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ダイガクコトハジメ - 坪井玄道

坪井玄道

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  • 1852(嘉永5)年1月29日(旧暦・1月9日) 坪井玄道(1歳)、下総国葛飾郡鬼越(現・千葉県市川市)に農家の次男として生まれる。幼名、仁助。

  • 1866(慶応2)年 坪井玄道(15歳)、開成所入学。英語を学ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1871(明治4)年 坪井玄道(20歳)、大学南校卒業。成績優秀につき、得業生として大学南校教官に。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1872(昭和5)年5月、文部省、学制公布に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視。「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出。認可を受け、東京府下に師範学校設立が決定。生徒募集を広く布達。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1872(明治5)年9月 師範学校創立

学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)創立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。1873(明治6)年9月、他の6大学区(愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城)にて官立師範学校設立。東京の師範学校は東京師範学校に改称。

  • 1872(明治5)年 坪井玄道(21歳)、東京師範学校教員に。近代的教授法を講義した米国人マリオン・スコットの通訳を務める

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1875(明治8)年 坪井玄道(24歳)、宮城英語学校教員に転じる。

  • 1878(明治11)年9月 坪井玄道(27歳)、アメリカから迎えた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当。体操の重要性を認識、体育学を学ぶ。

  • 1878(明治11)年10月 坪井玄道(27歳)、リーランドと共に、体操伝習所教師に。

  • 学制・教育令の中で小学校・専門学校の教育科目に「体術」・「体操」が規定されたが、具体的な教授法が確立されていなかった。東京師範学校も知育に偏重、体育教員の養成が後手にまわっていた。そこで、アメリカ・アマースト大学卒業の医学士リーランドを体育担当教師として招聘、文部省にて日本最初の体育研究・教育機関として体操伝習所を設立。

  • 1881(明治14)年 坪井玄道(30歳)、リーランドが辞任。後任として、体操伝習所主任教員に。

  • 1882(明治15)年 坪井玄道(31歳)、リーランドが指導した講義を訳出、自身の体育論を解説した『新撰体操書』出版。

  • 1885(明治18)年 坪井玄道(34歳)、体操伝習所卒業生で教員の田中盛業と共に、児童向け遊戯指導書『戸外遊戯法』出版。日本人によって著作された最初のスポーツ解説書で、端艇(ボート)競技やフットボールを紹介。

1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令

師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。

  • 1887(明治20)年 坪井玄道(36歳)、『普通体操法』出版。合理主義的軽体操 (普通体操) と自然主義的遊戯を併せた体育論を唱え、学校の必修科目に体操を加えることの必要性を論じる。

  • 1890(明治23)年 坪井玄道(39歳)、日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)教授に。

  • 1896(明治29)年 坪井玄道(45歳)、高等師範学校で創設されたフットボール部の部長に。

  • 1900(明治33)年 - 1901(明治34)年 坪井玄道(49-50歳)、黒田清輝や瀧廉太郎らと共に、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカに欧米留学。体操研究。

  • 1900(明治33)年- 1901(明治34)年 黒田清輝(35-36歳)、再び渡仏。パリ万国博覧会に『智・感・情』・『湖畔』など5作品出展。『智・感・情』が銀賞イタリア・ドイツ・ロンドン回遊。

  • 1902(明治35)年 坪井玄道(51歳)、帰国。欧米留学より卓球の用具を土産に持ち帰る。日本に卓球を紹介。

  • 1903(明治36)年 坪井玄道(52歳)、アメリカより持ち帰った『アッソシエーション・フットボール』を教え子の中村覚之助らが翻訳・出版。序文寄稿。

  • 1909(明治42)年 坪井玄道(58歳)、可児徳と共に、日本に初めてドッジボール競技を「円形デッドボール」という名で紹介。

  • 1922(大正11)年4月 坪井玄道(71歳)、東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)名誉校長に。

  • 1922(大正11)年11月2日 坪井玄道(71歳)、死去。享年71歳。日本最初の体操教師とされ、「学校体育の父」と呼ばれる。

 

坪井玄道

つぼいげんどう/かねみち

1852(嘉永5)年1月29日(旧暦・1月9日) - 1922(大正11)年11月2日

日本最初の体操教師、体操伝習所主任教員、高等師範学校教授女子高等師範学校​教授、日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)教授、「学校体育の父」

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