ダイガクコトハジメ - 勝海舟
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勝海舟(勝麟太郎)
かつかいしゅう(かつりんたろう)
1823(文政6)年 - 1899(明治32)年1月19日
幕臣、軍艦奉行、軍艦奉行、明治新政府初代海軍卿、蕃書調所(東京大学の源流)創立、長崎海軍伝習所教監、軍艦操練所頭取、海軍塾(神戸塾)創立、神戸海軍操練所創立、明六社創立、「幕末の三舟」
1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策
江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。
この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。
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1823(文政6)年 勝海舟(1歳)、江戸本所亀沢町に幕臣・旗本小普請組の勝小吉と信の子として生まれる。
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1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。
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1829(文政12)年 勝海舟(7歳)、男谷家の親類・阿茶の局の紹介により、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後に一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召される。
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1831(天保2)年 勝海舟(9歳)、野良犬に襲われる。生死の境に。この事件を切っ掛けに、晩年まで犬を苦手に。
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1838(天保9)年 勝海舟(16歳)、父・勝小吉が隠居。家督を継ぐ。
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勝海舟、島田虎之助に入門、剣術・禅を学ぶ。直心影流剣術の免許皆伝に。
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勝海舟、窪田清音の門下生・若山勿堂より山鹿流兵法を学ぶ。
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1845(弘化2)年 勝海舟(23歳)、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出るも断られる。永井青崖に弟子入り、蘭学を学ぶ。蘭学修行中、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラス製造、地震予知器開発に成功。牛痘種の導入も企図。木挽町(現・東京都中央区銀座)に五月塾創立。砲術・西洋学を講じる。勝麟太郎(勝海舟)、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ほか幕末・明治維新に影響を与えることになる人材が続々と入門、門下は数百人に及ぶ。
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1853(嘉永6)年 杉亨二(26歳)、勝海舟と知り合う。勝海舟の私塾・勝塾の塾長に。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。
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1853(嘉永6)年 老中首座・阿部正弘、江川英龍・岩瀬忠震・勝海舟・大久保忠寛(一翁)、永井尚志を海岸防禦御用掛へ任用。幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせる。
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1854(嘉永7/安政元)年 古賀謹一郎(39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中・阿部正弘に対し建白書を提出。洋学所(東京大学の源流)設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求め、阿部正弘の目に留まる。
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1855(安政2)年1月18日 勝海舟(33歳)、目付兼海防掛・大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられる。
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1855(安政2)年 勝海舟(33歳)、勘定奉行・石河政平と大久保忠寛(一翁)が命じられた大阪湾検分調査に参加。
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1855(安政2)年8月30日 古賀謹一郎(40歳)、黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充、洋学所創立。老中・阿部正弘より直に、頭取を任じられる。
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1855(安政2)年 安政の大地震、洋学所が全壊消失。
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1855(安政2)年9月 古賀謹一郎(40歳)、蘭書翻訳・教育機関を構想。勝海舟(勝麟太郎)らと共に、蕃書調所(東京大学の源流)設立の草案作成。
1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立
ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志。
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長崎海軍伝習所にて、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。
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1855(安政2)年10月20日 勝海舟(33歳)、長崎海軍伝習所入所。オランダ語が堪能であった為、教監も兼ねる。伝習生とオランダ人教官の連絡役も担う。第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。
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1855(安政2)年12月1日、日蘭和親条約締結、長崎海軍伝習所にて第一回の伝習が行われる。第一期生として幕府伝習生37名、諸藩の伝習生128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が参加。オランダに発注した蒸気船2隻(後の咸臨丸・朝陽丸)の乗員養成が図られる。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
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1857(安政4)年、長崎海軍伝習所にて第二回の伝習が行われる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。
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蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
1857(安政4)年3月 築地に軍艦操練所新設
永井尚志をはじめ多数の幕府伝習生が長崎海軍伝習所より教員として動員され、長崎海軍伝習所生は45名程に、勝海舟は留任。江戸から遠い長崎で伝習所を維持することが財政負担となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになる。
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1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共に、オランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら11名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。
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1858(安政5)年7月29日 永井尚志(43歳)、岩瀬忠震と共に外国奉行に。ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行う。
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1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、長崎滞在中に薩摩藩主・島津斉彬の知遇を得る。幕末における自身の行動に大きな影響を及ぼす。
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1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、安政の大獄、自身を推挙した大久保一翁が左遷にあうも、長崎にいるため難を逃れる。大獄を主導した大老・井伊直弼の政治手法、南紀派と一橋派の政争を批判。
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1858(安政5)年 勝海舟(36歳)、外国奉行・永井尚志と水野忠徳の遣米使節建言を受け、渡米希望を伝える。受諾され、長崎より朝陽丸で帰府。軍艦操練所教授方頭取に命じられ、海軍技術を教える。
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1859(安政6)年2月24日 永井尚志(44歳)、外国奉行の功績より、軍艦奉行に転進。直後の将軍後継者争いにて一橋慶喜を支持する一橋派に組する。
1858(安政5)年 - 1859(安政6)年 安政の大獄
幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝ら、勅許を得ないまま日米修好通商条約調印。将軍継嗣、徳川家茂に決定。これに反対した尊王攘夷派や一橋派の大名・公卿・志士を弾圧。連座した者は100人以上に。
1860(安政7)年3月3日、桜田門外の変にて井伊直弼殺害、弾圧収束。
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1859(安政6)年8月27日 永井尚志(44歳)、一橋慶喜支持を理由に、南紀派の大老・井伊直弼によって軍艦奉行を罷免され、失脚。隠居差控の処分を受ける。
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1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉鎖。設置期間は短かったが、江戸時代においてオランダを通じて西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たした。洋学者の多くは先ずは長崎で蘭学を学ぶことに。
1860(安政7)年 万延元年遣米使節
1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
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1860(安政7/万延元)年 勝海舟(38歳)、万延元年遣米使節、アメリカ海軍・ポーハタン号の護衛艦として、咸臨丸を操舵。サンフランシスコに渡る。同行した福澤諭吉、「日本人の手で成し遂げた壮挙」。
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1860(安政7/万延元)年12月10日(旧暦・10月28日) 嘉納治五郎(1歳)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)に父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。嘉納家は屈指の名家であり、祖父の嘉納治作は酒造・廻船にて高名。その長女・定子に婿入りしたのが、父・嘉納治郎作。幕府の廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負う。神戸海軍操練所にいた勝海舟を後援、寄宿させる。
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1861(万延2/文久元)年 勝海舟(39歳)、講武所砲術師範に。天守番之頭格に格上げ。
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1862(文久2)年7月4日 大久保一翁、安政の大獄による失脚から復帰。御側御用取次に。
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1862(文久2)年7月5日 勝海舟(40歳)、老中・安藤信正が失脚、島津久光が台頭。松平春嶽・一橋慶喜ら一橋派が政権復帰。これに伴い、軍艦操練所頭取として海軍復帰。
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勝海舟、「諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う」とする公議政体論を主張する大久保位一翁・松平春嶽とその顧問・横井小楠と連携。支持者となり、実現に向け動き出す。
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1862(文久2)年8月17日 勝海舟(40歳)、軍艦奉行並に。幕府海軍強化策について、公議政体論に従い、諸侯に拠金を求めて幕軍だけの強化を図る構想を退け、諸侯と幕府が共に海軍を図る人材登用論を主張。
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1862(文久2)年12月9日 勝海舟(40歳)、松平春嶽の招待状を手に坂本龍馬が来訪。「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」、開国派先鋒と目される勝海舟の暗殺も辞さぬ坂本龍馬だったが、勝海舟の主張は幕府・諸侯協力による国力・軍事力増強による欧米列強への対抗であり、すっかり感化される。「大いに余の固陋を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」と門弟に。師弟により、海軍操練所創設が構想される。
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1862(文久2)年12月 勝海舟(40歳)、14代将軍・徳川家茂の上洛に際し、幕府首脳を順動丸で大坂へ移送する役目を負う。老中格・小笠原長行に海軍操練所建造を提言、兵庫の海岸線調査を行う。
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1863(文久3)年 勝海舟(41歳)、京都から大坂へ下った14代将軍・徳川家茂を出迎え、順動丸で神戸まで航行。神戸港を日本の中枢港湾にすべしと提案。後に神戸は東洋最大の港湾へ発展を遂げることに。また同行者していた公家・姉小路公知も抱き込み、神戸海軍操練所設立許可を取り付ける。幕府より、年3000両の援助金も約束。神戸海軍操練所と別に、私塾設立も認められる。
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1863(文久3)年5月9日 勝海舟(41歳)、朝廷から命令が下り、幕府より製鉄所設立を命じられる。海軍強化が大きく前進。
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勝海舟、神戸海軍操練所設立に先立ち、私塾・海軍塾(神戸塾)創立。薩摩藩や土佐藩の荒くれ者・脱藩者が塾生となり出入り。塾頭に、坂本龍馬。
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勝海舟、上洛中の14代将軍・徳川家茂が朝廷より攘夷実行を迫られ、反対して政権返上を主張した松平春嶽が無断で京都を離れる。また、朔平門外の変で姉小路公知が暗殺される。連携者を失い、孤立。政治立場が不利に。
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勝海舟、長崎にて、長州藩による外国船砲撃への諸国報復を抑えるため説得活動。オランダ総領事ポルスブルックと交渉。しかし、上奏は採用されず。下関戦争にて、長州藩への制裁実行。公議政体論の具体化として期待していた参預会議についても、一橋慶喜の策動により解体。政治構想をことごとく潰され、幕府に対して不満を抱く。
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1864(文久4/元治元)年1月15日 板垣退助(28歳)、土佐藩主・山内容堂の本陣に勝麟太郎を招聘。坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。
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1864(文久4/元治元)年5月 勝海舟(42歳)、海軍士官養成機関・神戸海軍操練所創立。公議政体論の軍事的応用、幕府や諸藩の垣根を越えて「日本の一大共有の海局を作りあげる」という壮大な構想を掲げ、「日本の海軍」創設を目指す。軍艦奉行に昇格。
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1864(文久4/元治元)年9月11日 勝海舟(42歳)、大坂・専称寺にて初めて西郷隆盛と会談。
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1864(文久4/元治元)年11月10日 勝海舟(42歳)、八月十八日の政変で失脚した長州藩が京都へ進攻。禁門の変の責を問われる。また、私塾・海軍塾(神戸塾)にて脱藩浪人を抱えていたことも問題視される。軍艦奉行を罷免。約2年の蟄居生活。
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1864(文久4/元治元)年 渋沢栄一(25歳)、高崎城乗っ取りの計画を中止、親族に累が及ばぬよう、父より勘当を受けた体裁を取って京都に。八月十八日の政変直後であり、勤皇派が凋落。京都での志士活動に行き詰まる。江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙を得、一橋慶喜に仕える。一橋家領内を巡回、農兵募集に携わる。
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1865(元治2/慶応元)年 勝海舟(43歳)、神戸海軍操練所は土佐藩脱藩浪士や長州藩に同情的な意見を持つ生徒を多く抱えており、反幕的な色合いが濃いとして、閉鎖。
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1866(慶応2)年5月28日 勝海舟(44歳)、長州藩と幕府の緊張関係が頂点に。軍艦奉行に復帰。出兵拒否の薩摩藩と会津藩の対立解消、薩摩藩の出兵を促す。
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1866(慶応2)年9月2日 勝海舟(44歳)、14代将軍・徳川家茂逝去に伴い宗家を継承した徳川慶喜より京都へ招聘される。第二次長州征討の停戦交渉を任され、談判。長州藩の広沢真臣・井上馨らと交渉、幕府軍の敗色濃厚で交渉難航。征長軍撤退の際に追撃しないという約束を交わしただけに終わる。再交渉の余地を残したが、徳川慶喜が停戦の勅命引き出しに成功したことで無駄になる。憤慨、御役御免を願い出て江戸に帰る。
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1866(慶応2)年10月26日 - 1868(慶応4/明治元)年6月 中村正直(35-37歳)、幕府のイギリス留学生監督として、川路寛堂と供に外山正一ほか留学生12名を引き連れ、渡英。幕府瓦解、帰国。
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1866(慶応2)年 - 1869(明治2)年 外山正一(19-22歳)、勝海舟の推挙により、中村正直らと共に幕府派遣留学生として渡英。イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府瓦解、帰国。
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1866(慶応2)年12月 渋沢栄一(27歳)、主君・一橋慶喜が徳川宗家を相続、将軍に。幕臣となる。
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1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三、相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年1月 永井尚志(53歳)、鳥羽・伏見の戦、敗北した徳川軍を収拾。江戸に帰る。
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1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。
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何礼之、幕府陸軍総裁・勝海舟の通訳を務める。
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1868(慶応4/明治元)年2月 永井尚志(53歳)、恭順謝罪を決意した徳川慶喜により免職・登城禁止に処せられる。
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1868(慶応4/明治元)年 大鳥圭介(36歳)、鳥羽・伏見の戦い後、江戸城における評定にて、小栗忠順・水野忠徳・榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。
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1868(慶応4/明治元)年2月28日 大鳥圭介(36歳)、陸軍の最高幹部である歩兵奉行に。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
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1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)、官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。
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勝海舟、上野戦争後も戊辰戦争は続いたが、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対。戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であること、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあることが理由。
1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住
徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。
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勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直・津田仙・永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。
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1869(明治2)年 勝海舟(47歳)、明治維新後、旧幕臣の代表格として明治新政府の要職就任を求められるも、仕官に気が進まず。いずれも辞退または短期間務めて辞職するに至る。外務大丞に任じられるも、翌月辞任。兵部大丞に任じられるも、翌年辞任。
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1870(明治3)年 嘉納治五郎(11歳)、明治新政府の要人となった勝海舟に推挙・招聘された父・嘉納治郎作と上京。東京にて書道・英語など学ぶ。
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1872(明治5)年5月10日 勝海舟(50歳)、海軍大輔に任じられる。
1873(明治6)年7月 明六社結成
アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変
征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
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1873(明治6)年10月25日 勝海舟(51歳)、明治六年政変で西郷隆盛らが下野した後、初代海軍卿に任じられる。
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1874(明治7)年 勝海舟(52歳)、台湾出兵に反対、引き籠る。議会欠席のまま、元老院議官へ転属。
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1875(明治8)年8月 森有礼(29歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉・渋沢栄一らの協力を得て、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(現・一橋大学)創立。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎も創立に参加。9月24日、東京会議所より、東京府知事に開設届出。
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森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾・商法講習所開設。
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1875(明治8)年11月28日 勝海舟(53歳)、元老院議官を辞職。下野。以後、中央政府へ出仕せず。枢密顧問官も叙爵も政府からの求めに応じるだけで、度々辞退。
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1876(明治9)年 渋沢栄一(37歳)、東京会議所会頭に。
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1876(明治9)年5月、東京会議所解散に伴い、商法講習所の管理が東京府に移管。木挽町に移転。
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1876(明治9)年5月 矢野二郎(32歳)、森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟・大久保一翁らの熱心な説得を受け、商法講習所(現・一橋大学)所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、所管が変わるたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼・渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者として手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。
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1890(明治23)年7月26日 勝海舟(68歳)、三女が専修学校(現・専修大学)創立者・目賀田種太郎の妻となったことを繋がりに、専修学校の繁栄に尽力。卒業生に向けて、「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極む。」の自筆の書を贈る。
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勝海舟、晩年、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごす。政府から依頼・資金援助を受け、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)・『海軍歴史』・『陸軍歴史』・『開国起源』・『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる。
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1899(明治32)年 勝海舟(77歳)、死去。享年77歳。最後の言葉は、「コレデオシマイ」。
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