東京大学

外山正一

とやままさかず

1848(嘉永元)年9月27日/10月23日 - 1900(明治33)年3月8日

1848(嘉永元)年9月27日/10月23日

  • 外山正一、江戸小石川に家禄220俵の旗本で幕府「講武所」歩兵指南役・外山忠兵衛正義の子として生まれる。幼名、捨八。家族は武芸で名を挙げたかったのだが、学問で頭角を表す。

  • 外山正一(13歳)、「蕃書調所」で英語を学ぶ。

1864(文久4/元治元)年

  • 外山正一(16歳)、「開成所」教授方に。若くして英才を謳われる。

1866(慶応2)年 - 1869(明治2)年

  • 外山正一(17-21歳)、勝海舟の推挙により、中村正直らと共に幕府派遣留学生として渡英。イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府瓦解、帰国。

1866(慶応2)年10月26日 - 1868(明治元)年6月

  • 中村正直(33-36歳)、幕府のイギリス留学生監督として、川路寛堂と供に外山正一ほか留学生12名を引き連れ、渡英。幕府瓦解、帰国。

1869(明治2)年

  • 外山正一(20-21歳)、帰国後、東京を離れ静岡へ。「学問所」に勤める。

1870(明治3)年

  • 外山正一(21-22歳)、英語力が求められ、明治新政府に出仕。外務省弁務少記に。渡米。

1871(明治4)年 - 1876(明治9)年

  • 外山正一(22-28歳)、外務権大録に。しかし直ちに辞職。ミシガン州「アンポール・ハイスクール」を経て、「ミシガン大学」入学。南北戦争の復興期であったアメリカで、哲学と科学を専攻。

1876(明治9)年

  • 外山正一(27-28歳)、帰国後、「東京開成学校」教員に。社会学を教える。

1877(明治10)年4月12日

  • 東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法学部・理学部・文学部・医学校の4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。学科について、法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指された。あわせて、「東京大学法・理・文三学部」予科として基礎教育・語学教育機関「東京大学予備門」が付設される。

1877(明治10)年4月12日

  • 外山正一(27-28歳)、新たに発足した「東京大学」にて、日本人初の教授に。講義では徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始、これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄される。

  • 外山正一、「ミシガン大学」で進化論の公開講義を受けた縁より、エドワード・S・モースを「東京大学」に招聘。

1881(明治14)年1月11日-3月1日

1881(明治14)年

  • 東京大学」、機構改革。「東京大学法学部・理学部・文学部三学部」と「東京大学医学部」を名実共に統合。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった「東京大学法・理・文三学部」は、1885(明治17)年にかけて「東京大学医学部」に隣接する本郷新校舎に移転を完了。

1881(明治14)年7月6日

1881(明治14)年7月14日

1882(明治15)年

  • 外山正一(33-34歳)、「東京大学」同僚の矢田部良吉、井上哲次郎と共に『新体詩抄』発表。従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索、近代文学に多大な影響を及ぼす。

1886(明治19)年3月

  • 「東京大学文学部」、「帝国大学文科大学」に。第一科哲学科、第二科和文学科、第三科漢文学科、第四科博言学科を設置。初代学長に、外山正一

1886(明治19)年

1886(明治19)年11月

  • 渋沢栄一(46歳)、「帝国大学」教授・外山正一の「欧米人に見劣りしないために日本人女性に対する高度な教育が必要」の意見に賛同。内閣総理大臣・伊藤博文の勧説に従い、「女子教育奨励会」設立に協力。「東京女学館」の母体に。資金募集など尽力。評議員に。

1887(明治20)年

  • 内閣総理大臣・伊藤博文を創立委員長に、「女子教育奨励会」設立。「日本の貴婦人に欧米諸国の貴婦人と同等なる佳良の教化及び家事の訓練を受けさせる」ことを目的に。創立委員に、渋沢栄一、岩崎弥之助、「帝国大学」教授・外山正一、「帝国大学」英語教授・ジェムス・ディクソン、聖公会司教・アレキサンダー・ショーなど、政財官界の有力者で構成。

1887(明治20)年

  • 外山正一(38-39歳)、「東京学士会院」会員に。

1889(明治22)年

  • 外山正一(40-41歳)、元「東京大学」教授・元良勇次郎と元「東京高等商業学校」教授・神田乃武と共に、「正則予備校(現在の正則高等学校)」創立。

  • 外山正一、日本語のローマ字化推進のため『羅馬字会』を結成。漢字や仮名の廃止を唱える。

  • 外山正一、九代目市川團十郎や依田学海らが実践していた演劇改良に参加。

  • 外山正一、西洋列強と伍するためには教育の向上に尽力。女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍。

1897(明治30)年11月

1898(明治31)年

  • 外山正一(49-50歳)、第3次伊藤博文内閣の文部大臣に就任。2ヶ月で退任。

  • 外山正一、貴族院議員に。

1900(明治33)年3月8日

  • 外山正一(51歳)、死去。享年、51歳。