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東京工業大学

手島精一

てじませいいち

1850(嘉永2)年11月28日/1月11日 - 1918(大正7)年1月23日

1850(嘉永2)年11月28日/1月11日

  • 手島精一、江戸藩邸に沼津藩士・田辺四友の次男として生まれる。

  • 手島精一(12歳)、沼津藩士・手島惟敏の養子に。

  • 手島精一、沼津藩校「明親館」で洋学を学ぶ。

1870(明治3)年

  • 手島精一(19-20歳)、藩より学費を借り、渡米。建築学・物理学を学ぶつもりであったが、廃藩置県で送金がなくなる。岩倉遣外使節団の訪米時の通訳を務め、さらにイギリス随行。

  • 渡米・渡英中に得た産業技術一般に関する豊富な知識と広い視野で、工業知識普及と工業教育振興に関する論説を新聞紙上にしばしば発表。このことが、後に唯一の中等工業教育機関であった「製作学教場」の最高責任者の職に就くきっかけに。

1874(明治7)年末

  • 手島精一(24歳)、帰国。

1874(明治7)年

  • 東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。

1875(明治8)年7月

1876(明治9)年4月

  • 手島精一(26歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。

1876(明治9)年9月3日

  • 手島精一(26歳)、「製作学教場」事務取締を兼務。はじめて、工業教育にあたることに。​

1877(明治10)年5月26日

  • 東京大学大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ。中等教育相当の「職工学校」の教員および工場の技術指導者の養成機関として位置付けられる。

1877(明治10)年12月

  • 手島精一(26-27歳)、東京教育博物館(国立科学博物館の前身)館長補に。​

1878(明治11)年2月

  • 手島精一(28歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。​

1881(明治14)年5月26日

  • 手島精一(30-31歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続け、また文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵

1881(明治14)年

  • 手島精一(30-31歳)、東京教育博物館(国立科学博物館の前身)館長に。民衆の啓蒙教育に貢献。

1886(明治19)年

  • 手島精一(35-36歳)、『実業教育論』発表。

1886(明治19)年4月29日

  • 手島精一(35-36歳)、閉校の危機に直面していた「東京職工学校」の維持を図るため、「帝国大学」附属学校への移管を取りまとめる。

1890(明治23)年

  • 手島精一(39-40歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、「東京職工学校」第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった「東京職工学校」の校名を、「東京工業学校」に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数も増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。

1893(明治26)年 - 1894(明治27)年

  • 手島精一(42-44歳)、井上毅内閣で文部大臣に。実業教育法制に理論的根拠を与える。

1897(明治30)年

  • 手島精一(46-47歳)、文部省、普通学務局長に。

1898(明治31)年2月8日

1898(明治31)年

  • 手島精一(47-48歳)、文部省、実業学務局長に。

1899(明治32)年2月

1908(明治41)年

1909(明治42)年

  • 早稲田大学」、大学部に理工科・本科(機械学科・電気学科)設置。

1909(明治42)年

1916(大正5)年9月22日

  • 手島精一(66歳)、「東京高等工業学校」校長辞任。名誉教授の称号を授けられる。校長として25年の長きにわたり、産業の近代化に沿った学科設備の拡充と教育レベルの引き上げを行い、日本各地の工業学校の指導者、産業界のリーダーを数多く輩出する高等専門学校へと、発展牽引。

1916(大正5)年

  • 手島精一(65-66歳)、政界、財界、教育界等の諸名士が発起人となり、財団法人手島工業教育資金団を設立。

1918(大正7)年1月23日

  • 手島精一(68歳)、死去。享年、68歳。

手島精一
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