ダイガクコトハジメ - 一橋大学

一橋大学

創立  : 1875(明治8)年9月24日​

大学設立: 1920(大正9)年4月1日

創立者 : 森有礼渋沢栄一矢野二郎

​前史  :

商法講習所 → 商法講習所、東京会議所の管理に → 商法講習所、東京府の管理に → 農商務省の管理に、東京商業学校 → 東京商業学校、文部省の管理に → 高等商業学校 → 東京高等商業学校 → 東京商科大学 → 東京産業大学 → 東京商科大学 → 一橋大学

開成学校語学課程(英・独・仏)・独逸学教場・外国語学所を統合、東京外国語学校(旧外語) → ​東京外国語学校英語科が東京英語学校として独立 → 東京外国語学校(旧外語)の​英・仏・独3語科が東京大学予備門に合併、英・仏・独以外の語学科が東京商業学校に合併 → 東京外国語学校(旧外語)、廃校

高等商業学校付属外国語学校 → 高等商業学校より独立、東京外国語学校(新外語) → 東京外事専門学校 → 東京外国語大学

大蔵省銀行事務講習所 → 東京高等商業学校の付設に

高等商業学校附属商工徒弟講習所職工科 → 東京職工学校職工徒弟講習所 → 東京高等工業学校附属職工徒弟学校 → 東京高等工藝学校附属工芸実修学校 → 千葉大学付属高等学校に → 東京工業大学付属高等学校に移管

​総称  : 旧三商大

​「一橋大学」年表

1875(明治8)年8月

  • 森有礼(27-28歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉の賛同を得て、東京銀座尾張町に私塾「商法講習所」開設。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎もこれに参加。

  • 森有礼、当初は官立の商業学校設立を目指し、岩倉具視の了解を得たものの、資金不足が課題に。東京会議所会頭・渋沢栄一に援助を願い出る。駐米中に交流のあった​商業学校校長ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーを迎える予定も、渋沢栄一が難色を示し、来日が間に合わず。官立を断念し、私塾「商法講習所」開設。

1875(明治8)年9月24日

  • 森有礼(28歳)、私塾「商法講習所」開設を東京会議所より、東京府知事に届出。「一橋大学」の源流となる。

1875(明治8)年11月

  • 森有礼(28歳)、特命全公使として清国渡航を拝命。私塾「商法講習所」の経営に携わることができなくなり、管理を東京会議所に移管。渋沢栄一、益田孝、福地源一郎が経営委員に。

1876(明治9)年5月

  • 東京会議所の解散に伴い、「商法講習所」の管理が東京府に移管。木挽町に移転。

1876(明治9)年5月

  • 矢野二郎(31歳)森有礼が駐清公使として日本を離れることになったことから、東京会議所副会頭であった益田孝や勝海舟、大久保一翁らの熱心な説得を受け、「商法講習所」所長に就任。経営を引き継ぐ。折からの財政難から、移管のたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面することに。森有礼や渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借り、廃校の危機を切り抜ける。経営者の手腕を最大限に発揮、日本最初の商業学校の基礎を固める。

1879(明治12)年4月

  • 渋沢栄一(39歳)、東京府に管理が移管された「商法講習所」について、東京府会により経費半減が決議され、存亡の危機に。有志による献金を提唱、経費を補充する。

1879(明治12)年11月

1881(明治14)年7月26日

  • 渋沢栄一(41歳)、東京府会は「商法講習所」の経費を拒否、廃止を決議。東京府知事・松田道之、農商務卿・河野敏鎌にはかり、農商務省の補助を得て存続を保つことに。

1883(明治16)年11月

  • 矢野二郎(38歳)、所轄機関長である東京府知事・芳川顕正と衝突。「商法講習所」校長を辞任。

1884(明治17)年

1884(明治17)年3月

  • 管轄が農商務省に移管、「東京商業学校」に改称。

1884(明治17)年6月10日

  • 渋沢栄一(44歳)、益田孝、富田鉄之助と共に、農商務省より「東京商業学校」校務商議委員を嘱託される。

1885(明治18)年5月14日

1885(明治18)年5月14日

1885(明治18)年9月

  • 東京外国語学校」、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は「東京大学予備門」に合併、英・仏・独以外の語学科が「東京商業学校」に合併される。「東京商業学校」合併に対し、「東京外国語学校」学生は激しく反発、中退者も出現。「東京外国語学校」は廃止に。

1886(明治19)年1月

  • 「東京商業学校付属商工徒弟講習所職工科」設立。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行

帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。

1886(明治19)年3月31日

1886(明治19)年5月

1886(明治19)年5月

  • 藤尾録郎(30歳)、銀行局調査課長兼、「東京商業学校附属銀行専修科」教師。後に、「高等商業学校」教授兼大蔵属。

1887(明治20)年6月

  • 「高等商業学校附属銀行専修科」は「高等商業学校付属主計専修科」と改称。​

1887(明治20)年10月

  • 「東京商業学校」を日本初の官立「高等商業学校」に改組。

1889(明治20)年3月

  • 「高等商業学校付属主計専修科」は「高等商業学校付属主計学校」と改称。​

1890(明治23)年1月

1891(明治24)年9月

  • 「高等商業学校付属主計学校」廃止。​

1893(明治26)年4月

  • 矢野二郎(48歳)、長期在任に伴う専権化した学校運営に不満を募らせた「高等商業学校」生徒による排斥騒動が激化。校長を退任。

  • 關一、「高等商業学校」校長・矢野二郎の長期在任に伴う専権化した学校運営に不満を募らせた生徒による排斥騒動が激化。この首謀者として退学処分を受けたが、後に復学。

1896(明治29)年

1897(明治30)年4月22日

  • 第9帝国議会にて、衆議院・貴族院が外国語学校開設を建議。「高等商業学校」に「高等商業学校附属外国語学校」設置。

1897(明治30)年

  • 關一(23-24歳)、「高等商業学校」教授に。社会政策論及びその延長として都市計画論を講じる。

1897(明治30)年9月

  • 予科1年・本科3年の上に、「専攻部」(1年)を設置。大学への昇格を目指す。同じ官立高等商業学校の「神戸高等商業学校」の卒業生も受け入れる。

1899(明治32)年3月

  • 「商業教員養成所」を設置。

1899(明治32)年4月4日

1899(明治32)年9月

  • 「専攻部」が「帝国大学」と同じく年限2年に。卒業生に商業学士(後の商学士)の称号を授与。

1899(明治32)年

1900(明治33)年7月

  • 渋沢栄一(60歳)、「高等商業学校」の同窓会にて、商業大学必要論を開陳。設立について調査研究を続ける。商業大学実現のために斡旋尽力。

1900(明治33)年

1900(明治33)年

1901(明治34)年1月

  • ​欧州留学中の「高等商業学校」教授8名(石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)、ベルリンにおいて「商業大学の必要」を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への「商業学士」授与を足がかりに、大学昇格運動が進められる。

1902(明治35)年4月

  • 「高等商業学校」、「神戸高等商業学校」の設置に伴い、「東京高等商業学校」と改称。「商業教員養成所」を附設とする。

1902(明治35)年

1903(明治36)年3月27日公布

専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

1904(明治37)年

1905(明治38)年

  • 黒田清輝(38-39歳)、「東京高等商業学校」講師兼務。久米桂一郎らと共に、仏語を教える。また、お雇い外国人の子、ポール・ジャクレーに久米桂一郎と共にデッサンや油絵を教える。

1907(明治40)年

  • 「商科大学設置に関する建議案」、帝国議会を通過。大学昇格運動は最高潮に。

1908(明治41)年9月 - 1909(明治42)年5月

  • 申酉事件、大学への昇格を目指す「東京高等商業学校」に対し、第2次桂内閣および文部省は「東京帝国大学法科大学」に経済・商業2科を新設。さらに、「東京高等商業学校専攻部」を廃止、「東京帝国大学法科大学」に事実上吸収する方針を決定。大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる「東京高等商業学校」の大学昇格運動は挫折、運動を進めてきた関一佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。

1909(明治42)年

1909(明治42)年

  • 關一(35-36歳)、「東京高等商業学校専攻部」廃止計画への抗議として学生たちが総退学した申酉事件に連なり、抗議の依願退官。嘱託講師に。

1909(明治42)年

  • 佐野善作(34-35歳)、「東京高等商業学校専攻部」廃止計画への抗議として学生たちが総退学した申酉事件に連なり、抗議の依願退官。嘱託講師に。

  • 「東京高等商業学校」側は、単独での大学昇格を第一の目標とした。次善の策として、「東京帝国大学」内に「東京高等商業学校」を母体とし、商科大学を新設することも止む無しとしていた。しかし、文部省はいずれの案も認めず、「東京帝国大学法科大学」教授会側も文部省案を受け、商科を「東京高等商業学校」とは別に、独自に設置することを決議。

  • 文部省令により「東京高等商業学校専攻部」廃止。この決定に対し、「東京高等商業学校」側は激しく反発。学生も総退学の意思を表明、紛争・学生騒動となる。事態に対し、財界の大立者、「東京高等商業学校」の商議員でもあった渋沢栄一が調停に乗り出す。文部省も折れ、「東京高等商業学校専攻部」は存続が決定した。「東京高等商業学校」側の勝利により、その後の大学昇格への道が開かれることになる。

1908(明治41)年9月 - 1909(明治42)年5月

  • 渋沢栄一(68歳)文部省令により「東京高等商業学校専攻部」廃止。この決定に対し、「東京高等商業学校」側が激しく反発。学生も総退学の意思を表明、紛争・学生騒動となる(申酉事件)。事態に対し、調停に乗り出す。

  • 申酉事件後、「東京高等商業学校専攻部」の後援・同窓組織として、「如水会」発足。​

1911(明治44)年

  • 關一(36-37歳)、申酉事件で同じく抗議の依願退官をした嘱託講師の佐野善作と共に、「東京高等商業学校」教授に復職。

1911(明治44)年

1914(大正3)年

  • 佐野善作(40-41歳)、「東京高等商業学校」校長に就任。「東京高等商業学校」出身者がはじめて校長となる。初の生え抜き校長として学校の発展及び大学昇格に尽力。在任中に如水会の設立等が行われる。

1914(大正3)年

  • 關一(39-40歳)、「東京帝国大学」による「東京高等商業学校」吸収合併計画が発覚し、大学教授の世界に嫌気がさす。「京都帝国大学」戸田海市教授及び「東京高等商業学校」小山健校長の紹介・斡旋で、池上四郎市長の補佐として大阪市助役に招かれる。助役就任に関し、「栄誉ある東京高等商業学校教授を辞し、格下の大阪市助役に就任するのはどういうことか」と騒がれる。文部省渋沢栄一からも留まるよう説得を受けるも、意思は変わらず。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行

大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。

1918(大正7)年

  • 福田徳三(44-45歳)、三浦新七や左右田喜一郎らの斡旋で、「東京高等商業学校」教授に復帰。

1920(大正9)年4月1日

  • 高等教育拡充構想の下、「専攻部」を基礎に、念願であった大学昇格を果たす。「東京商科大学」に。大学学部のほか、予科、附属商学専門部、附属商業教員養成所を設置。

1920(大正9)年4月

  • 佐野善作(46歳)、「東京高等商業学校」の大学昇格に伴い、「東京商科大学」初代校長に就任。

1920(大正9)年

  • 福田徳三(46-47歳)、「東京高等商業学校」の大学昇格に伴い、「東京商科大学」教授に就任。

1923(大正12)年9月

  • 関東大震災により神田一ツ橋の校舎崩壊。大半を失う。

1929(昭和4)年

  • 佐野善作(55-56歳)、関東大震災により、神田一ツ橋の「東京商科大学」校舎が崩壊。これを契機に大学移転を検討、堤康次郎とともに神奈川県北多摩郡谷保村(現在の東京都国立市)をドイツ・ゲッティンゲンをモデルに学園都市として開発。校舎移転。

1935(昭和10)年

  • 佐野善作(61-62歳)、杉村広蔵助教授の博士論文審査において白票が投じられた「白票事件」により、学内の混乱を鎮めるため「東京商科大学」校長辞任。

1944(昭和19)年10月1日

  • 文部省の指導により、「東京産業大学」への改称を余儀なくされる。

1946(昭和21)年3月

学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。

1947(昭和22)年3月25日

  • 名称を「東京商科大学」に復する。

1949(昭和24)年5月31日公布・施行

国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。

1949(昭和24)年5月31日

  • 学制改革に伴い、新制「一橋大学」設立。「東京商科大学」を内包。商業教員養成所廃止。

1962(昭和37)年3月31日

  • 「東京商科大学」廃止。