ダイガクコトハジメ - 濱尾新
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濱尾新
はまおあらた
1849(嘉永2)年5月12日(旧暦・4月20日) - 1925(大正14)年9月25日
文部省官僚・教育行政家、政治家、藍謝堂(高島学校)教師、南校中監事、東京開成学校校長心得、東京大学法・理・文三学部綜理補、東京職工学校(現・東京工業大学)創立支援、東京美術学校校長事務取扱、帝国大学第3代総長、東京帝国大学総長、貴族院議員、第2次松方正義内閣文部大臣、枢密顧問官、東宮大夫、枢密院議長、「属吏の大成した巨人」
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1849(嘉永2)年5月12日(旧暦・4月20日) 濱尾新(1歳)、豊岡(現・兵庫県豊岡市)に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれる。幼名、貞次郎。
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1853(嘉永6)年 濱尾新(5歳)、父・浜尾嘉兵治を亡くす。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
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1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)、塾を慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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何礼之、大阪中ノ島・高松藩邸にて英語私塾を拓く。堂島川に架かる玉江橋に因んで瓊江塾と称す。濱尾新・奥山政敬・長谷川芳之助らを育てる。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。
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東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所・漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。
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1868(慶応4/明治元)年12月 加藤弘之(33歳)、明治新政府に出仕、政体律令取調御用掛に。新しい国の政体について研究・提言。『立憲政体略』刊行。
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1869(明治2)年 濱尾新(21歳)、藩費遊学制度により、芝新銭座の慶應義塾入塾。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年 高島嘉右衛門(40歳)、スイス人カドレー・アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授。横浜伊勢山下と入船町に語学私塾・藍謝堂(高島学校)開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1,000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに慶応義塾の海老名晋・荘田平五郎・小幡甚三郎・濱尾新・日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心・寺内正毅・本野一郎・宮部金吾・星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
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1872(明治5)年 濱尾新(24歳)、文部省入省。南校中監事に。後に東京職工学校(現・東京工業大学)設立を共にする手島精一が部下に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年 辻新次(31歳)、学制公布後、第一大学区大学設立掛に。南校(現・東京大学)校長、東京外国語学校(現・東京外国語大学)校長事務取扱など兼任。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年5月 伴正順(31歳)、文部省六等出仕。開成学校(現・東京大学)校長に。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
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1873(明治6)年 - 1874(明治7)年 濱尾新(25-26歳)、アメリカ留学。オークランドの兵学校に学ぶ。
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1874(明治7)年3月 高島嘉右衛門(43歳)、藍謝堂(高島学校)焼失。学生は、慶応義塾・開成学校へ転籍。
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1874(明治7)年 濱尾新(26歳)、アメリカ留学より帰国。東京開成学校校長心得に。
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1874(明治7)年、東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、東京開成学校内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立。後の東京職工学校(現・東京工業大学)の前身に。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 濱尾新(29歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。同郷の綜理・加藤弘之を補佐。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会に派遣される。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、特に中等程度の工業教育の必要性を痛感。
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1878(明治11)年10月 手島精一(29歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。
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1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会で渡仏中、西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけで、美術分野に関心を持つ。後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。
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1880(明治13)年11月 九鬼隆一(29歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌が教育行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年5月26日 九鬼隆一(30歳)、中等工業技術教育の必要性を主張し続ける手島精一に、工業教育推進論者として同調。専門学務局長・濵尾新と共に、官立の東京職工学校(現・東京工業大学)創立を支援。
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1881(明治14)年5月26日 手島精一(32歳)、東京開成学校製作学教場の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続ける。文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。官立の東京職工学校(現・東京工業大学)創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、東京大学理学部を卒業した日本人教員が教鞭をとる。機械工芸科・化学工芸科からなる本科および予科設立。先行の東京開成学校製作学教場・工部大学校・東京大学大学理学部の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵。
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1881(明治14)年9月27日 正木退蔵(36歳)、九鬼隆一により日本に呼び戻される。創立間もない東京職工学校の初代校長に。学則改正・煉瓦校舎建設・学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場設立。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶應義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
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1881(明治14)年 九鬼隆一(30歳)、明治十四年の政変に組せず。文部省に残り、師である福澤諭吉の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となる。このため、福澤諭吉との関係が極度に緊張、後に和解。
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1885(明治18)年 濱尾新(37歳)、学術制度取調を目的に、ヨーロッパ各国へ。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年-1887(明治20)年 岡倉天心(24-25歳)、文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的に欧米調査旅行。東京美術学校を構想。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。
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1887(明治20)年10月 岡倉天心(25歳)、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、東京美術学校創立を準備。文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合。
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1889(明治22)年2月、東京美術学校開校。日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする。教官に黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲ほか。修業年限2年の普通科と3年の専修科から構成。後に西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も加わる。
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1890(明治23)年、農商務省主管の東京農林学校、帝国大学に統合。帝国大学農科大学に再編。東京農林学校別科を帝国大学乙科に。農業教員養成のため、農業教員養成所付設。初代学長に、松井直吉。帝国大学側は一時この合併に猛反発。大学評議会の評議官が全員辞表を提出するという事態に。理由として、大学評議会への諮問がなかったこと、東京農林学校の学科水準が帝国大学の分科大学の程度にないという判断がなされたことなど。
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1890(明治23)年 松井直吉(34歳)、帝国大学農科大学設立。初代農科大学長に。以後、死去まで長年ににわたり農科大学長を務める。教授兼務、化学を教える。東京化学会(現・日本化学会)会長を務めるなど、日本の化学の中心となる。
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1890(明治23)年9月 濱尾新(42歳)、貴族院議員に。
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1897(明治30)年11月6日- 1898(明治31)年1月12日 濱尾新(49-50歳)、第2次松方正義内閣において、文部大臣に。内閣総辞職にて、辞職。
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濱尾新、高等教育会議議長に。
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1903(明治36)年6月 - 1906(明治39)年1月、日露戦争開戦直前、東京帝国大学教授の戸水寛人・富井政章・小野塚喜平次・高橋作衛・金井延・寺尾亨、学習院教授の中村進午の7人が、内閣総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村壽太郎に意見書提出(七博士意見書)。桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「満州・朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、対露武力強硬路線の選択を迫った。主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかった。日露戦争末期、戸水寛人は賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。文部大臣・久保田譲は文官分限令を適用、休職処分とする。ところが、戸水寛人は金井延・寺尾亨と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出。文部大臣・久保田譲は、東京帝国大学総長・山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言。このため、1906(明治39)年1月、戸水寛人の復帰が認めらた(戸水事件)。
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1905(明治38)年12月 濱尾新(57歳)、東京帝国大学総長に再任。戸水事件対処などにあたる。
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1907(明治40)年 濱尾新(59歳)、日露戦争の功により、男爵に叙せられる。
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濱尾新、枢密顧問官、東宮大夫を歴任。
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1912(明治45/大正元)年 濱尾新(64歳)、子爵に叙せられる。
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1924(大正13)年 濱尾新(76歳)、枢密院議長に就任。
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1925(大正14)年 濱尾新(77歳)、内大臣・平田東助が病気辞職した際、同日牧野伸顕の就任まで、臨時代理を務める。
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