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ダイガクコトハジメ - 矢野二郎

矢野二郎

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  • 1845(弘化2)年2月21日(旧暦・1月15日) 矢野二郎(1歳)、江戸駒込に幕臣・富永惣五郎と母・利恵(村尾氏)の次男として生まれる。幼名は次郎吉。父・富永惣五郎は微禄の御家人ながら、江川英龍・伊東玄朴らと交わる開明的人物であり、鎖国打破と西洋兵術の導入を唱える。幼少期より、大きな思想的影響を受ける。

  • 矢野二郎(2歳)、幕臣・矢野氏の養嗣子となり改姓。そのまま実家で育つ。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

  • 1860(安政7/万延元)年 矢野二郎(16歳)、幕府訳官・森山多吉郎、西吉十郎に英語を学ぶ。尺振八・益田進(益田孝)と終生にわたる交友を結ぶ。

  • 1860(安政7/万延元)年 尺振八(22歳)、中浜万次郎(ジョン万次郎)・西吉十郎に英語を学ぶ。

  • 1861(万延2/文久元)年 矢野二郎(17歳)、水戸藩士による東禅寺事件が起こる。尺振八・益田進(益田孝)と共に、幕府の外国方訳官に抜擢され、関係各国との事後交渉に。

  • 1861(万延2/文久元)年 尺振八(23歳)、幕府出仕。西吉十郎の推薦により、通弁御用出役に。益田孝・矢野二郎と共に善福寺の米公使館詰めに。

  • 1863(文久3)年 矢野二郎(19歳)尺振八・益田孝と共に横浜在勤を願い出る。当時の税関たる運上所に配属、語学の腕を磨く。池田筑後守を団長とする第2回遣欧使節の訳官として、尺振八・益田孝と共に随行。翌年、帰国。

  • 1863(文久3)年 尺振八(25歳)、益田孝・矢野二郎と共に横浜運上所勤務。池田筑後守を団長とする横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節)に同行、渡仏。矢野二郎・益田孝と行動を共にする。

  • 1865(慶応元)年 矢野二郎(21歳)、幕府がフランス式兵制を採用した際の募兵に応じ、益田孝と共に騎兵伝習隊に入隊。指図役心得に。来日した仏軍事顧問団の下で演習参加。

  • 1867(慶応3)年1月 大鳥圭介(35歳)、騎兵伝習隊創設を進める幕府勘定奉行・小栗忠順に頼み、同じく幕臣の矢野次郎・荒井郁之助・沼間守一らと共に参加。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大鳥圭介(36歳)、鳥羽・伏見の戦い後、江戸城における評定にて、小栗忠順・水野忠徳・榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年2月28日 大鳥圭介(36歳)、陸軍の最高幹部である歩兵奉行に。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。

  • 勝海舟、上野戦争後も戊辰戦争は続いたが、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対。戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であること、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあることが理由。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月11日 大鳥圭介(36歳)、江戸開城、伝習隊を率いて江戸を脱走。

  • 1868(慶応4/明治元)年 矢野二郎(24歳)、幕府瓦解、多くの騎兵伝習隊隊員が旧幕軍として戊辰戦争に参加する中、これに与することなく官を辞し、士籍を脱する。

  • 1868(慶応4/明治元)年 矢野二郎(24歳)、横浜に翻訳所を開く。翻訳業および外国貿易取引の仲介業に従事。成功を収める。

  • 1870(明治3)年 森有礼(24歳)、横浜で翻訳業・外国貿易取引の仲介業で成功を収めていた矢野二郎を推挽。外務省に引き入れる。

  • 1870(明治3)年秋 森有礼(24歳)、少弁務使としてアメリカ赴任。外債募集・文化外交の折衝を担う。在任中、英文による『信仰自由論』・『日本の教育』刊行を試みる。

  • 1870(明治3)年11月 矢野二郎(26歳)、駐米弁務使・森有礼の推挽を受け、外務省入省。二等書記官に。渡米、ワシントンに在勤。一時駐米代理公使となる。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)岩倉遣欧使節団文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

  • 1872(明治5)年 森有礼(26歳)、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。

  • 1872(明治5)年2月3日 森有礼(26歳)日本国駐米外交官として、ラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。回答書をダビット・モルレーが執筆。11月25日、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本における宗教の自由』)発表。翌年、ダビット・モルレーの返書を『Education in Japan』(『日本の教育』)として刊行。

  • 1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。

  • 1872(明治5)年 森有礼(26歳)、英語の日本語化を提唱(国語外国語化論)。イェール大学の言語学教授ウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛て、「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送る。ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語の廃止に反対。

1873(明治6)年7月 明六社結成

アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直西周西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

  • 1873(明治6)年7月 森有礼(27歳)、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長就任。

  • 1875(明治8)年 渋沢栄一(36歳)、東京府知事・楠本正隆の要請で東京会議所の肝煎となる。同じく大倉喜八郎も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1875(明治8)年8月 森有礼(29歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉渋沢栄一らの協力を得て、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(現・一橋大学)創立。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎も創立に参加。9月24日、東京会議所より、東京府知事に開設届出。

  • 森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった​商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾・商法講習所開設。

  • 1875(明治8)年11月 森有礼(29歳)、清国公使として清国渡航を拝命。私塾・商法講習所の経営に携わることができなくなり、管理を東京会議所に移管。渋沢栄一・益田孝・福地源一郎が経営委員に。

  • 1876(明治9)年5月東京会議所解散に伴い、商法講習所の管理が東京府に移管。木挽町に移転。

  • 1876(明治9)年5月 矢野二郎(32歳)、森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟・大久保一翁らの熱心な説得を受け、商法講習所(現・一橋大学)所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、所管が変わるたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者として手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。

  • 1879(明治12)年4月 渋沢栄一(40歳)、東京府に管理が移管された商法講習所について、東京府会により経費半減が決議、存亡の危機に。有志による献金を提唱、経費を補充する。

  • 1879(明治12)年頃 島村鼎甫(50歳)、脳卒中を患い、半身不随、健忘に。麻布区広尾町33番地3000坪の屋敷を矢野二郎に売却。芝区愛宕下に移る。

  • 1881(明治14)年7月26日 渋沢栄一(42歳)、東京府会が商法講習所の経費を拒否、廃止を決議。存続の危機に。東京府知事・松田道之、農商務卿・河野敏鎌にはかり、農商務省の補助を得て存続を保つことに。

  • 1883(明治16)年11月 矢野二郎(39歳)、所轄機関長である東京府知事・芳川顕正と衝突。商法講習所校長を辞任。

  • 1884(明治17)年 矢野二郎(40歳)、商法講習所校長に復帰。

  • 1885(明治18)年8月、東京大学予備門東京大学付属より分離。文部省の管轄に。制度を改め、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく、他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関と拡張される。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)、内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

  • 1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。

  • 1886(明治19)年 矢野二郎(42歳)、共立女子職業学校(現・共立女子大学)設立発起人に。創立に関与。

  • 1893(明治26)年4月 矢野二郎(49歳)、長期在任に伴う専権化した学校運営に不満を募らせた高等商業学校生徒による排斥騒動が激化。校長を退任。

  • 1893(明治26)年 關一(21歳)高等商業学校生徒による矢野二郎校長の排斥運動の首謀者とされ、退学処分に。後に復学。

  • 矢野二郎、東京商業会議所名誉会員に。

  • 矢野二郎、日本麦酒株式会社取締役に。

  • 矢野二郎、臨時高等商工会議議員に。

  • 1904(明治37)年 矢野二郎(60歳)、貴族院議員に勅撰。

  • 1906(明治39)年6月17日 矢野二郎(62歳)、東京麻布広尾にて死去。享年62歳。贈正五位勲五等。

矢野二郎

やのじろう

1845(弘化2)年2月21日(旧暦・1月15日) - 1906(明治39)年6月17日

騎兵伝習隊、外務省、駐米代理公使、商法講習所(現・一橋大学)創立・所長、高等商業学校校長、共立女子職業学校(現・共立女子大学)設立発起人、東京商業会議所名誉会員、日本麦酒取締役、貴族院議員

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