ダイガクコトハジメ - 筑波大学

筑波大学

 

創立  : 1872(明治5)年5月

​大学設立: 1949(昭和24)年5月31日

​前史  :

弘文館 → 昌平坂学問所(昌平黌) → 昌平学校 → 大学校(大学)/大学本校 →  東京大学の源流の1つとして位置付けられる、廃校後一部が師範学校

​師範学校 → 東京師範学校 → 東京師範学校、東京師女子師範学校を統合 → 高等師範学校、高等師範学校女子師範学科を分離 → 東京高等師範学校 → 専攻科を母体に官立単科大学設立、東京文理科大学発足、東京高等師範学校を附設 → 一般教養と教職的教養を両立する構想を掲げた東京文理科大学と、教員養成の最高機関構想を掲げた東京高等師範学校・東京農業教育専門学校・東京体育専門学校を統合、東京教育大学に → 筑波大学

体育研究所 → 東京高等体育学校 → 東京体育専門学校 → 東京教育大学

体操伝習所 → 高等師範学校体育専修科 → 高等師範学校体育科 → 東京教育大学体育学部

楽善会訓盲院 → 訓盲唖院 → 東京盲唖学校 → 東京聾唖学校 → 盲唖分離が実現、東京盲学校・東京聾唖学校に → 東京教育大学の付属学校となり、東京教育大学教育学部特設教員養成部、東京教育大学附属盲学校、東京教育大学附属聾学校に

教育博物館 → 東京高等師範学校附属教育博物館 → 東京教育博物館 → 国立科学博物館

​帝国大学農科大学付設農業教員養成所 → 東京農業教育専門学校 → 東京教育大学に包括 → 筑波大学生物資源学類

​総称  : 旧二文理大

​「筑波大学」年表

1871(明治4)年7月18日/9月2日

  • 明治新政府、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。「大学」を廃止、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に、日本の学校行政を管轄する官庁として「文部省」設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたった。​​

1872(昭和5)年5月

  • 文部省、学制公布に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視。正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出。認可を受け、「師範学校」が東京府下に設立されることが決定。生徒募集が広く布達される。

1872(明治5)年8月2日/9月4日公布

学制、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

1872(明治5)年8月

1872(明治5)年9月

  • 学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に、日本初の官立教員養成機関「師範学校」創立。湯島聖堂内に、「昌平坂学問所(昌平黌)」を一部引き継ぐ形で設立される。

  • 明治以後の一時期、神田湯島の湯島聖堂内(「昌平坂学問所」跡地)に文部省、「東京師範学校」およびその付属学校、「東京女子師範学校」およびその付属学校、国立博物館が同居していた。

1873(明治6)年6月

  • 諸葛信澄(23歳)、「師範学校」初代学長に。お雇い外国人教師マリオン・スコットの指導の下、米国式の一斉教授法を実施。その内容をまとめ、『小学教師必携』刊行。

  • 「師範学校」は日本最初の小学教員養成機関として、将来全国に設立されるべき教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。

1873(明治6)年8月

1873(明治6)年8月

  • 6大学区(名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台)で官立師範学校設立。東京の「師範学校」は、「東京師範学校」と改称。師範学校の名が、教員養成機関の総称に。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障された。優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。師範学校→「高等師範学校」→「文理科大学」というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→「帝国大学」というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。

  • 師範学校の寮生活において、学校によっては上級生による下級生へのいじめ、しごきが問題となった。そのため、全寮制を廃止した学校もあった。​

1875(明治8)年8月

  • 中等教員養成のため、「中学師範学科」設置。

1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月

  • 伊沢修二(23-26歳)文部省の「師範学校」教育調査のため、神津専三郎、高嶺秀夫と共にアメリカ留学。「マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校」で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。

1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月

  • 高嶺秀夫(20-23歳)文部省の「師範学校」教育調査のため、伊沢修二、神津専三郎と共にアメリカ留学。「ニューヨーク州オスウィーゴー州立師範学校」で学ぶ。教師養成のための進歩的で革新的な学校としての名声は絶頂期にあり、オスウィーゴー校への留学は幸運であった。エドワード・シェルドン校長を通して、有名な教育者H.クリュージイ.Jr家に寄宿。ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自発性を重視する開発教育・教授法を、シェルドン校長を中心に「オスウィーゴー運動」として全米に広める。​

1876(明治9)年

1878(明治9)年4月

1878(明治9)年11月

  • 官立の師範学校は、「東京師範学校」と「東京女子師範学校」を除き、西南戦争時の財政難により廃校に追い込まれ、文部省より府県にすべて移管される。各県が小学校教員養成を目的として独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。

1879年(明治12)年3月

1879(明治12)年9月29日公布

教育令、学制に代わり公布。欧米の教育制度を模範に定められた学制は、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学校運営に要する地方の経済的な負担も大きく、これら事情に考慮する改正が成される。

1880(明治13)年3月

  • 伊沢修二(28歳)文部省音楽取調掛にて、日本内外音楽の調査をはじめ多くの事業を開始。また、「東京師範学校」及び「東京女子師範学校」の附属小学校、幼稚園生徒にて授業を行う。また、伝習人を募集、音楽の授業と教員の養成を始める。

1881(明治14)年

  • 教育令の下、師範学校教則大綱が定めらる。師範学校のレベルが初めて統一される。

1881(明治14)年

1881(明治14)年 7月6日

  • 高嶺秀夫、「東京師範学校」に動物学を開講。「東京大学」でも生物学教授モースの助手を兼任、動物の科学的な解剖実験を行う。​

1882(明治15)年

  • 嘉納治五郎(21-22歳)、下谷北稲荷町(現在の台東区東上野)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし、囲碁・将棋から段位制を取り入れ、「講道館」設立。

1882(明治15)年 - 1883(明治16)年

  • 師範教育研究のためのアメリカ留学から帰国した伊沢修二高嶺秀夫らを中心に、小学師範学科教職員講習を通じ、ペスタロッチ主義による小学校教育法の普及が行われる。生徒の自発性を重視する開発教育は、師範学校を中心に全国に広まりブームとなる。

1883(明治16)年10月

  • 嘉納治五郎(22-23歳)、起倒流皆伝。柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図。香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招き、「講道館」の有段者を対象に、古武道研究会を開き、剣術や棒術を学ばる。また望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜、大東流合気柔術・植芝盛平や神道夢想流杖術・清水隆次、香取神道流・椎名市蔵などに入門させる。

1885(明治18)年6月

  • 財政難により、全国各道府県における女子師範学校の師範学校への統合という流れの中で、「東京女子師範学校」を「東京師範学校」に統合。「東京師範学校女子部」に改組。「東京師範学校」は、全国唯一の官立師範学校となる。

1885(明治18)年12月

1885(明治18)年12月22日

  • 森有礼(38歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤内閣にて初代文部大臣に就任。「学政要領」立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」、「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 森有礼、「師範学校」を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。​​

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行

帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。​

1886(明治19)年

  • 師範学校令、師範学校は「高等師範学校」と「尋常師範学校」に分けられる。​

1886(明治19)年3月6日

  • 山川浩(37-38歳)、文部大臣森有礼の命により、現役の陸軍軍人として「高等師範学校」初代校長に。授業料値上げの増収により、良い教師を招聘、大いに校風を振起。軍人であり規律に厳しく、秩序が整然としたものに。

1886(明治19)年4月

1886(明治19)年4月29日

  • 「東京師範学校」の「高等師範学校」昇格に伴い、「体操伝習所」廃止。「高等師範学校体育専修科」となる。

1889(明治22)年7月

  • 「教育博物館(国立科学博物館の前身)」を附属施設に。

1890(明治23)年3月25日

  • 「高等師範学校女子師範学科」、「女子高等師範学校」として「高等師範学校」より分離独立。​女子師範学校・高等女学校・小学校教員および幼稚園保母などの養成にあたる。

1890(明治23)年

1890(明治23)年

  • 東京農林学校」、「帝国大学」に統合され、「帝国大学農科大学」に再編。「東京農林学校別科」を「帝国大学乙科」に。また、「農業教員養成所」を付設。

1891(明治24)年8月16日

1893(明治26)年9月20日

  • 嘉納治五郎(32歳)、「高等師範学校」校長および「高等師範学校附属中学校」校長に。通算25年務める。「軍隊化」方針を一部緩和、スポーツ活動を通じた人材育成が進められた結果、日本の学生スポーツ濫觴の場となる。特に第一次大戦後、日本のスポーツが世界に飛躍していく基礎が築かれることになる。

1893(明治26)年6月

  • 東京音楽学校」、「高等師範学校」に移管、附属学校に格下げされる。

1897(明治30)年

  • 師範教育令により、「高等師範学校」は師範学校・尋常中学校・高等女学校の教員、「女子高等師範学校」は師範学校女子部・高等女学校の教員を養成することが定められる。また、尋常師範学校は「師範学校」と改められる。

1899(明治32)年4月

1899(明治32)年8月30日

1902(明治35)年

  • 第2の官立高等師範学校を広島に設立、「高等師範学校」を「東京高等師範学校」と改称。

1908(明治41)年

  • 第2の官立女子高等師範学校を奈良に設立、「女子高等師範学校」を「東京女子高等師範学校」と改称。全国に女子中等教員を供給し続けると共に、官立学校中、女子学生の最高学府と位置付けられ、教員養成のみならず日本の女子教育に対しても多大な貢献を成す。

1911(明治44)年

  • 「東京高等師範学校」と「広島高等師範学校」の卒業生を対象に、「専攻科」設置。

1914(大正3)年6月

  • 「東京高等師範学校附属教育博物館」を分離、「東京教育博物館(国立科学博物館の前身)」として独立。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行

大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。

1918(大正7)年

  • 大学令、第一次世界大戦後の政府の高等教育拡充政策の中で多くの高等教育機関が大学への昇格を果たす中、校友会が「吾人はすでに忍ぶべきを忍び堪うべきを堪えたり。今や我らは起りて死力を尽して目的の貫徹に努むるのみ」と宣言。教授会、茗渓会と連携し、「教育尊重、精神文化の宣揚」をスローガンに掲げ、大学昇格運動が本格化。

1923(大正12)年9月

  • 関東大震災、文部省と「東京女子高等師範学校」が焼失。文部省は「東京高等師範学校」本館内に仮事務所を設け、「東京女子高等師範学校」は東西両館に仮教室を開く。

1924(大正13)年

  • 体育研究への関心の高まりを背景に、文部省直轄の研究所「体育研究所」創立。

1929(昭和4)年

  • 「東京高等師範学校専攻科」を母体に、官立単科大学を設立、「東京文理科大学」発足。政府や議会の審議で、教員養成を専門とする師範大学か、研究に重点を置く単科大学かについて論争。結局後者の意見が通り、文理学部のみを置く文理科大学として実現をみることに。「東京高等師範学校」は大学昇格ではなく、附設としてそのまま存続。

  • 「東京文理科大学」設立後間もなく、深刻化した大恐慌に伴い財政難に。文部省からの廃止論に晒される。また従来通り教員養成を主体とする教員と、大学での研究活動に重きを置く教員とが対立。また、研究重視に不満を持つ「東京高等師範学校」・茗渓会は「東京文理科大学」をフランスのエコール・ノルマルをモデルとする師範大学に改組するべく運動を起こし、対立を深める。

1932(昭和3)年12月28日

​1937(昭和12)年

1941(昭和16)年4月1日

  • 「体育研究所」、廃止。体育指導者養成機関「東京高等体育学校」に引き継がれる。

1943(昭和18)年

  • 範教育令改正、師範学校はすべて官立に移管。専門学校と同格の教育機関に昇格。新しく、青年師範学校設置。

1944(昭和19)年

  • ​「東京高等体育学校」、「東京体育専門学校」へ改称。

1946(昭和21)年3月

学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。

  • 教員養成について、連合国軍最高司令官総司令部が米国にならい、大学で行うよう指導。また、師範学校側も大学へ昇格する道が開けたことより、師範学校は消滅。各地の師範学校は、アメリカの「リベラルアーツカレッジ」などを手本に、旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部・学芸学部として再出発することに。

1948(昭和23)年

  • 「東京文理科大学」、下村寅太郎教授起草とされる文理科大学宣言を発表。大学再建の方針として「人文科学と自然科学との真の綜合大学たるの実を挙げ(中略)教養人としての教師を打出す」ことを掲げる。戦前以来の「東京文理科大学」と「東京高等師範学校」・茗渓会との対立が再燃。

1949(昭和24)年5月31日公布・施行

国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。

1949(昭和24)年5月31日

  • 学制改革により、「東京文理科大学」と「東京高等師範学校」は、教員養成を中心とする「東京農業教育専門学校」・「東京体育専門学校」と合同し、新制大学を設立することに。学内抗争がいっそう複雑化。教員養成の最高機関構想を掲げる「東京高等師範学校」・「東京農業教育専門学校」・「東京体育専門学校」により、名称を「東京教育大学」とすることに成功するが、大学運営は「東京文理科大学」の教授陣によって独占されることに。内部対立を抱えたまま多難なスタートを切ることに。

1949(昭和24)年

  • 「東京教育大学」発足と共に、「東京高等師範学校体育科」は「東京教育大学体育学部」に。「筑波大学体育専門学群」の源流となる。

  • 学制改革にて、国立の学校数を減らすことが意図される。「東京盲学校」と「東京聾唖学校」は「東京教育大学」の附属学校の1つに。「東京教育大学教育学部特設教員養成部」・「東京教育大学附属盲学校」・「東京教育大学附属聾学校」に。

1949(昭和24)年

  • 東京農業教育専門学校」、新制「東京教育大学」の発足に伴い、包括される。「筑波大学生物資源学類」の源流に。

1952(昭和27)年

  • 「東京教育大学東京高等師範学校」廃止。

1962(昭和37)年

  • 「東京教育大学東京文理科大学」廃止。

1973(昭和48)年10月

  • 1970(昭和45)年成立の筑波研究学園都市建設法および1973(昭和48)年改正の国立学校設置法により、「東京教育大学」を母体に、新構想大学として「筑波大学」設置。

1978(昭和53)年

  • 「筑波大学」発足に伴い、「東京教育大学附属盲学校」は「筑波大学附属盲学校」へ、「東京教育大学附属聾学校」は「筑波大学附属聾学校」へ。

1978(昭和53)年

  • 「東京教育大学​」、閉学。