一橋大学
矢野二郎
やのじろう
1845(弘化2)年1月15日/2月21日 - 1906(明治39)年6月17日
1845(弘化2)年1月15日/2月21日
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矢野二郎、江戸駒込に幕臣・富永惣五郎と母・利恵(村尾氏)の次男として生まれる。幼名は次郎吉。父・富永惣五郎は微禄の御家人ながら、江川英龍・伊東玄朴らと交わる開明的人物であり、鎖国打破と西洋兵術の導入を唱える。幼少期より、大きな思想的影響を受ける。
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矢野二郎(2歳)、幕臣・矢野氏の養嗣子となり改姓。そのまま実家で育つ。
1860(万延元)年
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矢野二郎(14-15歳)、幕府訳官・森山多吉郎、西吉十郎に英語を学ぶ。尺振八・益田進(益田孝)と終生にわたる交友を結ぶ。
1861(文久元)年
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矢野二郎(14-15歳)、水戸藩士による東禅寺事件が起こる。尺振八・益田進(益田孝)と共に、幕府の外国方訳官に抜擢され、関係各国との事後交渉に。
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矢野二郎(14-15歳)、尺振八・益田孝と共に横浜在勤を願い出る。当時の税関たる運上所に配属、語学の腕を磨く。
1863(文久3)年10月/11月 - 1864(元治元)年7月/8月
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矢野二郎(18-19歳)、池田筑後守を団長とする第2回遣欧使節の訳官として、尺振八・益田孝と共に随行。翌年、帰国。
1865(慶応元)年
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矢野二郎(19-20歳)、幕府がフランス式兵制を採用した際の募兵に応じ、益田孝と共に騎兵伝習隊に入隊。指図役心得に。来日した仏軍事顧問団の下で演習参加。
1868(明治元)年
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矢野二郎(22-23歳)、幕府瓦解、多くの騎兵伝習隊隊員が旧幕軍として戊辰戦争に参加する中、これに与することなく官を辞し、士籍を脱する。
1868(明治元)年
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矢野二郎(22-23歳)、横浜に翻訳所を開く。翻訳業および外国貿易取引の仲介業に従事。成功を収める。
1870(明治3)年10月/11月
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矢野二郎(24-25歳)、駐米弁務使・森有礼の推挽を受け、外務省入省。二等書記官に任官。渡米、ワシントンに在勤、一時駐米代理公使となる。
1875(明治8)年8月
1876(明治9)年5月
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矢野二郎(31歳)、森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟、大久保一翁らの熱心な説得を受け、「商法講習所」所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、移管のたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼や渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者の手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。
1879(明治12)年頃
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島村鼎甫(48-49歳)、脳卒中を患い、半身不随、健忘に。麻布区広尾町33番地3000坪の屋敷を矢野二郎に売却。芝区愛宕下に移る。
1883(明治16)年11月
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矢野二郎(38歳)、所轄機関長である東京府知事・芳川顕正と衝突。「商法講習所」校長を辞任。
1884(明治17)年
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矢野二郎(38-39歳)、「商法講習所」校長に復帰。
1886(明治19)年
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矢野二郎(40-41歳)、「共立女子職業学校(後に共立女子大学)」の設立発起人に。創立に関与。
1893(明治26)年4月
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矢野二郎(48歳)、長期在任に伴う専権化した学校運営に不満を募らせた「高等商業学校」生徒による排斥騒動が激化。校長を退任。
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矢野二郎、東京商業会議所名誉会員に就任。
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矢野二郎、日本麦酒株式会社取締役に就任。
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矢野二郎、臨時高等商工会議議員に就任。
1904(明治37)年
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矢野二郎(58-59歳)、貴族院議員(勅撰議員)に選ばれる。
1906(明治39)年6月17日
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矢野二郎(62歳)、東京麻布広尾にて死去。享年62歳。贈正五位勲五等。
