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高遠藩校・進徳館
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ブリッジウォーター師範学校
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ハーバード大学
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参考情報
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参考文献・書籍
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伊沢修二
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「アメリカ教育が拓いた音楽の道」
伊沢修二の大学“始まり”物語
序章 信州からの貢進生、世界への扉
1851年、信濃国高遠藩に禄高の低い下級武士の家に生まれます。極貧生活にあった伊沢修二にエリートへの道が拓けたのは、明治という新しい時代の要請でした。明治新政府が発令、全国の藩から若く優秀な人材を選抜、身分を問わずに中央の大学で学ばせる「貢進生」制度に選ばれます。1870年、官立の最高学府である大学南校(後に東京大学)への入学を果たしました。
大学南校で西洋の学問を吸収した伊沢修二は、1872年に新設されたばかりの文部省に入省。学制公布、国民皆学を掲げる近代的な教育制度を創設しようとしていた黎明期にあって、その実務を担う若き官僚としての一歩を踏み出します。
第一章 アメリカでの衝撃、教育システムの発見
人生の転換点は、1875年に訪れます。文部省の命を受け、師範学校教育の調査のためにアメリカへ留学。そこで伊沢修二と盟友・高嶺秀夫は、当時アメリカ教育界で主流となっていたペスタロッチ主義に基づく進歩的な教育法・教育思想と出会います。それは、知識の詰め込みではなく、児童の生まれ持つ能力を観察と実物を通して引き出すという開発教授法でした。この思想が、二人の教育家としての生涯を貫く哲学となり、また明治初期における日本の初等教育の根幹となります。
この教育法を具体的な形にするため、伊沢修二は二人の偉大な師の門を叩きます。一人は、ボストン音楽学校の創立者であるルーサー・メーソン。彼が実践していた音楽教育は、まさにペスタロッチ主義を応用、簡単な音から複雑な楽曲へと子供の発達段階に応じて情操を育むものでした。そしてもう一人が、電話の発明家として知られるグラハム・ベル。彼から、科学的な理論に基づく聾唖教育法(視話術)を学びます。さらにこの地で、後に東京音楽学校設立の協力者となる、ハーバード法律学校に留学していた目賀田種太郎と出会います。
音楽・体育、そして特殊教育。それまで日本で教育カリキュラムとして顧みられることのなかった分野に科学的な光を当てる。このアメリカでの経験が、帰国後の伊沢修二の全活動の源泉となります。
第二章 「国民」を創る、唱歌と体育の導入
帰国した伊沢修二は、アメリカで吸収した進歩的な教育思想を羅針盤に、日本の初等教育を根底から設計し直すという壮大な事業に着手します。高嶺秀夫と共に、ペスタロッチ主義の「開発教授法」を日本の師範学校に導入、教員養成の近代化に努めました。そして、国民としての一体感を醸成するためには、全国民が同じ歌を歌い、同じように体を動かすことが不可欠であると考えます。1878年、日本初の体育教員養成機関である体操伝習所設立を主導します。
翌1879年、文部省内に音楽取調掛を設置。アメリカでの師・メーソンを日本に招聘、西洋の音階やハーモニーといった科学的な理論(洋才)を用いつつ、日本の風土や道徳観に合った歌詞や旋律(和魂)を組み合わせた全く新しい「国民音楽」を創り出しました。『蝶々』・『霞か雲か』といった唱歌はこのようにして生まれ、全国の小学校へと普及していきます。それは、音楽を国民の道徳教育と情操教育のための強力なツールに、国家の教育システムに組み込むという前代未聞の挑戦となります。
第三章 東京音楽学校設立
伊沢修二の情熱は、やがて専門的な音楽教育機関の創設へと結実します。1887年、音楽取調掛を発展させ、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)を設立、初代校長に就任しました。翌1888年には東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚・聴覚特別支援学校)初代校長を兼任、日本の特殊教育の近代化にも大きな足跡を残します。
しかし、すぐに新たな試練に直面します。開校から間もなく、帝国議会では国家予算の削減が叫ばれて東京音楽学校は存続の危機に立たされます。一時は高等師範学校の附属機関へと格下げされるなど、その灯火は消えかかりました。しかし、伊沢修二は諦めません。彼は文部省を一時退官して小学校教育費の国庫補助運動に身を投じるなど、在野からも教育の重要性を訴え続けます。その情熱は実を結び、1899年、東京音楽学校は再び独立を取り戻すのです。