医学校/大学東校

相良知安

さがらちあん

1836(天保7)年2月16日/4月1日 - 1906(明治39)年6月10日

1836(天保7)年2月16日/4月1日

  • 相良知安、佐賀城下八戸に生まれる。

1843(天保14)年

  • 相良知安(6-7歳)、藩校「弘道館(養蒙舎)」に入学。

1851(嘉永4)年

  • 相良知安(14-15歳)、藩校「弘道館(大学部)」に入学。

1854(安政元)年

  • 相良知安(17-18歳)、「蘭学寮」入寮。

1856(安政3)年

  • 相良知安(19-20歳)、「医学寮(後に好生館)」入校。

1860(万延元)年

  • 相良知安(23-24歳)、福地文安と共に、「好生館」教官に抜擢。

1861(文久元)年

  • 相良知安(24-25歳)、「佐倉順天堂」で佐藤泰然より蘭学を学ぶ。

1863(文久3)年

  • 相良知安(26-27歳)、「長崎精得館」でオランダ人医師ボードインより医学を学ぶ。

1865(慶応元)年

  • 相良知安(28-29歳)、「長崎精得館」を「精得館」と改め、館長に。

1867(慶応3)年

  • 相良知安(28-29歳)、佐賀藩の「英学校蕃学所」でフルベッキに学ぶ。

1868(慶応4)年

  • 相良知安(29-30歳)、「好生館」教導方差次に。佐賀藩主・鍋島直正公の侍医となる。

1869(明治2)年1月

  • 相良知安(32歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。

  • 相良知安、強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。

1869(明治2)年6月

  • 相良知安(33歳)、ドイツより教師を招くことを建議、 2名を招請することに。

1870(明治3)年9月 - 1871(明治4)年11月

  • 相良知安(34歳)、部下の大学会計の不正疑惑に連座、収監される。石黒忠悳江藤新平らの献策により出獄が適い、復職。

1872(明治5)年10月8日

1873(明治6)年3月

  • 相良知安(36歳)、文部省医務局長兼築造局長に。

1873(明治6)年

  • 相良知安(36-37歳)、明治六年政変(征韓論争)で下野した親友・江藤新平を支持。

1873(明治6)年6月

  • 相良知安(36歳)、「第一大学区医学校」校長および文部省医務局長兼築造局長を罷免。ドイツ医学採用の経緯や明治六年政変(征韓論争)で下野した親友・江藤新平の支持が原因と言われる。

1885(明治18)年7月

  • 相良知安(48-49歳)、文部省御用掛に任じられる。

1900(明治33)年

  • 相良知安(63-64歳)、勳五等に叙せられ、雙光旭日章を授けられる。

1906(明治39)年6月10日

  • 相良知安(71歳)、死去。享年、71歳。正五位に叙せられる。