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ダイガクコトハジメ - 池田謙斎

池田謙斎

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池田謙斎

いけだけんさ

1841(天保12)年12月22日(旧暦・11月10日) - 1918(大正7)年4月30日

医学博士、東京医学校校長、東京大学医学部初代綜理、侍医局長官、陸軍一等軍医正、錦鶏間祗候、宮中顧問官

 

「池田謙斎」に関する書籍 [外部]

  • 1841(天保12)年12月22日(旧暦・11月10日) 池田謙斎(1歳)、越後国に入沢健蔵の次男として生まれる。幼名、圭助。

  • 1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共にオランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら12名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。

  • 1858(安政5)年1月-2月 池田謙斎(18歳)、江戸に出る。伯父・入澤貞意宅に寄宿。瀬川道元に漢学を、心形刀流伊庭軍兵衛に剣術を、竹垣龍太郎にオランダ語を学ぶ。

1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立

江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎

1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令

幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。

  • 1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。

1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足

種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎

  • 1861(万延2/文久元)年9月 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。

  • 1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。

  • 1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。

  • 1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。

  • 1863(文久3)年2月20日 池田謙斎(23歳)、竹垣龍太郎の紹介で適塾入門。後、医学所入所。緒方洪庵に学ぶ。

  • 1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。

  • 1864(文久4/元治元)年 池田謙斎(24歳)、家格上の理由より、前年に亡くなった緒方洪庵の養子を経て、幕府付医員・池田多仲の養嫡子に。

  • 1864(文久4/元治元)年 - 1868(慶応4/明治元)年 池田謙斎(24-28歳)、幕府の命にて、長崎遊学。長崎精得館にて、ボードウィンらに学ぶ。

  • 1865(元治2/慶応元)年春 松本良順(34歳)、ポンペの教えに従い、医学所の組織を整備拡充、7科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

 

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 池田謙斎(28歳)、長崎より江戸に戻る。小典医に、医業従事。

  • 池田謙斎、兵部省医師として、戊辰戦争に従軍。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1868(慶応4/明治元)年7月、横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、大病院と称す。医学所を附属とする。

  • 1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、医学所医学校に改称。翌年1月より、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。

  • 明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。

  • 1869(明治2)年6月 相良知安(34歳)、ドイツより教師を招くことを建議、 2名を招請することに。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年 池田謙斎(29歳)、大学校大助教に。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

  • 1870(明治3)年、明治新政府がドイツ医学修得を命じ、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名が国費留学。

  • 1870(明治3)年 - 1876(明治9)年 池田謙斎(30-36歳)、プロイセン王国留学を命じられる。ベルリン大学入学、ドイツ医学修得。

  • 1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。

  • 1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年、第一回国費留学生として、各分野から11名をアメリカ・ヨーロッパへ留学させる。うち、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名がドイツ医学修養のためにドイツへ。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、東校南校と同様に一旦閉鎖。学則改正後、再開。入学試験を実施、学力優秀者の再入学を許可。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1874(明治7)年5月、第一大学区医学校東京医学校に改称。本科5年からなり、主としてドイツ語を通じて西洋医学教育が行われる。加えて、修業年限2年の予科が設けられる。

  • 1874(明治7)年 長與專齋(37歳)相良知安の草案を基に、医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた『医制76ヶ条』公布。

  • 1874(明治7)年10月12日、台湾出兵により病院設備のみが蕃地事務局病院に改編、第五大学区医学校閉校。

  • 1875(明治8)年 長與專齋(38歳)、医務局が文部省から内務省に移管されると、衛生局と改称。初代局長就任。コレラなど伝染病の流行に対し、衛生工事を推進、また衛生思想の普及に尽力。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長與專齋が採用したもの。

  • 1876(明治9)年 池田謙斎(36歳)、帰国。陸軍軍医監、三等侍医、東京医学校校長に。​

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1886(明治19)年 池田謙斎(46歳)、二等侍医を兼ね侍医局長官に。

1887(明治20)年5月21日 学位令

日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。

1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、
帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。

  • 1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓

  • 1888(明治21)年 池田謙斎(48歳)、日本最初の医学博士に。

  • 1897(明治30)年 池田謙斎(57歳)、陸軍一等軍医正に。

  • 1898(明治31)年2月2日 池田謙斎(58歳)、男爵に叙される。

  • 1898(明治31)年2月14日 池田謙斎(58歳)、錦鶏間祗候に。

  • 1902(明治35)年 池田謙斎(62歳)、宮中顧問官に。

  • 1918(大正7)年4月30日 池田謙斎(78歳)、死去。享年78歳。

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