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早稲田大学
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
【前編】 約2,000文字(読了目安:5分程度)
【後編】 約2,000文字(読了目安:5分程度)
[前編]
「大隈重信、早稲田誕生前夜」
早稲田大学の大学”始まり”物語
序章 反骨の神童、世界を知る
早稲田大学の源流を語るには、大隈重信の幼少期まで遡る必要があります。大隈重信は1838年、第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)が治める肥前国佐賀に生を受けます。「人材の登用」と「実学の振興」を掲げて藩政改革を断行する鍋島直正は、先進的な教育政策を展開。「天下三弘道館」の一つに数えられるに至った佐賀藩校・弘道館を中心に、藩を挙げて教育に力を注いでいました。その弘道館にあって、大隈重信の神童ぶりは異才を放つものでした。
しかし、大隈重信の旺盛すぎる知的好奇心と旧弊な権威への反骨精神は、朱子学を中心とする画一的な教育の枠には到底収まりきりません。1855年、弘道館の閉鎖的な教育に反発して学校改革を訴えます。その末に騒動の首謀者と目され、退学処分となりました。若き日の挫折が彼の生涯を貫く「進取の精神」の最初の狼煙となり、西洋の実学へと向かわせる転換点となります。
旧来の学問と決別した大隈重信が次に向かったのは実用的な蘭学、そして時代の潮流である英学でした。1862年、長崎にて副島種臣・前島密らと共にアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズの私塾で英学を学びます。1864年、鍋島直正より英学調査を命じられ、幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)に入所。来日直後のオランダ人宣教師、グイド・フルベッキより英語を学びました。教材として新約聖書やアメリカ合衆国憲法を用いた講義の中で、大隈重信はキリスト今日と近代民主主義の精神に触れることになります。日本の未来を創るためには、新しい知識と思想を身に着けた全く新しい人材の育成が必要である。彼の胸に「教育による国造り」という生涯をかけたテーマが宿った瞬間でした。
1867年、佐賀藩諫早家の屋敷内に佐賀藩校英学所・至遠館を設立。グイド・フルベッキを校長に迎えます。大隈重信も副島種臣と共に教頭格となり、教鞭を握り学校運営に熱中します。この経験が、後の東京専門学校創設の源流となるのです。
第一章 近代国家の設計者たち
明治維新という未曽有の変革期。幕府役人が去った長崎の管理を一手に担い、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮していたのが大隈重信でした。「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその働きに驚嘆した井上馨の手引きにより、1868年に明治新政府に出仕することになります。日本の近代化を担う政治家として、一躍表舞台に名乗り出ます。
1869年、大隈重信は造幣局設立を建白、貨幣制度改革を主導します。通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を円形とすることなどを定めていきます。そして、明治新政府によって新たに設けられた民部省・大蔵省に出仕。大蔵大輔の顕官を担い、中央集権体制確立と早期の近代国家建設を掲げる木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。この頃、大隈重信の邸宅には伊藤博文・井上馨・前島密・渋沢栄一といった若手官僚たちが連日集まり、寝食を共にしながら近代国家建設について熱く議論を交わしました。世に「築地梁山泊」と称されたこの集いは、日本の近代国家の青写真を描く、知の交流の中心地となります。
第二章 孤立の果て、小野梓との出会い
大隈重信が政権中枢で辣腕を振るう中、政府内の対立が表面化し始めます。1873年10月24日、征韓論に端を発した「明治六年政変」が勃発。西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野、『民選議員設立建白書』を提出。藩閥政府による専制政治を批判、国会開設を請願したことが自由民権運動の契機となります。
大久保利通が主導する藩閥政府の中、大隈重信は徐々にその権力を奪われていきます。1875年、参議・伊藤博文と井上馨の斡旋により実現した政府と木戸孝允・板垣退助との秘密政治会談(大阪会議)が実現。大隈重信には会談開催が知らされず、孤立を深めていきました。
1878年に大久保利通が暗殺されると、かつての盟友・伊藤博文が内務卿を継承、権力の中枢を握ります。参議の各省卿兼任が解かれる中、大蔵卿の兼任を解かれた大隈重信の財務掌握は終焉を迎えました。伊藤博文・井上馨より冷眼視される中、国家財政の透明化を目指して独立機関・会計検査院の創設を建議。政権内での巻き返しを図ります。そして、新設の会計検査院検査官として赴任したのが、後に自身の右腕となって二人三脚で東京専門学校を創設するに至る小野梓でした。運命の出会いにより、早稲田誕生の歯車が回り始めます。
[後編]
「学問の独立、早稲田の戦い」
早稲田大学の大学”始まり”物語
第三章 明治十四年の政変
政権中枢で孤立を深める大隈重信と小野梓が会計検査院で出会った頃、世の中は自由民権運動の熱狂に包まれていました。藩閥政治への抵抗、国会開設への機運が最高潮に高まり、在野の言論が活発化します。
福澤諭吉が発起人となり慶應義塾を中心に主宰する交詢社は、まさに言論的拠点の一つとなっていました。大隈重信も交詢社に参画、日本の未来を憂う同志たちと志を共に議論。早期の国会開設や私擬憲法案など、新しい政治のあり方を模索していきます。大隈重信と福澤諭吉は立場を違えど、日本の将来を憂う稀有な盟友としての関係を深めていくのでした。
急進的な改革案を掲げる大隈重信は、国会開設の時期や形式を巡って政府内で激しく対立します。かつての盟友であった伊藤博文や井上馨らが「漸進主義」を掲げて時間をかけた国家形成を目指した一方、大隈重信は「急進的」なイギリス流の議会政治導入を主張したのです。その溝は埋めがたく、ついに1881年、「明治十四年の政変」が勃発します。開拓使官有物払い下げ事件での対応を「造反」だと見なされ、大隈重信とそのブレーンと見做された慶應義塾は政府から追放されることとなりました。前島密・矢野龍渓・小野梓・大隈英麿ら多くの側近も大隈重信に従い、官を辞して在野となります。この政変が転機となり、大隈重信は「官」の改革者から「民」の立場で政党政治と教育機関を率いるリーダーへと転身することとなります。
第四章 「学問の独立」、早稲田の戦い
10年後の国会開設を見据えて。政変の翌年1882年、大隈重信は立憲改進党を結成します。イギリス流の立憲君主制と議会政治の確立を目指す、日本初の本格的な政党でした。この党を率い、在野からの政治改革を目指します。
同じ頃、小野梓もまた、自由な近代政治思想を科通謀する東京大学の学生たちを中心に政治結社・鷗渡会を設立しました。後に早稲田の礎となる若き知性たち、高田早苗・天野為之・市島謙吉・坪内逍遥が名を連ねます。小野梓率いる鷗渡会が立憲改進党に合流しました。
早稲田誕生のきっかけは、大隈重信の婿養子である大隈英麿から提案された理学学校設立の計画でした。大隈重信はこの構想を小野梓ら鷗渡会メンバーに相談、「来るべき立憲政治の担い手、指導者を養成するための学校を目指すべき」との構想が固まります。政治経済や法律を教授する学校設立に至るのです。
1882年10月21日、大隈重信が掲げるイギリス流の近代国家建設という政治展望の一事業として、東京専門学校が創立されます。小野梓がその中心人物として「学問の独立」を謳い、「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げました。北門義塾の校舎を受け継ぎ、政治経済学科・法律学科・理学科・英学科を設置。小野梓を校閲監督に、高田早苗・天野為之・市島謙吉・坪内逍遥ら鷗渡会メンバーが学校運営の根幹を担い、自ら教鞭を執りました。
政府の意向に左右されない「在野の大学」として歩みを始めた東京専門学校でしたが、その船出は順風満帆ではありませんでした。東京大学の元学生が運営の中核を担ったこと、そして自由民権運動の牙城と目された立憲改進党の学校と見做されたことから、明治新政府より厳しい監視の目を向けられます。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など様々な妨害・圧迫が加えられ、講師の確保にも窮する状況が続きました。創設早々に廃校の危機に直面します。この困難な時期、大隈重信は政治的影響力を駆使して学校を守り、小野梓は病と闘いながらも学校運営の実務を一手に引き受けてその精神的支柱となりました。
大隈重信と小野梓の二人三脚による戦いは、突如終わりを告げます。小野梓がわずか35歳にして夭折。かけがえのない右腕を失う痛恨の出来事となります。しかし、東京専門学校の「学問の独立」の志は揺るぎません。小野梓の死後、代わって学校運営の中心を担ったのは高田早苗でした。
第五章 早稲田四尊の活躍と大学昇格
東京専門学校の運営を担うだけでなく、大隈重信の政治活動・言論活動も支えたのが高田早苗を筆頭に後に「早稲田四尊」と称される天野為之・市島謙吉・坪内逍遥でした。
1887年、高田早苗は読売新聞の主筆を務め、社会に影響を与える役割を担います。そして1890年、国会開設に合わせ行われた第1回衆議院議員総選挙に立候補、全国最年少で当選します。読売新聞主筆の座を市島謙吉が引き継ぎ、天野為之もまた衆議院議員に当選。国政の舞台で活躍を始めます。同年9月、坪内逍遥は東京専門学校に文学科を誕生させ、その花形講師となります。『早稲田文学』を創刊、早稲田の学風形成に決定的な影響を与えました。
1898年6月30日、大隈重信は内閣総理大臣兼外務大臣に。日本初の政党内閣が発足します。第1次大隈重信内閣にて、高田早苗は文部省参事官・高等学務局長・参与官兼専門学務局長を歴任。右腕として教育行政の中枢を担い、国家の教育政策に深く関与します。
1900年、東京専門学校に大学部が設置され、大学昇格に向けた動きが本格化します。そして1902年、専門学校令に基づいて「早稲田大学」に改称。ついに、名実共に大学としての地位を確立しました。1904年に天野為之を中心に商科設置、経済教育の拡充が果たされます。1907年に総長・学長制を導入、学園の最高責任者である早稲田大学初代学長に大隈重信が就任。初代学長に高田早苗が就任しました。翌1908年には理工科を設置、辰野金吾による建築学科が創設されるなど、多様な学問分野を擁する総合大学へと発展を遂げたのです。
終章 『早稲田大学教旨』
1913年、早稲田大学創立30周年記念祝典にて。大隈重信により、教育の基本理念を示す『早稲田大学教旨』が発表されます。「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を建学の精神に歩みを進めてきた早稲田大学が、日本の未来を担う人材を育成、社会に貢献する確固たる存在となったことを宣言するものでした。大隈重信・小野梓・早稲田四尊ら創立者の理念は、今日まで早稲田大学正門前に碑文として掲げられ、受け継がれてきたのです。