ダイガクコトハジメ - 箕作秋坪
出身校
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関連する教育者
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赤沢寛堂
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神田孝平
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津田真道
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坪井信良
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寺島宗則
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箕作佳吉
参考情報
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参考文献・書籍
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箕作秋坪
みつくりしゅうへい
1826(文政9)年1月15日(旧暦・12月8日) - 1886(明治19)年12月3日
蕃書調所(東京大学の源流)教授手伝、三叉学舎創立、明六社設立発起人・社長、東京師範学校(現・筑波大学)摂理、東京学士会院創立
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1826(文政9)年1月15日(旧暦・12月8日) 箕作秋坪(1歳)、備中国(現・岡山県)に儒者・菊池陶愛の次男として生まれる。
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箕作秋坪、美作国津山藩士・箕作阮甫の弟子となる。
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箕作秋坪、幕府天文方で翻訳に従事。
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1850(嘉永3)年 箕作阮甫(52歳)、弟子の箕作秋坪が二女・つねと結婚。婿養子に迎える。
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1855(安政2)年3月17日(旧暦・1月29日) 菊池大麓(1歳)、江戸に蘭学者・箕作秋坪と母・つねの間に次男として生まれる。父・箕作秋坪の実家、菊池家の養嗣子に。母・つねは、蘭学者・箕作阮甫の二女。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。
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蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
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福澤諭吉、蘭学の総本山、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が江戸中津藩邸とほど近く、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らと共に出入り。終生深い信頼関係を築く。
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1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾が英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。
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1860(安政7/万延元)年 緒方洪庵(51歳)、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入、英語学習も開始。自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団
1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。
正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪・尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪・尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。
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1862(文久2)年 箕作秋坪(37歳)、文久遣欧使節随行、ヨーロッパ視察。
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1866(慶応2)年 箕作秋坪(41歳)、樺太国境交渉の使節に。ロシア派遣。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
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1868(慶応4/明治元)年 箕作秋坪(43歳)、明治新政府から招集を受けるも辞退。家督を長男・箕作奎吾に譲り、隠居。
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1868(慶応4/明治元)年 箕作秋坪(43歳)、浜町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷一角を借り、私塾・三叉学舎創立。漢学、数学に加え、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語を教える。福澤諭吉の慶應義塾と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。
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1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)、塾を慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
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1870(明治3)年 尺振八(32歳)、吉田賢輔・須藤時一郎と共に、本所相生町(現・両国4丁目)に英語塾・共立学舎創立。福澤諭吉「慶應義塾」・近藤真琴「攻玉塾」・中村正直「同人社」・箕作秋坪「三叉学舎」などと並ぶ名門英語私塾に。門下生に、島田三郎、田口卯吉ほか。
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1870(明治3)年 高嶺秀夫(17歳)、謹慎が解かれる。斗南藩(旧・会津藩)の命にて、湯島天神下にある福地源一郎の私塾・日新舎に入塾。初めて英学に触れる。以後半年おきに鍛冶橋・土佐藩邸内の沼間守一私塾、箕作秋坪の三叉学舎へ転学。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
1872(明治5)年9月 師範学校設立
学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)設立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。将来全国に設立されるべき小学校教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。
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1872(明治5)年 嘉納治五郎(13歳)、生方桂堂の助言により、洋学者・箕作秋坪が主催する三叉学舎入塾。英語・英書を学ぶ。
1873(明治6)年7月 明六社結成
アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年8月 6大学区で官立師範学校設立
名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台で官立師範学校設立。東京の師範学校は、東京師範学校に改称。師範学校は卒業後教職に就くことを前提に授業料が無料、生活も保障された。このため、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。
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1874(明治7)年3月 森有礼(28歳)、明六社にて機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たす。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散。後に、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院に至る。
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1875(明治8)年8月、東京師範学校、中等教員養成のため中学師範学科設置。
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1875(明治8)年 箕作秋坪(50歳)、東京師範学校(現・筑波大学)摂理に。
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1876(明治9)年 小幡篤次郎(34歳)、東京師範学校中学師範学科創設に際し、校務参画。
1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足
江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。
法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。
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東京大学法学部では英米人御雇教師により英米法が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校は英語・フランス語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。
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1876(明治9)年2月 福澤諭吉(42歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福澤諭吉が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。
1879(明治12)年 東京学士会院設立
文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関・東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直・西周・福澤諭吉・箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
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1879(明治12)年 箕作秋坪(54歳)、教育博物館(現・国立科学博物館)館長に。
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1879(明治12)年 箕作秋坪(54歳)、従五位に叙せられる。
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1879(明治12)年 相馬永胤(30歳)、日本に帰国。司法省出仕、代言人に。次いで判事に任じられるも辞職。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現・東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎と駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す。
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1880(明治13)年1月 相馬永胤(31歳)、渡米中に箕作秋坪の子・箕作佳吉らと共に学術クラブ・興学社を起こした縁より、箕作秋坪の協力を得る。英学私塾・三叉学舎に法律経済科を設立。講師に。
1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。
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1880(明治13)年9月14日 相馬永胤(31歳)、慶應義塾夜間法律科を独立させる形で、三叉学舎法律経済科・東京攻法館法律科の3社を統合。田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格と共に専修学校(現・専修大学)創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。明治法律学校・東京専門学校・東京法学校・英吉利法律学校と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、簿記講習所を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部や司法省法学校など極少数であった。東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対し、専修学校法律科は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学校に。多くの学生を集める。
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1885(明治18)年 箕作秋坪(60歳)、東京図書館(後に帝国図書館、現・国立国会図書館)館長に。
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1886(明治19)年12月3日 箕作秋坪(61歳)、死去。享年61歳。
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