ダイガクコトハジメ - 田尻稲次郎
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田尻稲次郎
たじりいなじろう
1850(嘉永3)年8月6日(旧暦・6月29日) - 1923(大正12)年8月15日
法学博士、大蔵官僚、大蔵省国債局長・銀行局長・主税局長、大蔵次官、会計検査院長、日本法律会社結成、専修学校(現・専修大学)創立、東京大学文学部講師、帝国大学法科大学教授、修養団初代団長、帝国学士院会員、貴族院議員、東京市長
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1850(嘉永3)年8月6日(旧暦・6月29日) 田尻稲次郎(1歳)、薩摩藩京都上屋敷に薩摩藩士京都留守居役・田尻次兵衛と母・朝乃の三男として生まれる。
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1866(慶応2)年 田尻稲次郎(17歳)、薩摩藩校・開成所英語科にて洋学を学ぶ。海軍軍人を志望。長崎遊学。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)、塾を慶応義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶応義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1869(明治2)年 田尻稲次郎(20歳)、慶応義塾入塾。
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田尻稲次郎、開成学校(後に大学南校、現・東京大学)入学、英学を学ぶ。海軍兵学寮入寮、兵学を学ぶ。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年4月 目賀田種太郎(18歳)、藩命により貢進生として上京、大学南校入学。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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田尻稲次郎、法律学を志し、鹿児島藩貢進生として大学南校に戻る。
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1870(明治3)年8月 目賀田種太郎(18歳)、大学南校の第1回国費留学生に。アメリカ留学を願い出る。
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1871(明治4)年 田尻稲次郎(22歳)、刑部省国法民法課勤学の資格を得て、渡米留学。ニューブランズウィック大学予備校入学。後に、ハートフォード高等学校に転じる。
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1872(明治5)年9月 目賀田種太郎(20歳)、渡米、ハーバード法律学校(現・ハーバード大学)入学。入学規定であった「キリスト教徒であること」に異を述べ、入学許可を得る。
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1873(明治6)年 九鬼隆一(22歳)、当時日本の教育予算のうち40%弱が海外派遣260名の留学費用に充てられていた。文部省は留学を打ち切り、その費用でお雇い外国人を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、文部省の方針に積極的に賛同。留学生実態調査と帰国説明・説得に当たるため、渡欧。井上毅・井上和郎など強い反発を受けるも、中江篤介(後に中江兆民)の理解などもあり、最終的に留学生全員の承諾を得ることができる。
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1873(明治6)年 田尻稲次郎(24歳)、留学生一斉帰朝命令の際、ハートフォード高等学校校長はじめ篤志の援助で勉学続行。翌年、イェール大学入学。経済学・財政学を学ぶ。タフト米国大統領と親交、駐米公使・吉田清成に日本の財政改革を訴える意見書提出。
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1874(明治7)年7月 目賀田種太郎(22歳)、ハーバード法律学校(現・ハーバード大学)卒業。帰国後、文部省入省。
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1874(明治7)年12月 駒井重格(23歳)、旧桑名藩主・松平定敬父子に随伴し、アメリカ留学。ニューブランズウィック大学予備門で学んだ後、ラトガース大学で経済学を学ぶ。英語のほか、フランス語にも熟達。渡米中、同じく経済学を学ぶ相馬永胤・田尻稲次郎・目賀田種太郎と親交。
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1875(明治8)年 目賀田種太郎(23歳)、文部省の留学生監督となり、再渡米。東京開成学校の生徒9人(鳩山和夫・小村寿太郎・菊池武夫・斎藤修一郎・長谷川芳之助・松井直吉・原口要・平井晴二郎・南部球吾)を引き連れる。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。
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1875(明治8)年6月 相馬永胤(26歳)、再渡米、ニューヨーク州ピークスキル学院商業課程卒業。10月、コロンビア法律学校(現・コロンビア大学ロースクール)入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿清水家当主・徳川篤守、鳩山和夫ほか、文部省の留学生監督に目賀田種太郎。
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1875(明治8)年 相馬永胤(26歳)、渡米留学中の法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う日本法律会社結成。中心的役割を担う。専修学校の土台に。1月21日の日記に「われわれが帰国後、われわれの法律上の計画を実行しようというのが、わが法律クラブの目的である」と記す。
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1875(明治8)年 目賀田種太郎(23歳)、相馬永胤・田尻稲次郎・津田純一・鳩山和夫らと親交。法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う日本法律会社結成。専修学校の土台に。
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1875(明治8)年 鳩山和夫(20歳)、第1回留学生に選ばれ、米国留学。コロンビア大学で法学士取得。イェール大学で法学博士号を取得。米国留学中、日本法律会社結成、専修学校設置構想に加わる。相馬永胤・田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格らに準ずる存在であった。
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相馬永胤、コロンビア法律学校卒業後、イェール大学大学院入学。法律学・経済学を学ぶ。また、ボードウィン教授の法律事務所で実務を身につける。経済学クラスにて、終生の同志となる田尻稲次郎と出会う。
1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足
江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。
法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。
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東京大学法学部ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)では英米人御雇教師により英米法が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派の対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校はフランス語・英語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1879(明治12)年 相馬永胤(30歳)、日本に帰国。司法省出仕、代言人に。次いで判事に任じられるも辞職。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現・東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎と駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す。
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1879(明治12)年夏 田尻稲次郎(30歳)、帰国。東京大学で経済学を講じる。後に大蔵省で部下となる阪谷芳郎・添田寿一らを教える。翌年1月、福澤諭吉の紹介を得て、大蔵省入省。大隈重信・松方正義に仕える。大蔵省任官の傍ら、専修学校創立に参加。
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1879(明治12)年 駒井重格(28歳)、帰国に際し、新調した背広を田尻稲次郎に贈り、錦を飾らせる。
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田尻稲次郎、大蔵省にて、国債・銀行・主税各局長、銀行局長、主税局長など歴任。
1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。
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1880(明治13)年9月14日 相馬永胤(31歳)、慶應義塾夜間法律科を独立させる形で、三叉学舎法律経済科・東京攻法館法律科の3社を統合。田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格と共に専修学校(現・専修大学)創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。明治法律学校・東京専門学校・東京法学校・英吉利法律学校と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、簿記講習所を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部や司法省法学校など極少数であった。東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対し、専修学校法律科は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学校に。多くの学生を集める。
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田尻稲次郎、駒井重格と共にフィリピーヌ・ルロア=ボリュー『財政学概論』を翻訳・祖述。フランス財政学を導入、近代財政制度を創設。財務行政および人材育成に貢献。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年 駒井重格(30歳)、大蔵省入省。大蔵省国債局長や参事官、農商務省参事官などの要職を歴任。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年 田尻稲次郎(37歳)、帝国大学法科大学教授に。
1887(明治20)年5月21日 学位令
日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。
1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
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1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥・田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀・高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一、「理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓。
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1888(明治21)年 田尻稲次郎(39歳)、日本最初の法学博士に。
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1891(明治24)年 田尻稲次郎(42歳)、貴族院議員に。
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1892(明治25)年 田尻稲次郎(43歳)、大蔵次官に。
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1895(明治28)年 田尻稲次郎(46歳)、男爵綬爵。
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1896(明治29)年 駒井重格(45歳)、大蔵省国債局長兼参事官に。
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1901(明治34)年 田尻稲次郎(52歳)、会計検査院長に。
1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令
中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。
予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
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1903(明治36)年11月、専修学校、専門学校令に基づき、専門学校の認可を受ける。
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1906(明治39)年2月11日 田尻稲次郎(57歳)、蓮沼門三が東京師範学校時代に始めた美化運動を起源として設立した社会教育団体・修養団、初代団長に。
1906(明治39)年 帝国学士院設立
帝国学士院規程の勅令公布。研究者に対する顕彰等の事業を通じ、日本の学術の発展を図る目的で設置。文部大臣の管理下に置かれ、勅旨により会員を任命。定数60人。日本列島だけでなく、台湾や南樺太など外地からも選任される。初代院長に、加藤弘之。
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1906(明治39)年7月 加藤弘之(71歳)、帝国学士院初代院長に。
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1906(明治39)年 田尻稲次郎(57歳)、帝国学士院会員に。
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1906(明治39)年9月、専修学校、学則改正、大学部経済科・法律科・商科を設置。修業年限3年。あわせて、専門部・高等専攻部、専門学校令による昼間の高等予科設置。
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1907(明治40)年 田尻稲次郎(58歳)、子爵綬爵。
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1918(大正7)年 田尻稲次郎(69歳)、貴族院勅選議員に。
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1918(大正7)年 田尻稲次郎(69歳)、東京市長に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
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1922(大正11)年5月、専修大学、大学令に基づき、大学昇格。専門学校令による専門部を併設。
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1922(大正11)年10月30日 相馬永胤(73歳)、文部省学制頒布50年記念祝典にて、専修学校創立メンバーの田尻稲次郎と共に、教育功労者として表彰される。この日を専修大学の大学記念日とし、今日に至る。
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1923(大正12)年8月15日 田尻稲次郎(74歳)、死去。享年74歳。
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