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ダイガクコトハジメ - 辰野金吾 - 大学の始まり物語

辰野金吾

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辰野金吾

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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「近代日本の国家の顔を造った建築家」

辰野金吾の大学“始まり”物語

 

序章 唐津の足軽、工学の門を叩く


 ペリー来航の翌年1854年、辰野金吾は肥前国唐津藩の足軽よりも低い家格の家に生まれます。封建の身分制度が崩れ、誰もが志一つで国家の頂点を目指せるようになった、明治という新しい時代の黎明期。「智識ヲ世界ニ求メ」。近代国家建設を掲げる明治新政府の熱気が、彼の運命を揺り動かします。

 人生における最初の、そして最大の転機は1873年に訪れます。日本の近代化を担う技術者を養成すべく設立された官立の教育機関、工学寮工学校(後の工部大学校)が広く生徒を募集。第一期生として入学を果たします。伊藤博文山尾庸三らが、お雇い外国人に頼らず日本人自らの手で未来を創るという強い意志のもとに創設した、まさに国家建設の最前線。身分に関わらず能力ある者に門戸を開いたこの学び舎で、辰野金吾は国家の中枢を担うエリートへの道を、自らの足で歩み始めたのでした。
 

第一章 欧州が見せた「建築家」の姿

 工学寮において、辰野金吾は英国人建築家ジョサイア・コンドルに師事。当時「造家」と呼ばれていた西洋建築の神髄を学びます。その才能はたちまち開花、1879年に彼は首席で卒業するという栄誉に輝きます。しかし、彼の学びはここで終わりませんでした。首席卒業生に与えられた国費留学生として、ジョサイア・コンドルの母国、建築の本場・イギリスへと渡ります。

 ロンドンの街並み、そして高名な建築家ウィリアム・バージェスの事務所での実務経験は、辰野金吾に技術以上のものを教えます。それは近代国家における「建築家(アーキテクト)」という職能が持つ、高い社会的地位と責任でした。建築とは、単に建物を設計することではない。都市を創り、文化を形成し、国家の品格を体現する、崇高な仕事である。このイギリスでの経験こそ、彼の生涯を貫く信念の礎となったのです。

 1884年に帰国。辰野金吾は師であるジョサイア・コンドルの後任として、母校である
工部大学校の教授に就任します。日本の近代建築教育の主導権が、お雇い外国人から日本人へと引き継がれた歴史的な瞬間となりました。彼は欧州で見た「建築家」の理想像を日本に根付かせるべく、後進の育成にその情熱を注ぎ始めたのです

第二章 日本近代建築の制度設計


 辰野金吾の真の偉大さは、彼が単なる一人の優れた建築家や教育者に留まらなかった点にあります。日本の近代建築界という「制度」そのものを設計、真の設計者となります。1886年、日本の建築家の地位向上と職能確立を目指して造家学会(現・日本建築学会)設立を主導します。これは建築家という専門職が社会的に認知され、その技術と倫理の水準を自ら高めていくための不可欠な組織でした。

 さらに辰野金吾の視線は、エリート技術者の育成だけに留まりません。1887年、帝国大学総長であった渡辺洪基らと共に、近代化の現場を支える職工たちを育成するための工手学校(現・工学院大学)設立に尽力します。日本の工業全体の発展のためには、それを支える強固な技術者の基盤が必要である。彼のこの広い視野は、日本の近代建築界全体の底上げに計り知れない貢献を果たしました。教育者として、そして組織者として、辰野金吾は日本の建築界が自立するためのあらゆる基盤を着実に設計していったのです。

 

第三章 国家の顔を造る


 教育者・組織者として建築界の礎を固めた辰野金吾は、やがて実践的な建築家としてその才能を存分に発揮する時代を迎えます。彼が手掛けた建築物は、近代国家として歩み始めた日本の「顔」を創る、国家的な事業に他なりませんでした。1896年に完成した日本銀行本店本館。彼の設計活動の集大成であり、日本の玄関口として今なお多くの人々に愛される、1914年の中央停車場(現・東京駅丸の内駅舎)。赤レンガに白い御影石の帯を特徴とする、重厚かつ華麗な「辰野式」と呼ばれる彼のスタイルは、欧米列強に伍する近代国家日本の威厳と品格を雄弁に物語っていました。

 その晩年、官学の頂点を極めた辰野金吾のもとに、大隈重信より私学の雄・早稲田大学に建築学科を創設してほしいという要請が舞い込みます。それは、彼が生涯をかけて築き上げてきた建築教育の理念を新たな土壌で開花させる挑戦でした。この要請を快諾、1912年に早稲田大学建築学科創設。創設顧問としてカリキュラムの編成から教授陣の選定まで、その創設に心血を注ぎます。帝国大学で育てた教え子たちを教授として送り込み、自らの教育思想を継承させます。それは官民の垣根を越え、日本の建築教育全体の発展を願う、彼の生涯を貫く情熱の証でした。

 後世に「日本近代建築の父」と称えられた辰野金吾は、その生涯を通じて日本の近代建築の制度そのものを創り上げました。近代日本の国家の顔として心血注いだ数多の建築物と、彼が育てた数多の人材が、近代日本そのものの礎となり今なお我々の社会に生き続けているのです。

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