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ダイガクコトハジメ - 外山正一

外山正一

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  • 1848(弘化5/嘉永元)年10月23日(旧暦・9月27日) 外山正一(1歳)、江戸小石川に家禄220俵の旗本で幕府講武所の歩兵指南役・外山忠兵衛正義の子として生まれる。幼名、捨八。家族は武芸で名を挙げたかったのだが、学問で頭角を表す。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

1857(安政4)年2月 藩書調所発足

洋学所を藩書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 藩書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1861(万延2/文久元)年8月5日(旧暦・6月29日) 箕作麟祥(16歳)蕃書調所の英学教授手伝並出役。この頃より英学私塾を開く。乙骨太郎乙・鈴木唯一・外山正一菊池大麓・箕作佳吉・大島貞益らに英学教授。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

 

  • 1862(文久2)年6月15日(旧暦・5月18日)、蕃書調所、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、洋書調所に改称。​

  • 1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、洋書調所開成所に改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。

  • 1864(文久4/元治元)年 外山正一(17歳)、開成所教授方に。若くして英才を謳われる。

  • 1866(慶応2)年10月26日 - 1868(慶応4/明治元)年6月 中村正直(35-37歳)、幕府のイギリス留学生監督として、川路寛堂と供に外山正一ほか留学生12名を引き連れ、渡英。幕府瓦解、帰国。

  • 1866(慶応2)年 - 1869(明治2)年 外山正一(19-22歳)勝海舟の推挙により、中村正直らと共に幕府派遣留学生として渡英。イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府瓦解、帰国。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)、官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。

  • 勝海舟、上野戦争後も戊辰戦争は続いたが、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対。戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であること、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあることが理由。

1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住

徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。

  • 勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直津田仙永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。

  • 1868(慶応4/明治元)年9月 中村正直(37歳)、駿府藩校・静岡学問所教授に。同じく教授であったエドワード・ウォーレン・クラーク宣教師に感化され、生涯の友に。

  • 1869(明治2)年 外山正一(22歳)、帰国後、東京を離れ静岡へ。静岡学問所に勤める。

  • 1870(明治3)年 外山正一(23歳)、英語力が求められ、明治新政府に出仕。外務省弁務少記に。渡米。

  • 1871(明治4)年 - 1876(明治9)年 外山正一(24-32歳)、外務権大録に。しかし直ちに辞職。ミシガン州アンポール・ハイスクールを経て、ミシガン大学入学。南北戦争の復興期であったアメリカで、哲学と科学を専攻。

  • 1874(明治7)年5月、開成学校東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1876(明治9)年 外山正一(29歳)、帰国後、東京開成学校教員に。社会学を教える。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1877(明治10)年 外山正一(30歳)、新たに発足した東京大学にて、日本人初の教授に。講義では徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始、これに対し学生たちより「スペンサーの番人」と揶揄される。

  • 外山正一、ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁より、エドワード・S・モースを東京大学に招聘。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1882(明治15)年 外山正一(35歳)、東京大学同僚の矢田部良吉・井上哲次郎と共に『新体詩抄』発表。従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索、近代文学に多大な影響を及ぼす。

  • 1884(明治17)年 外山正一(37歳)、日本語のローマ字化推進のため羅馬字会を結成。矢田部良吉らが参加。漢字や仮名の廃止を唱える。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

1887(明治20)年5月21日 学位令

日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。

1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、
帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。

  • 1887(明治20)年10月4日 伊沢修二(37歳)文部省音楽取調掛長であった自身のほか、菊池大麓外山正一・穂積陳重ら代表的学者7名が連署した『音楽学校設立ノ儀ニ付建議』に基づき、文部省音楽取調掛を改称して東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立。初代校長に。日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関であり、当初は西洋音楽の教育を中心とする。修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科および3年制の専修科)から構成。

  • 1887(明治20)年 伊藤博文(47歳)、創立委員長となり女子中等教育機関・女子教育奨励会(後に東京女学館)設立。「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指す。創立委員に、渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一ほか、帝国大学英語教授・ジェムス・ディクソン、聖公会司教・アレキサンダー・ショーなど政財官界の有力者で構成。​​

  • 1887(明治20)年 外山正一(40歳)、東京学士会院会員に。

  • 1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓

  • ​1888(明治21)年 外山正一(41歳)、日本最初の文学博士に。

  • 1889(明治22)年7月19日 神田乃武(33歳)外山正一・元良勇次郎と共に、芝に正則予備校(現・正則高等学校)創立。

  • 外山正一、九代目市川團十郎や依田学海らが実践していた演劇改良に参加。

  • 外山正一、西洋列強と伍するためには教育の向上に尽力。女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍。

  • 1898(明治31)年1月12日 - 1898(明治31)年6月30日 伊藤博文(58歳)、第3次伊藤博文内閣。6月、衆議院を解散。閣議で政党結成の意思表明、新党結成を唱えるも山縣有朋の反対に遭い首相辞任。

  • 1898(明治31)年 外山正一(51歳)、第3次伊藤博文内閣の文部大臣に就任。2ヶ月で退任。

  • 外山正一、貴族院議員に。

  • 1900(明治33)年3月8日 外山正一(53歳)、死去。享年53歳。

外山正一

とやままさかず

1848(弘化5/嘉永元)年10月23日(旧暦・9月27日) - 1900(明治33)年3月8日

文学博士、開成所教授、外務省弁務少記・外務権大録、東京開成学校教員、東京大学教授、帝国大学文科大学初代文科大学長、女子教育奨励会(後に東京女学館)創立委員、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立協力、東京学士会院、正則予備校(現・正則高等学校)創立、東京帝国大学総長、文部大臣、貴族院議員、『新体詩抄』発表、「スペンサーの番人」

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