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ダイガクコトハジメ - 九鬼隆一

九鬼隆一

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  • 1852(嘉永5)年9月12日(旧暦・8月7日) 九鬼隆一(1歳)、摂津国三田の屋敷町(現・兵庫県三田市)に三田藩士で180石取りの星崎貞幹の次男として生まれる。幼名は貞次郎。

  • 1860(安政7/万延元)年 九鬼隆一(9歳)、母・龍が亡くなる。新藩主・九鬼隆義の斡旋で、跡継ぎを探していた綾部藩家老・九鬼隆周の養子に。

  • 1866(慶応2)年 九鬼隆一(15歳)、家督を継ぐ。九鬼家当主に。

  • 九鬼隆一、三田藩の藩政改革に携わっていた福澤諭吉が大阪江戸堀の藩屋敷で饗応された際に同席。面識を得る。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾を内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

  • 1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。

  • 1869(明治2)年5月19日 九鬼隆一(18歳)、三田藩主・九鬼隆義と共に上京した際、福澤諭吉を再訪。藩の推薦もあり、慶應義塾の入塾許可を得る。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 1869(明治2)年11月 九鬼隆一(18歳)、綾部藩の洋式練兵中隊長、権少参事などの職に就く。山陰鎮撫総督として、丹波街道の塚原口を受け持つ。

  • 1870(明治3)年 九鬼隆一(19歳)、川本幸民の私塾に学ぶ。

  • 1870(明治3)年11月 九鬼隆一(19歳)、権少参事辞任。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校文部省管轄に。南校に改称。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

  • 1872(明治5)年4月 九鬼隆一(21歳)、文部省に十一等出仕。南校監事に。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1873(明治6)年 九鬼隆一(22歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省の方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。井上毅・井上和郎など強い反発を受けるも、中江篤介(後に中江兆民)の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができる。

  • 1874(明治7)年4月 九鬼隆一(23歳)、帰国。新任の文部卿・木戸孝允の下、文部少丞に。

  • 1876(明治9)年4月 九鬼隆一(25歳)、奏任官である文部大丞・一等法制官に。

  • 1877(明治10)年1月 九鬼隆一(26歳)、文部大書記官・太政官大書記官に。

  • 1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会に派遣される。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、特に中等程度の工業教育の必要性を痛感。​

  • 1878(明治11)年10月 手島精一(29歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。​

  • 1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会で渡仏中、博覧会副総裁・松方正義と出会い、親交を深める。

  • 1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会で渡仏中、西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけで、美術分野に関心を持つ。後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。

  • 1880(明治13)年 九鬼隆一(29歳)、文部少輔に。

  • 1880(明治13)年11月 九鬼隆一(29歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌が教育行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。

  • 1881(明治14)年9月27日 正木退蔵(36歳)九鬼隆一により日本に呼び戻される。創立間もない東京職工学校の初代校長に。学則改正・煉瓦校舎建設・学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場設立。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶應義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 九鬼隆一(30歳)、明治十四年の政変に組せず。文部省に残り、師である福澤諭吉の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となる。このため、福澤諭吉との関係が極度に緊張、後に和解。

  • 1881(明治14)年 岡倉天心(19歳)、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査。

  • 1882(明治15)年12月 九鬼隆一(31歳)、文部卿となった大木喬任からの信頼は弱く、翌1883(明治16)年に強力な支持者であった岩倉具視が亡くなると、文部省での権勢は弱まる。

  • 1884(明治17)年5月 九鬼隆一(33歳)、西洋化を進める伊藤博文の方針で、森有礼が初代文部大臣に。儒学的な指向を持っていた元田永孚と共に、文部省を去る。

  • 1884(明治17)年6月25日 岡倉天心(22歳)、フェノロサと共に京阪地方の古社寺歴訪を命じられる。法隆寺夢殿を開扉、救世観音菩薩像を調査。

  • 九鬼隆一、特命全権公使としてワシントンD.C.赴任。公使館の客間に数百幅の日本画を飾り、日本美術を紹介。また古美術品の海外流出防止の観点より、国宝保存を文部省や宮内省に進言。背景に、以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったとされる。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 1886(明治19)年-1887(明治20)年 岡倉天心(24-25歳)文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的に欧米調査旅行。東京美術学校を構想。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。

  • 1887(明治20)年 九鬼隆一(36歳)、ヨーロッパ視察を終えたフェノロサと岡倉天心がアメリカに立ち寄り。数年ぶりに再会。

  • 1887(明治20)年10月 九鬼隆一(36歳)、帰国。宮内省図書頭に。臨時全国宝物取調掛を設置、自ら委員長となる。フェノロサや岡倉天心が委員を務め、文化財の調査・保護に当たる。

  • 1888(明治21)年5月 - 1889(明治22)年2月 九鬼隆一(37-38歳)、フェノロサを伴い、近畿地方の京都府・大阪府・奈良県・滋賀県・和歌山県を訪れ、社寺や美術品の調査を行なう。

  • 1889(明治22)年2月、東京美術学校開校。日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする。教官に黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲ほか。修業年限2年の普通科と3年の専修科から構成。後に西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も加わる。

  • 1889(明治22)年 九鬼隆一(38歳)、東京・京都・奈良に帝国博物館(現・国立博物館)設立。初代総長に。

  • 1890(明治23)年 九鬼隆一(39歳)、上野で開催された第3回内国勧業博覧会の審査総長に。

  • 1890(明治23)年10月7日 岡倉天心(28歳)東京美術学校校長に。日本美術史を講義、日本美術史叙述の嚆矢とされる。副校長にフェノロサ。福田眉仙・横山大観・下村観山・菱田春草・西郷孤月らを育てる。

  • 1890(明治23)年 九鬼隆一(39歳)、帝室技芸員の制定に携わる。

  • 1890(明治23)年 九鬼隆一(39歳)、貴族院議員に。

  • 1891(明治24)年4月 九鬼隆一(40歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令にて、1893(明治26)年開催シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行なう。副総裁に。

  • 1891(明治24)年12月 岡倉天心(29歳)、シカゴ万国博覧会評議員に。シカゴ万国博覧会の日本展示は日本画を中心とした伝統的なものに。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を東京美術学校が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。

  • 1895(明治28)年4月 九鬼隆一(44歳)、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会の審査総長に。

  • 1895(明治28)年6月 九鬼隆一(44歳)、枢密顧問官に。

  • 1896(明治29)年 九鬼隆一(45歳)、男爵に叙せられる。

  • 1898(明治31)年 岡倉天心(36歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。東京美術学校での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長東京美術学校校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦、西郷孤月、菱田春草、寺崎広業、横山大観、岡部覚弥、桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足(美術学校騒動)。

  • 1898(明治31)年3月29日 高嶺秀夫(45歳)、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究を通じ、伝統美術の保護を進めたフェノロサ・岡倉天心とも親交を結んでいた。岡倉天心の美術学校騒動による罷免を受け、後任として東京美術学校校長に。教授陣の復職についても一任され、騒動を収拾。

  • 1914(大正3)年 九鬼隆一(63歳)、旧・有馬郡の役所を利用。自身の収蔵品を展示する三田博物館設立。

  • 1920(大正9)年 九鬼隆一(69歳)、議定官に。

  • 1931(昭和6)年8月18日 九鬼隆一(80歳)、死去。享年80歳。

九鬼隆一

くきりゅういち

1852(嘉永5)年9月12日(旧暦・8月7日) - 1931(昭和6))8月18日

文部省官僚、文部大輔、東京職工学校(現・東京工業大学)創立支援、帝国博物館(現・国立博物館)設立・初代総長、貴族院議員、枢密顧問官、「九鬼の文部省」、美術行政に尽力

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