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ダイガクコトハジメ - 大隈重信

大隈重信

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大隈重信

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1838(天保9)年3月11日(旧暦・2月16日) - 1922(大正11)年1月10日

佐賀藩校・致遠館教頭、参議、大蔵卿、立憲改進党結成、外務大臣、板垣退助と憲政党を結成し日本初の政党内閣「隈板内閣」組閣、薩長派閥以外より初の内閣総理大臣に、貴族院議員、東京専門学校(現・早稲田大学)創立・早稲田大学初代総長、日本女子大学校(現・日本女子大学)設立者総代、「築地梁山泊」、「佐賀の七賢人」、「憲政の三巨人

 

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1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

  • 1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。

  • 1831(天保2)年 古賀穀堂(54歳)鍋島直正(鍋島閑叟)に意見書『済急封事』提出。藩政改革の基本を「人才の登用」「勤倹の奨励」「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」と論じる。『葉隠』を崇拝し、その他の学問を軽視する藩内の風潮を批判。

  • 1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)古賀穀堂『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。

  • 1835(天保6)年 古賀穀堂(58歳)、保守派の抵抗により藩政改革は困難を極めたが、佐賀城火災をきっかけに改革が急速に進む。医学館医学寮(後に好生館)設立設立、上級家臣師弟の佐賀藩校・弘道館出仕義務など教育改革を実行。改革半ばに病に倒れる。

  • 1838(天保9)年3月11日(旧暦・2月16日) 大隈重信(1歳)、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀県佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士・大隈信保と母・三井子の間に長男として生まれる。幼名、八太郎。大隈家は知行400石を食み、石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄。

  • 1840(天保11)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(26歳)佐賀藩校・弘道館を北堀端に移転拡充、蒙養舎設立。15歳以下の藩士子弟を教育。古賀穀堂『学政管見』で訴えた教育政策はほぼそのまま実施されるかたちに。170石だった教育予算は、1,000石に加増される。

  • 1844(天保15/弘化元)年 大隈重信(7歳)、佐賀藩校・弘道館入学。肥前藩の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発。

  • 1848(弘化5/嘉永元)年 江藤新平(15歳)、水戸藩・但馬国出石藩の同名藩校と並び「天下三弘道館」と称された、佐賀藩校・弘道館で学ぶ。内生課程は成績優秀で学費の一部を官給。父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分に、生活は困窮。外生課程に進学せず。

  • 1850(嘉永3)年 大木喬任(19歳)、副島種臣・島義勇らと共に、枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に、江藤新平大隈重信らも加わる。勤王派として藩政改革を推進、藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出される。

  • 1850(嘉永3)年 江藤新平(17歳)枝吉神陽を発起人に大木喬任・副島種臣・島義勇らが結成した義祭同盟に、大隈重信と共に参加。勤王派として藩政改革を推進。藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るも果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出される。

  • 1850(嘉永3)年 大隈重信(13歳)、佐賀藩校・弘道館教授・枝吉神陽から国学を学ぶ。枝吉神陽を発起人に、副島種臣・島団右衛門(島義勇)・大木幡六(大木喬任)・木原義四郎(木原隆忠)ら同志38名により義祭同盟を結成。第一回の祭祀を行う。当初は尊王論を拡げるための枝吉神陽の私塾であったが、尊皇思想を藩内に広めることで藩論を尊王討幕へ向かわせることを目的とする政治結社の色合いを強めていく。江藤新平らと参加。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(39歳)、江戸幕府老中・阿部正弘による意見募集にて、アメリカの武力外交に対する強固な攘夷論を唱える。品川台場建設に佐賀藩の技術を提供、阿部正弘の信頼を得る。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を熟知、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。

  • 1855(安政2)年 大隈重信(18歳)、佐賀藩校・弘道館の漢学を中心とした閉鎖的な教育に反発、南北寮の同志と共に藩校改革を訴え騒動を起こす。騒動の首謀者と目され、退学。

  • 1856(安政3)年 大隈重信(19歳)、佐賀藩校・蘭学寮に転じる。医学・兵学・砲術・築城術などを学ぶ。次いで、政治・外交・経済を学ぶ。

  • 1856(安政3)年 江藤新平(23歳)、江戸時代後期の外国船の日本近海への出没、アメリカ・ペリー艦隊やロシア・プチャーチン艦隊など来航による通商要求など時勢を受け、開国論の必要性を説いた『図海策』執筆。​

  • 1861(文久元)年 大隈重信(24歳)、鍋島直正にオランダの憲法について進講。蘭学寮を合併した佐賀藩校・弘道館教授に。蘭学を講じる。

  • 1862(文久2)年 大隈重信(25歳)、副島種臣・前島密らと共に、長崎のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズの私塾(後に東京築地で立教学校創立、現・立教大学)で英学を学ぶ。

  • 1864(文久4/元治元)年頃 大隈重信(27歳)、鍋島直正より副島種臣と共に長崎での洋学研究を命じられる。長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)にて、来日直後のフルベッキに英語を学ぶ。新約聖書とアメリカ合衆国憲法を教材に英語学習、あわせてキリスト教と近代民主主義の精神を学ぶ。うち、アメリカ合衆国憲法に記された基本的人権と議会制民主主義の思想は、民主主義思想の根幹となり、生涯にわたる決定的な影響となる。長崎遊学時代に後藤象二郎・坂本竜馬・岩崎弥太郎らと親交を持つ。

  • 大隈重信、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説くも、藩政に影響するには至らず。

  • 1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、副島種臣と共に長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で英語を学んだオランダ人宣教師フルベッキを佐賀藩に迎え入れる。長崎五島町の諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学校・致遠館にて、フルベッキを校長に。副島種臣と共に教頭格となる。学校運営と教育に熱中、宣教師フルベッキより英語を学びながら、自らも教壇に立つ。

  • 1867(慶応3)年5月(旧暦・4月) 服部一三(17歳)、河瀬真孝の長崎追従の許可をきっかけに、長崎遊学。洋学を学ぶ。後にイギリス総領事となるロバートソン、アストンに師事。長崎に設立された佐賀藩校の英学塾・致遠館にて、岩倉具視の子である岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に大隈重信やフルベッキから教えを受ける。伊藤博文や井上馨の居宅で生活、渡航の機会を窺がう。

  • 1867(慶応3)年 相良知安(32歳)、佐賀藩校・致遠館でフルベッキに学ぶ。

  • 加藤弘之、幕府が運営する英語に特化した語学伝習所・済美館や佐賀藩校・致遠館にて、フルベッキの門弟に。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、京都と長崎を往来、尊王派として活動。副島種臣と共に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画。脱藩して京都へ赴くも、捕縛。佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受ける。

  • 鍋島直正(鍋島閑叟)、幕末激動の中、政界において佐幕・尊王・公武合体派いずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒される。参預会議や小御所会議などで発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるも実らず。政治力・軍事力共に発揮できなかったことを背景に、佐賀藩内における犠牲者は最小限に。

  • 1867(慶応3)年 渋沢栄一(27歳)、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として、御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランス渡航。パリ万博を視察。ヨーロッパ各国を訪問、各地で先進的な産業・軍備を実見、社会を見て感銘を受ける。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 大久保利通(38歳)、岩倉具視ら倒幕派公家と共に、王政復古の大号令を計画、実行。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月、朝廷に政府運営のための資金調達の機関として、金穀出納所設置。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩より佐賀征伐の声が挙がる。新政府軍の勝利以降、上京した佐賀藩も新政府軍に参加。上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、アームストロング砲ほか最新式兵器を装備した軍の活躍は大きく、討幕運動には不熱心であったが薩長土肥の一角を担うことに。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伊藤博文(28歳)、外国事務総裁・東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。出世の足掛かりに。

  • 明治維新後、伊藤博文、博文と改名。長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与・外国事務局判事・大蔵少輔兼民部少輔・初代兵庫県知事(官選)・初代工部卿・宮内卿など明治新政府の様々な要職を歴任。木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信と共に改革を進めることを見込まれる。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月、明治政府が太政官制導入。金穀出納所は会計官に。

1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文

政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」

1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住

徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。

  • 1868(慶応4/明治元)年 前島密(34歳)、駿府移住。駿河藩留守居添役、本役に。間もなく駿河藩用人に。

  • 1868(慶応4)年12月16日(旧暦・11月3日) 渋沢栄一(28歳)、大政奉還、明治新政府よりマルセイユからの帰国を命じられる。静岡に謹慎していた徳川慶喜と面会、「これからはお前の道を行きなさい」と言葉を拝受。

  • 1869(明治2)年1月 渋沢栄一(29歳)、フランスで学んだ株式会社制度を実践、明治新政府からの拝借金返済を目的に、静岡で商法会所設立。

  • 1869(明治2)年 前島密(35歳)、駿河藩浜松添奉行、遠州中泉奉行に。後に、静岡藩開業方物産掛に。

  • 1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。

  • 1869(明治2)年1月 伊藤博文(27歳)、兵庫県知事時代、『国是綱目』いわゆる『兵庫論』を捧呈。「君主政体」・「兵馬の大権を朝廷に返上」・「世界万国との通交」・「国民に上下の別をなくし自在自由の権を付与」・「世界万国の学術の普及」・「国際協調・攘夷の戒め」を主張。

  • 伊藤博文、明治新政府に提出した『国是綱目』が当時極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたため、大久保利通や岩倉具視の不興を買う。大蔵省の権限を巡る論争でも、大久保利通と対立関係に。

  • 1869(明治3)年2月 板垣退助(33歳)、木戸孝允・西郷隆盛・大隈重信と共に、明治新政府の参与に。

  • 1869(明治2)年3月17日(旧暦・2月5日) 大隈重信(32歳)、外国官判事兼会計御用掛として造幣局設立を建白、貨幣制度改革を主導。3月4日、三条実美に対して通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白、了承される。

  • 1869(明治2)年5月 柳田藤吉(32歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校・北門義塾創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。​

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に

官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。​一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。

その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。

  • 1869(明治2)年8月、二官六省制により、会計官は大蔵省に。初代大蔵卿に松平慶永。

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。

  • 大隈重信、この頃、大隈邸に伊藤博文・井上馨・前島密渋沢栄一ら若手官僚が集まり、寝食を共に。近代国家の早期建設を謳い、政談を交わす。木戸孝允と結び、大久保利通らを牽制。「築地梁山泊」と称される。

  • 1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策・政治勢力で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。

  • 1869(明治2)年 前島密(35歳)、明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕。この頃、前島密に改名。

  • 1869(明治2)年10月 渋沢栄一(29歳)、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、大久保一翁に相談。上京。大隈重信に説得され、大蔵省入省。民部省改正掛を率いて改革案を企画立案、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。

  • 1869(明治2)年12月7日(旧暦・11月5日) 大隈重信(32歳)、伊藤博文と共に日本発の鉄道敷設を計画。右大臣三条実美の東京邸宅にて、岩倉具視・沢宣嘉・大隈重信・伊藤博文の4者がパークスと非公式に会談、鉄道計画を相談。事前にパークスと協議した脚本通りに進行。岩倉具視・沢宣嘉の賛同を得る。12月12日(旧暦・11月10日)、鉄道敷設が正式に廟議決定。

  • 1870(明治3)年3月 大隈重信(33歳)、貿易による外貨獲得を目的に、生糸の輸出振興を主政策として、近代生産方式による産業育成を図る。伊藤博文らと協議、官営の模範製糸場・富岡製糸場設立を廟議決定。富岡製糸場設置主任に、渋沢栄一を任命。

  • 1870(明治3)年 渋沢栄一(31歳)、大蔵少丞に。官営富岡製糸場設置主任に。

  • 1870(明治3)年5月 大隈重信(33歳)、参議に。

  • 1870(明治3)年5月 前島密(36歳)、駅逓権正兼任に。太政官に郵便制度創設を建議。郵便制度視察および鉄道建設借款契約締結のため、渡英。

  • 1870(明治3)年 大木喬任(39歳)、民部大輔に。戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈重信と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行う。後に、民部卿に就任。大隈重信の巻き返しにより、民部省は大蔵省に統合されることに。

  • 1870(明治3)年11月 - 1871(明治4)年5月 伊藤博文(30-31歳)、財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学ぶ。帰国後、日本最初の貨幣法である新貨条例を建議。制定。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1870(明治3)年 高島嘉右衛門(39歳)伊藤博文大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明。後に、大隈重信より鉄道敷設事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現・西区野毛町〜神奈川区青木町)を実行。埋め立て開発者は鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていたが、それを政府に献上、その偉業を称えて高島町と名づけられる。

  • 1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手

  • 江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。​フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。​

  • 1870(明治3)年 箕作麟祥(25歳)、制度取調局長官・江藤新平からフランス民法典(ナポレオン法典)の翻訳を命じられる。以後、長年にわたり法典の翻訳・編纂に携わっていく。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1871(明治4)年8月 前島密(37歳)、帰国。駅逓頭に。郵便制度創設に尽力、東京・京都・大阪間で官営の郵便事業開始。次いで量目制による料金均一主義の料金制度を全国で実施。日本の近代的郵便制度の基礎を確立。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大隈重信(34歳)、民部省を改めて大蔵省に合併。巨大官庁・大蔵省を誕生させる。地租改正などの改革に当たると共に、殖産興業政策を推進。

  • 1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大木喬任(40歳)、大蔵省が再び民部省を合併、民部省廃止。文部省設立に伴い、盟友・江藤新平の後任として初代文部卿に。学制施行に尽力。

  • 大木喬任、初代文部卿として学制頒布を掲げる中、予算問題で大蔵省・井上馨と対立

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1871(明治4)年 大隈重信(34歳)、岩倉遣欧使節団による大久保利通らの外遊で留守政府を任せられると、三条実美・西郷隆盛らの信任を得て勢力拡大。大蔵大輔に任じられた井上馨と対立するように。

  • 1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

  • 江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。

  • 江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。

  • 1872(明治5)年 伊藤博文(32歳)、大蔵少輔兼民部少輔として大隈重信と共に殖産興業政策を推進。鉄道建設を強力に推し進める。京浜間の鉄道は、品川 - 横浜間で仮営業を始め、新橋までの全線が開通。​

  • 1872(明治5)年 前島密(38歳)、陸海元会社(現・日本通運)設立および郵便報知新聞(現・報知新聞社)刊行に関わる。

  • 1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。

  • 1873(明治6)年5月 大隈重信(36歳)、井上馨の大蔵省辞職を受け、大蔵省事務総裁に。大蔵省の実権を握る。岩倉遣欧使節団から大久保利通が帰国後も、実権を握り続ける。

  • 1873(明治6)年5月26日 伊藤博文(33歳)岩倉遣欧使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を開始。全権委任状を取るため、大久保利通と共に一旦帰国。しかし、取得に5か月もかかったことで木戸孝允との関係も悪化。改正交渉中止。木戸孝允との不仲は、のちに和解。

1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視

・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

  • 1873(明治6)年10月24日 江藤新平(40歳)、朝鮮出兵を巡る征韓論問題より発展した政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野。

  • 1873(明治6)年10月 大木喬任(42歳)、参議兼司法卿に。士族の反乱(萩・秋月の乱)の司法処理に力を注ぐ。

  • 1873(明治6)年 伊藤博文(33歳)、明治六年政変、内治優先路線を掲げた大久保利通・岩倉具視・木戸孝允らを支持。大久保利通の信任を得る。木戸孝允と疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保利通・岩倉具視と連携する道を選ぶ。

  • 1873(明治6)年10月25日 大隈重信(36歳)、明治六年政変後、参議兼大蔵卿に。大久保利通と連名にて、財政についての意見書を太政官に提出。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動

明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。

自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。

  • 1874(明治7)年1月12日 板垣退助(38歳)、『五箇条の御誓文』の「万機公論に決すべし」を根拠に、愛国公党を結成。後藤象二郎・江藤新平らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出するも、却下される。

  • 1874(明治7)年1月12日 江藤新平(41歳)、愛国公党より政府に対し『民撰議院設立建白書』を提出。後藤象二郎、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋らと共に署名。佐賀への帰郷を決意。大隈重信板垣退助・後藤象二郎らは、帰郷が大久保利通の術策に嵌るものであることを看破、慰留の説得を試みるも、全く耳を貸さず。翌13日、船便で九州へ向かう。

  • 1874(明治7)年2月16日 江藤新平(41歳)、憂国党が武装蜂起、士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発。県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃。その約半数に損害を与え、遁走させる。

  • 1874(明治7)年2月 大久保利通(45歳)江藤新平・島義勇らが率いる不平士族による初の大規模反乱・佐賀の乱が勃発。自ら鎮台兵を率い遠征。

  • 1874(明治7)年4月4日 大隈重信(37歳)、大久保利通と共に台湾問題を担当、積極的に出兵方針を推進。台湾蕃地事務局長官に。イギリスとアメリカより抗議があり、政府として出兵を一時見合わせ。この間、西郷隆盛が独断で台湾出兵、政府として追認せざるを得ず。大久保利通らの方針に従い、早期撤兵。左大臣・島津久光より免職を要求されるも、却下。

  • 1874(明治7)年4月10日 板垣退助(38歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達・気風の養成・福祉の上進・自由の進捗を目的に政治団体・立志社結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う立志学舎創立。教員に、慶應義塾を卒業した江口高邦・深間内基・矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造・久米弘行・森春吉が駆けつける。慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、明治六年政変で板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下ると、高知の立志学舎慶応義塾門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援。国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に『国会論』と題する社説を掲載。

  • 福澤諭吉板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。

  • 1874(明治7)年4月13日 江藤新平(41歳)、征韓党の首領として、佐賀の乱の責により処刑される。享年41歳。辞世の句「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」。後に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。贈正四位。「維新の十傑」・「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。

  • 1874(明治7)年9月-10月31日 大久保利通(45歳)、台湾出兵、戦後処理のため全権弁理大臣として清に渡る。交渉の末、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印。

  • 1874(明治7)年 大隈重信(37歳)、ウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受ける。博覧会事務局設置、総裁に。副総裁に、佐野常民。

  • 1875(明治8)年5月 大久保利通(46歳)、台湾出兵の経験から、太政大臣・三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出。

  • 1875(明治8)年1月-2月 大久保利通(46歳)、参議・伊藤博文と前大蔵大輔・井上馨の斡旋により、木戸孝允・板垣退助と大阪にて秘密政治会談(大阪会議)。1873(明治6)年の政変、1874(明治7)年の民撰議院設立建白・佐賀の乱・台湾出兵などにより、大久保利通を中心とする政府が孤立、政局は危機に瀕する。この窮状を打破するため、先に下野した木戸孝允の政府復帰を望み、板垣退助も参加させる形で会談にこぎつける。元老院・大審院の創設、地方官会議の開催、参議と省の卿との分離など政体改革構想で合意。木戸孝允・板垣退助が参議に復帰。4月、参議省卿の分離問題を除く大阪会議の合意事項が実現。しかし、改革実施過程で再び対立。10月、板垣退助辞職。一連の改革により、政府は安定度を増す。

  • 1875(明治8)年 大隈重信(38歳)、大阪会議の開催を知らされず。関係が悪化していた木戸孝允の政界復帰は、自身の権力基盤を脅かすことに。この頃から、体調不良を理由に出仕せず。三条実美・岩倉具視・大久保利通は大蔵卿解任を検討するも、後任候補の伊藤博文が辞退したこと、大隈重信以上の財政家の不在を理由に慰留・続投を促す。しかし、復帰した木戸孝允・板垣退助も辞任を要求。大久保利通に庇護される形に。10月29日、島津久光・板垣退助が辞職、木戸孝允が病状悪化、自身への攻撃は消滅。

  • 1875(明治8)年10月29日 板垣退助(39歳)、大阪会議、参議に復帰するも民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞任。再び自由民権運動に身を投じる。

  • 1876(明治9)年2月 福澤諭吉(42歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤諭吉が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

  • 1878(明治11)年 大隈重信(41歳)、大久保利通が暗殺される。政府主導権を握った伊藤博文に、「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べる。

  • 1878(明治11)年 渋沢栄一(39歳)、大蔵卿・大隈重信より「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案を受け、大倉喜八郎と二人で発起人となり東京商法会議所(後に東京商業会議所、現・東京商工会議所)創立。会頭に。

  • 1878(明治11)年 大隈英麿(23歳)、帰国後、大隈重信の長女・熊子と結婚。大隈家の養嗣子に。

  • 1879(明治12)年夏 田尻稲次郎(30歳)、帰国。東京大学で経済学を講じる。後に大蔵省で部下となる阪谷芳郎・添田寿一らを教える。翌年1月、福澤諭吉の紹介を得て、大蔵省入省。大隈重信・松方正義に仕える。大蔵省任官の傍ら、専修学校創立に参加。

  • 1879(明治12)年 矢野龍渓(29歳)福澤諭吉の推薦にて、牛場卓蔵・犬養毅・尾崎行雄と共に官吏として政府に送り込まれる。統計院太政官から内務権大書記官を経て、大蔵省入省。大蔵書記官、次いで会計検査局員に。従六位に叙せられる。

  • 1880(明治13)年 前島密(46歳)内務大輔に。駅逓総官兼任。

  • 1880(明治13)年2月28日 大隈重信(43歳)、参議の各省卿兼任が解かれる。大蔵卿の兼務を解かれ、会計担当参議に。大蔵卿後任に佐野常民を任命、財政に対する影響力を保とうとするも、佐野常民が外債募集案に反対、財務掌握が終焉を迎える。この頃より、伊藤博文・井上馨から冷眼視されるように。

  • 1880(明治13)年3月 大隈重信(43歳)、会計検査院創設を建議、設立。

  • 1880(明治13)年 小野梓(29歳)、新設の会計検査院検査官就任。大隈重信との関係を深める。

  • 1880(明治13)年 福澤諭吉(46歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、慶應義塾出身者を中心に、交詢社創立。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。福澤諭吉を会長に、大隈重信・鍋島直大・後藤象二郎をはじめ華族・官僚・学者・地主・商工業者など参加。

  • 矢野龍渓、私擬憲法が議論され始めると、交詢社創設に加わる。常議員に。

  • 1880(明治13)年 矢野龍渓(30歳)小幡篤次郎らと私擬憲法を起草。『三勢論』にて憲政の樹立を説く。翌年、大隈重信によって奏上される。

  • 1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

  • 1881(明治14)年 矢野龍渓(31歳)大隈重信と計り、郵便報知新聞買収。郵便報知新聞社社長に。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、正確な統計の必要性について統計院設立を建議、設立。初代院長に。​

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

  • 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(47歳)大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。慶應義塾の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

  • 1881(明治14)年 前島密(47歳)明治十四年の政変、大隈重信の下野と共に、内務省を辞す。

  • 1881(明治14)年 矢野龍渓(31歳)明治十四年の政変、大隈重信の下野と共に、官を辞す。

  • 1881(明治14)年 小野梓(30歳)、明治十四年の政変大隈重信の下野と共に、官を辞す。

  • 1881(明治14)年 大隈英麿(26歳)、明治十四年の政変大隈重信の下野と共に、官を辞す。

  • 1881(明治14)年 福澤諭吉(47歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 1881(明治14)年 板垣退助(45歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。

  • 1882(明治15)年3月1日​ 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」

  • 1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

  • 1882(明治15)年3月 大隈重信(45歳)、10年後の国会開設に備え、小野梓と共に立憲改進党を結成。尾崎行雄・犬養毅・矢野龍渓前島密らが馳せ参じる。

  • 1882(明治15)年3月 小野梓(31歳)、大隈重信の幕下として、東京大学学生を中心とする鷗渡会を率い、立憲改進党結成に参加。

  • 1882(明治15)年3月 市島謙吉(23歳)、明治十四年の政変で下野していた大隈重信に就き、小野梓らと共に立憲改進党設立に参画。

  • 1882(明治15)年3月 前島密(48歳)大隈重信と共に、立憲改進党結成。

  • 1882(明治15)年3月 矢野龍渓(32歳)、所属していた東洋議政会を率い、立憲改進党に参加。

  • 大隈英麿留学時代に得た学識を活用、理学系の学校を興すことを大隈重信に持ち掛ける。鷗渡会同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換。

  • 1882(明治15)年4月 小野梓(31歳)、大隈重信より鷗渡会会員に学校設立の話が持ちかけられる。来る立憲政治の指導的人材養成を主たる目的として学校設立を構想。鷗渡会が創立を支援。

  • 1882(明治15)年10月21日 大隈重信(45歳)、英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として。小野梓高田早苗らと共に、東京専門学校(現・早稲田大学)創立。「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げる。北門義塾校舎を受け継ぐ。政治経済学科・法律学科・理学科・英学科設置。理学科は学生が集まらず、早々に廃止。

  • 1882(明治15)年10月21日 小野梓(31歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、東京専門学校(現・早稲田大学)創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

  • 東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。

  • 1882(明治15)年 市島謙吉(23歳)東京専門学校創立参画。『内外政党事情』発刊も、翌年廃刊。越後に戻り、『高田新聞』立ち上げ。論弁を振るう。

  • 1884(明治17)年 大隈重信(47歳)、立憲改進党の解党問題の際、河野敏鎌らと共に党を一旦離党。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

1886(明治19)年 私立法律学校特別監督条規

東京府下に所在し、特に教育水準が高く特別許認可を受けた英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)の5校について、帝国大学総長の監督下に。帝国大学特別監督学校(五大法律学校)となる。​

背景に、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、新たに私立法律学校にもその補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり。また、高等文官試験受験の特権を認める代わりに、放任されていた私立法律学校について監督・干渉することが構想された。

1887(明治20)年7月25日 文官試験試補及見習規則

官僚任用制度として、高等文官試験(高等試験)が定められる。試験は奏任官対象の高等試験と判任官対象の普通試験の二種類が設けられる。帝国大学法科大学帝国大学文科大学の卒業生に対し、無試験で高等官(勅任官・判任官)の試補となる特権が与えられる。

文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)に加えて、独逸学協会学校と東京仏学校(後に東京法学校と合併し和仏法律学校、現・法政大学)の7校が認可される。この特権を得られるか否かが、私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題となる。

  • 1887(明治20)年 大隈重信(50歳)、伯爵に叙せられる。

  • 1888(明治21)年2月 大隈重信(51歳)、外交手腕を評価する伊藤博文により、不平等条約改正のため、外務大臣を任される。

  • 1888(明治21)年 大隈重信(51歳)、黒田清隆が組閣、外務大臣留任。外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗にあう。

  • 1889(明治22)年10月18日 大隈重信(52歳)、国家主義組織玄洋社の一員・来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚切断。外務大臣辞職(大隈重信遭難事件)。

  • 1890(明治23)年 高田早苗(31歳)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現・川越市)から立候補、全国最年少で当選。立憲改進党系政党に参加、通算6期務める。

  • 1890(明治23)年 天野為之(30歳)、国会開設に合わせ行われた第1回衆議院議員総選挙にて、故郷佐賀2区より改進党の流れを汲む佐賀郷党会に属して立候補。当選。

1893(明治26)年12月 司法省指定学校

司法省が判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格を関西法律学校(現・関西大学)・日本法律学校(現・日本大学)・東京法学院(現・中央大学)・独逸学協会学校(獨協大学の源流)東京専門学校(現・早稲田大学)・明治法律学校(現・明治大学)・慶應義塾(現・慶應義塾大学)専修学校(現・専修大学)・和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与える。帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された。

九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き、帝国大学法科大学加えた法律学校を「九大法律学校」と呼ぶ。​

  • 1894(明治27)年10月 市島謙吉(35歳)、第4回衆議院議員総選挙で立憲改進党から出馬、初当選。

  • 1896(明治29)年 - 1897(明治30)年 大隈重信(59-60歳)、 第2次松方正義内閣で再び外務大臣に。松隈内閣と呼ばれる。薩摩勢と対立。翌年1897(明治30)年、辞職。

  • 1897(明治30)年 ​高田早苗(38歳)大隈重信と連立した第2次松方正義内閣で、外務省通商局長に。

  • 1897(明治30)年 - 1899(明治32)年 矢野龍渓(47-49歳)、日清戦争後、外務大臣・大隈重信の要請により、清国特命全権公使に。2年間北京に滞在、戦後における清国外債借入問題を処理。この功により、勲三等旭日中綬章を受ける。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

  • 1898(明治31)年6月30日-11月8日 大隈重信(60歳)、 板垣退助らと憲政党を結成。薩長藩閥以外より初の内閣総理大臣に。日本初の政党内閣を組閣。「隈板内閣」と呼ばれる。旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じる。また、文部大臣・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職、後任人事を巡り対立がさらに激化。後任の文部大臣文相に旧進歩党・犬養毅が就任したことに不満を持った旧自由党・星亨が、一方的に憲政党の解党を宣言。新たな憲政党を結成。加えて、アメリカのハワイ併合に対し、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招く。11月8日、内閣総辞職。旧進歩党をまとめ、憲政本党を率いることに。

  • 1898(明治31)年 板垣退助(62歳)、対立していた大隈重信の進歩党と合同、憲政党を組織。日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣に内務大臣として入閣。「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、内紛激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。

  • 1898(明治31)年 高田早苗(39歳)、第1次大隈内閣で、文部省参事官・高等学務局長・参与官兼専門学務局長に。

1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令

中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める​。

  • 1902(明治35)年9月 大隈英麿(47歳)、諸般の事情により熊子と離婚、大隈家を去る。早稲田の学園に関する職を全て辞職。南部家に復する。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1904(明治37)年4月専門学校令に基づき、早稲田大学発足。大学部に政治経済学科・法学科・文学科に加えて、商科新設。

  • 1907(明治40)年 大隈重信(70歳)、政界引退。早稲田大学が総長・学長制を敷く、初代総長に。初代学長に高田早苗

  • 大隈重信、大日本文明協会会長に。ヨーロッパ文献の日本語翻訳事業を展開。

  • 大隈重信、南極探検隊後援会長に。

  • 1908(明治41)年11月22日 大隈重信(71歳)、戸塚球場で開催の米大リーグ選抜チーム リーチ・オール・アメリカンチーム対早稲田大学野球部の国際親善試合にて、始球式。日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされる。

  • 1914(大正3)年4月16日 - 1916(大正5)年10月9日 大隈重信(77-79歳)、第1次護憲運動が興ると政界復帰。シーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受け、内閣総理大臣に。第2次大隈重信内閣を組閣。1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発、中国大陸での権益確保を求め、対独宣戦布告。

  • 1915(大正4)年 市島謙吉(56歳)大隈重信伯後援会会長に。晩年の政治活動を支える。

  • 1916(大正5)年 大隈重信(79歳)、第2次大隈重信内閣、文政一元化の下、内務省所管・伝染病研究所文部省移管を強行。北里柴三郎所長以下、部長・研究員は抗議、全員辞職(伝染病研究所移管事件)。

 

  • 1916(大正5)年7月14日 大隈重信(79歳)、侯爵に叙せられる。貴族院議員に。

  • 1917(大正6)年、早稲田騒動、第2次大隈重信内閣が瓦解、高田早苗も文部大臣を辞職。再び高田早苗早稲田大学学長に担ごうとする一派と、現学長・天野為之一派が対立。新聞で報道されると、学生や卒業生をも巻き込む大騒乱へと発展。9月4日、天野派と目された永井柳太郎など5教授と前学長秘書・橘静二が解任、学生6名が退学処分に。対して9月11日夜、天野派は早稲田劇場で高田派弾劾演説会を開催。石橋湛山・尾崎士郎らの演説の後、学生革新団による校門占拠事件にまで発展。しかし、事態を静観していた警視庁第一方面監察官正力松太郎の仲介により、革新団は2日後に大学から退去。天野為之は絶縁に近い形で、早稲田大学を離れることに。当分の間、学長を置かないことに決定。翌年1918(大正7)年9月、校規大幅改正、代表者理事・平沼淑郎が第3代学長に。

  • 1917(大正6)年 天野為之(57歳)、早稲田騒動で早稲田大学第2代学長辞任後、再び早稲田実業学校に戻り、校長に。学校運営に尽力。早稲田実業学校は早稲田大学と別の路線を歩むことに

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1920(大正9)年、早稲田大学、大学令に基づき、大学に。政治経済学部・法学部・文学部・商学部・理工学部設置。大学院設置。早稲田高等学院設置。

  • 1922(大正11)年1月10日 大隈重信(85歳)、死去。享年85歳。日比谷公園で国民葬が挙行され、約30万人の一般市民が参列。

  • 1922(大正11)年 市島謙吉(63歳)大隈重信の死に際し、「世界的デモクラシーの政治家である大隈は、国民葬の礼を持って送ることがふさわしい」と発表。日比谷公園にて国民葬を挙行、葬儀委員長を務める。

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