ダイガクコトハジメ - 大学校(大学)・文部省 - 創立者・教育者 - 九鬼隆一
大学校(大学)・文部省
九鬼隆一
くきりゅういち
1852(嘉永5)年8月7日/9月12日 - 1931(昭和6)年8月18日
1852(嘉永5)年8月7日/9月12日
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九鬼隆一、摂津国三田の屋敷町(現在の兵庫県三田市)に三田藩士で180石取りの星崎貞幹の次男として生まれる。幼名は貞次郎。
1860(万延元)年
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九鬼隆一(7-8歳)、母・龍が亡くなる。新藩主・九鬼隆義の斡旋で、跡継ぎを探していた綾部藩家老・九鬼隆周の養子に。
1866(慶応元)年
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九鬼隆一(13-14歳)、家督を継ぎ、九鬼家当主に。
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九鬼隆一、三田藩の藩政改革に携わっていた福澤諭吉が大阪江戸堀の藩屋敷で饗応された際に同席。面識を得る。
1869(明治2)年5月19日
1869(明治2)年11月
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九鬼隆一(17歳)、綾部藩の洋式練兵中隊長、権少参事などの職に就く。山陰鎮撫総督として、丹波街道の塚原口を受け持つ。
1870(明治3)年
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九鬼隆一(17-18歳)、川本幸民の私塾に学ぶ。
1870(明治3)年11月
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九鬼隆一(18歳)、権少参事辞任。
1871(明治4)年2月
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九鬼隆一(18歳)、「慶應義塾」入塾、英語などを学ぶ。
1872(明治5)年4月
1872(明治5)年9月
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九鬼隆一(19-20歳)、「第一大学区医学校」事務主任に。
1873(明治6)年
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九鬼隆一(20-21歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省のこの方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、強い反発を受けたが、中江篤介の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができた。
1874(明治7)年4月
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九鬼隆一(21歳)、帰国。新たに文部卿となった木戸孝允の下、文部少丞に。
1876(明治9)年4月
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九鬼隆一(23歳)、奏任官である文部大丞・一等法制官に。
1877(明治10)年1月
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九鬼隆一(24歳)、文部大書記官・太政官大書記官に。
1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月
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九鬼隆一(26-27歳)、パリ万国博覧会に派遣。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性を痛感。
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九鬼隆一(26-27歳)、渡仏中、博覧会副総裁・松方正義と出会い、親交を深める。
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九鬼隆一(26-27歳)、渡仏中、西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけで、美術分野に関心を持つ。後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。
1880(明治13)年
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九鬼隆一(27-28歳)、文部少輔に。
1880(明治13)年11月
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九鬼隆一(28歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌の行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。
1881(明治14)年5月26日
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九鬼隆一(28歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続ける手島精一に、工業教育推進論者として同調。専門学務局長・浜尾新と共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵。
1881(明治14)年
明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓、矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。
1881(明治14)年
1882(明治15)年12月
1884(明治17)年5月
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九鬼隆一、特命全権公使としてワシントンD.C.赴任。公使館の客間に数百幅の日本画を飾り、日本美術を紹介。また古美術品の海外流出防止の観点より、国宝保存を文部省や宮内省に進言。背景に、以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったとされる。
1887(明治20)年
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九鬼隆一(34-35歳)、ヨーロッパ視察を終えたフェノロサと岡倉天心がアメリカに立ち寄り。数年ぶりに再会。
1887(明治20)年10月
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九鬼隆一(35歳)、帰国。宮内省図書頭に。臨時全国宝物取調掛を設置、自ら委員長となり、フェノロサや岡倉天心が委員を務め、文化財の調査・保護に当たる。
1888(明治21)年5月 - 1889(明治22)年2月
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九鬼隆一(35-36歳)、フェノロサを伴い、近畿地方の京都府・大阪府・奈良県・滋賀県・和歌山県を訪れ、社寺や美術品の調査を行なう。
1889(明治22)年
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九鬼隆一(36-37歳)、東京・京都・奈良に帝国博物館(現在の国立博物館)設立、初代総長に。
1890(明治23)年
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九鬼隆一(37-38歳)、上野で開催された第3回内国勧業博覧会の審査総長に。
1890(明治23)年
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九鬼隆一(37-38歳)、帝室技芸員の制定に携わる。
1890(明治23)年
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九鬼隆一(37-38歳)、貴族院議員に。
1891(明治24)年4月
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九鬼隆一(38歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令で、シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行なう、副総裁に。
1893(明治26)年
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九鬼隆一(40-41歳)、シカゴ万国博覧会の日本展示は、岡倉天心の意向もあり、日本画を中心とした伝統的なものとなる。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を「東京美術学校」が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。
1895(明治28)年4月
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九鬼隆一(42歳)、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会の審査総長に。
1895(明治28)年6月
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九鬼隆一(42歳)、枢密顧問官に。
1896(明治29)年
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九鬼隆一(43-44歳)、男爵に叙せられる。
1898(明治31)年
1914(大正3)年
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九鬼隆一(61-62歳)、旧・有馬郡の役所を利用、自身の収蔵品を展示する三田博物館設立。
1920(大正9)年
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九鬼隆一(67-68歳)、議定官に。
1931(昭和6)年8月18日
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九鬼隆一(78歳)、死去。享年、78歳。
