」野球部の国際親善試合にて、始球式。日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされる。
1908(明治41)年
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手島精一(57-58歳)、「早稲田大学理工科」商議員に。阪田貞一、牧野啓吾と共に、「早稲田大学理工科」創設に尽力。
1909(明治42)年
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大学部に理工科・本科(機械学科・電気学科)設置。
1909(明治42)年
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阪田貞一(51-52歳)、「早稲田大学理工科」理工科長に。
1911(明治44)年
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「早稲田工手学校(のちに早稲田大学芸術学校)」開校。
1912(明治45)年
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辰野金吾(57-58歳)、大隈重信の要請を受け、「早稲田大学建築学科」創設顧問に。創設に尽力。
1913(大正2)年
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大隈重信(75-76歳)、「早稲田大学」創立30周年記念祝典にて、教育の基本理念を示す基本文書、早稲田大学教旨を宣言。高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国など草案作成。
1915(大正4)年8月
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天野為之(54歳)、「早稲田大学」第2代学長に。
1917(大正6)年
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「早稲田騒動」、第2次大隈重信内閣が瓦解、高田早苗も文部大臣を辞職。再び高田早苗を「早稲田大学」学長に担ごうとする一派と、現学長・天野為之一派が対立。新聞で報道されると、学生や卒業生をも巻き込む大騒乱へと発展。9月4日、天野派と目された永井柳太郎など5教授と前学長秘書・橘静二が解任、学生6名が退学処分に。対して9月11日夜、天野派は早稲田劇場で高田派弾劾演説会を開催、石橋湛山や尾崎士郎らの演説の後、学生革新団による校門占拠事件にまで発展。しかし、事態を静観していた警視庁第一方面監察官正力松太郎の仲介により、革新団は2日後に大学から退去。天野為之は絶縁に近い形で、「早稲田大学」を離れることに。当分の間、学長を置かないことに決定。翌年1918(大正7)年9月、校規大幅改正、代表者理事・平沼淑郎が第3代学長に。
1917(大正6)年
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天野為之(55-56歳)、早稲田騒動後、再び「早稲田実業学校」に戻り、校長に。学校運営に尽力。「早稲田実業学校」は「早稲田大学」と別の路線を歩むことに。
1918(大正7)年9月
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平沼淑郎(54歳)、早稲田騒動後、「早稲田大学」第3代学長に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。
1920(大正9)年
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大学令に基づき、大学に。政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部、大学院を設置。
1923(大正12)年5月
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高田早苗(63歳)、「早稲田大学」第3代総長に。
1927(昭和2)年
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大隈記念講堂落成。
1928(昭和3)年
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坪内博士記念演劇博物館開館。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。
1949(昭和24)年
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学制改革に基づき、新制「早稲田大学」設立。11学部(第一政治経済学部、第一法学部、第一文学部、教育学部、第一商学部、第一理工学部、第二政治経済学部、第二法学部、第二文学部、第二商学部、第二理工学部)設置。