ダイガクコトハジメ - 東京大学医学部
関連する学校・組織(前史)
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第一大学区医学校
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東京医学校
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帝国大学医科大学
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東京帝国大学医科大学
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東京帝国大学附置伝染病研究所
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
参考情報
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『学制百年史』文部科学省ホームページ [外部]
参考文献・書籍
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『学制百年史』 文部省編 帝国地方行政学会出版 (1972.10) [外部]
学校略歴
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1870(明治3)年、明治新政府がドイツ医学修得を命じ、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名が国費留学
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1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校・大学東校が独立、新たに文部省設立
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校は文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた
← 開成所・大学南校
→ 東京大学
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1871(明治4)年8月、大学東校、ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる、日本の医学教育制度構築の全権を託す
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校は文部省管轄に、東校に改称、一旦閉鎖、学則改正後に再開、入学試験を通過した学力優秀者だけの再入学を許可
← 医学所・大学東校
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1875(明治8)年 -、国家試験による医師の開業許可制が採用され、医術開業試験開始、医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる、医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる
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1877(明治10)年4月12日、東京大学創立、東京開成学校本科と東京医学校が統合、法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生、しかし実態は1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に、第一高等中学校・第一高等学校)設立、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に
→ 東京大学予備門
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1881(明治14)年4月12日、東京大学機構改革、東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学誕生、単一の総理を新設、東京大学初代総理に加藤弘之
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1882(明治15)年6月、東京大学医学部予科を東京大学予備門に合併、東京大学・東京大学医学部各学部に入学する全生徒に対する基礎教育・語学教育機関に
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1885(明治18)年12月22日、森有礼、第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に、『学政要領』立案、国家至上主義の教育観による「国体教育主義」を基本方針に近代日本の学校諸制度を整備、その後の教育行政に引き継がれていく
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1886(明治19)年3月、帝国大学令により東京大学は帝国大学に、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関と位置づけられる、5つの分科大学から構成、帝国大学医科大学発足
→ 第一高等中学校
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1887(明治20)年9月、高等中学校令施行に伴い、県立千葉医学校は官立に移管、第一高等中学校医学部に、各地で誘致運動が繰り広げられるも熱心な誘致活動により千葉への設置が決定
→ 千葉大学医学部
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1897(明治30)年6月、東京帝国大学に改称、東京帝国大学医科大学に
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1899(明治32)年3月、北里柴三郎、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念により、研究所を内務省管轄に、国立伝染病研究所に
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1914(大正3)年10月、伝研騒動、政府が一切の相談なく、国立伝染病研究所を内務省より文部省に移管、東京帝国大学医科大学の下部組織にすると発表、これに反発した北里柴三郎・北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出
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1916(大正5)年、国立伝染病研究所が東京帝国大学附置伝染病研究所に
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1919(大正8)年4月1日、東京帝国大学、第二次帝国大学令により学部制へ、法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部に加えて経済学部を新設
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1949(昭和24)年5月、学制改革により、新制・東京大学発足、法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部・経済学部に加えて教養学部・教育学部を新設、旧制東京大学・旧制東京大学附属医学専門部・旧制第一高等学校・旧制東京高等学校高等科を包括
学校総称
学校年表
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1870(明治3)年、明治新政府がドイツ医学修得を命じ、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名が国費留学。
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1870(明治3)年 - 1876(明治9)年 池田謙斎(30-36歳)、プロイセン王国留学を命じられる。ベルリン大学入学、ドイツ医学修得。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年、第一回国費留学生として、各分野から11名をアメリカ・ヨーロッパへ留学させる。うち、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名がドイツ医学修養のためにドイツへ。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
← 開成所・大学南校
→ 東京大学
← 医学所・大学東校
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1871(明治4)年11月、種痘館を廃止。東校に種痘局開設。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 松本良順(40歳)、山縣有朋などの薦めで兵部省に出仕。
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1872(明治5)年1月11日 佐藤尚中(舜海)(46歳)、東校学事主務兼院長に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、東校は中学校へと改組。第一大学区医学校に。
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1872(明治5)年9月 九鬼隆一(21歳)、第一大学区医学校事務主任に。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、長崎医学校は中学校へと改組。第六大学区医学校(後に第五大学区医学校)に。
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1872(明治5)年10月2日、「医学教育を第一大学区医学校に一元化・集中させる」という文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が突然の廃校に。日本の医学教育について、ドイツ医学への統一が図られる。
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1872(明治5)年10月8日 相良知安(37歳)、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)初代校長に。『医制略則』起案。今日まで続く医学制度の基礎に。
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1873(明治6)年 緒方惟準(31歳)、文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が廃校に。現場を離れ、陸軍軍医に。大阪鎮台病院長、軍医学校長、軍医本部次長を歴任。陸軍軍医部創設に尽力。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月、学制二編追加に伴い、第一大学区医学校は専門学校へと改組。
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1873(明治6)年6月、製薬学教場を置く。
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1873(明治6)年 佐藤尚中(舜海)(47歳)、ドイツ人教師が東校(現・東京大学医学部)の全権を握り、医学生の大半を退学させ、外来患者の数も限定する事態に。患者も医学生も居場所を失ってしまったことに心を痛める。佐倉藩に戻る予定を取りやめ、下谷練塀町9番地(現・秋葉原)に順天堂設立。博愛舎の患者が転院。医学生の教育を行う。
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1873(明治6)年 松山棟庵(35歳)、福澤諭吉と共に、当時蘭医が主流だった中で英医を学ぶことができる医学校の設立を画策。慶應義塾医学所創立、校長に。慶應義塾大学医学部の源流になると共に、東京慈恵会医科大学の源流ともなる。
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1873(明治6)年 松本良順(42歳)、山縣有朋の要請により、陸軍軍医部を設立。陸軍初代軍医総監に。
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1874(明治7)年5月、第一大学区医学校を東京医学校に改称。本科5年からなり、主としてドイツ語を通じて西洋医学教育が行われる。加えて、修業年限2年の予科が設けられる。
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1874(明治7)年 三宅秀(27歳)、東京医学校校長心得に。
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1874(明治7)年10月12日、台湾出兵により病院設備のみが蕃地事務局病院に改編、第五大学区医学校閉校。
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1875(明治8)年 長與專齋(38歳)、医務局が文部省から内務省に移管されると、衛生局と改称。初代局長就任。コレラなど伝染病の流行に対し、衛生工事を推進、また衛生思想の普及に尽力。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長與專齋が採用したもの。
1875(明治8)年 - 1916(大正5)年 医術開業試験
1874(明治7)年の医制公布により、国家試験による医師の開業許可制が採用される。新規開業の医師に西洋医学の知識が必須となる。医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる。
医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる。これら予備校より、後に私立医学専門学校・私立医科大学が誕生する。
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1875(明治8)年 佐藤尚中(舜海)(49歳)、盛況のため手狭となり、湯島に順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)設立。初代院長に。
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1875(明治8)年 北里柴三郎(23歳)、東京医学校入学。在学中、よく教授の論文に口を出していたため、大学側と仲が悪く、何度も留年。
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1876(明治9)年11月、本郷本富士町の加賀藩上屋敷跡地に東京医学校校舎病院が竣工。移転。
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1876(明治9)年 池田謙斎(36歳)、帰国。陸軍軍医監、三等侍医、東京医学校校長に。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 濱尾新(29歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。同郷の綜理・加藤弘之を補佐。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1877(明治10)年4月13日 池田謙斎(37歳)、東京大学医学部綜理に。
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1877(明治10)年4月13日 長與專齋(40歳)、東京大学医学部綜理心得に。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
→ 東京大学予備門
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1879(明治12)年3月5日 石黒忠悳(35歳)、東京大学医学部綜理心得に。
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1881(明治14)年1月 高木兼寛(33歳)、日本医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色、学理第一・研究優先になっている現状を憂う。前年に廃止した英医学校・慶應義塾医学所創立者である松山棟庵らと共に、臨床を第一とする英医学・患者本位の医療を広めるための医学団体・成医会創立。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年5月1日 松山棟庵(43歳)、高木兼寛と共に、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。
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1881(明治14)年5月1日 高木兼寛(33歳)、松山棟庵が設立した東京医学会社の2階大広間にて、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。夜間医学塾の形式で、講師の多くは海軍軍医団が務めた。
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1881(明治14)年7月14日 三宅秀(34歳)、東京大学医学部医学部長に。
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1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。
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森有礼、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。
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1883(明治16)年 北里柴三郎(31歳)、医学士に。東京大学医学部在学中、「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意。『医道論』を書く。卒業後、長與專齋が局長を務める、内務省衛生局に入省。
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1884(明治17)年3月 森有礼(36-37歳)、伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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1885(明治18)年9月、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併。英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される。東京外国語学校(旧外語)は廃止に。東京商業学校への合併に対し、東京外国語学校学生が激しく反発、中退者も出現。
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1885(明治18)年 北里柴三郎(33歳)、熊本医学校の同期生、東京大学医学部教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ・ベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績を上げる。
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1886(明治19)年 森有礼(40歳)、学位令を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年3月 三宅秀(39歳)、帝国大学医科大学初代医科大学長に。
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1886(明治19)年3月、大学院設置。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
→ 第一高等中学校
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1886(明治19)年 北島多一(17歳)、帝国大学医科大学入学。一番の成績で合格、授業料免除の特待生に。ベルツより内科・病理学・精神医学を学ぶ。スクリバより外科・皮膚科・精神医学・眼科・婦人・婦人科を学ぶ。
1887(明治20)年5月21日 学位令
日本の学位制度について、統一的に規定した勅令。5箇条からなる。
1.学位を、博士及び大博士の2等とする。
2.博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする。
3.博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣において授与する。
大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授ける。
これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議会の議を経てこれを授ける。
4.大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける。
5.本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
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1887(明治20)年9月、高等中学校令施行に伴い、県立千葉医学校は官立に移管。第一高等中学校医学部に。第一高等中学校への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、県立千葉医学校・長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定。
→ 千葉大学医学部
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1887(明治20)年 石黒忠悳(43歳)、ベルリン訪問、ベルリン大学に留学中の北里柴三郎について、ペッテンコーファー研究室に移るように指示。しかし、教師・コッホに面会、期待の大きさを目のあたりに。異動命令を撤回。
1888(明治21)年5月7日、学位令に基づき、25名に初めて博士の学位が授与される。「法学博士」箕作麟祥・田尻稲次郎・菊池武夫・穂積陳重・鳩山和夫、「医学博士」池田謙斎・橋本綱常・三宅秀・高木兼寛・大沢謙二、「工学博士」松本荘一郎・原口要・古市公威・長谷川芳之助・志田林三郎、「文学博士」小中村清矩・重野安繹・加藤弘之・島田重礼・外山正一、「理学博士」伊藤圭介・長井長義・矢田部良吉・山川健次郎・菊池大麓。
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1888(明治21)年 池田謙斎(48歳)、日本で初となる医学博士号を受ける。
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1888(明治21)年 三宅秀(41歳)、日本で初となる医学博士号を受ける。
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1889(明治22)年 北里柴三郎(37歳)、世界で初めて、破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。
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1890(明治23)年 石黒忠悳(46歳)、陸軍軍医総監に昇進。陸軍軍医の人事権を握る。陸軍省医務局長に就任。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、破傷風菌抗毒素を発見、世界の医学界を驚嘆させる。さらに、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な血清療法を開発。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。
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1891(明治24)年8月 北里柴三郎(39歳)、医学博士の学位を受ける。
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1892(明治25)年 北里柴三郎(40歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする帝国大学医科大学教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈したことで、母校・帝国大学医科大学と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
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1892(明治25)年 福澤諭吉(58歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮。私財投じ、森村市左衛門・長與專齋らと共に私立伝染病研究所および結核専門病院・土筆ヶ岡養生園設立を支援。
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1892(明治25)年10月 北里柴三郎(40歳)、福澤諭吉・森村市左衛門・長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立伝染病研究所設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
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1892(明治25)年11月 北里柴三郎(40歳)、私立伝染病研究所が長與專齋が副会頭を務める大日本私立衛生会附属に。年間3,600万円の財政支援を受ける。
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1893(明治26)年 北里柴三郎(41歳)、福澤諭吉より私有地の提供を受け、白金三光町に日本で最初の結核専門病院・土筆ケ岡養生園設立。結核予防と治療に尽力。
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1894(明治27)年 - 1895(明治28)年 石黒忠悳(50-51歳)、日清戦争、医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官に。
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1894(明治27)年2月 北里柴三郎(42歳)、私立伝染病研究所、芝区愛宕町に新築移転。ジフテリア抗血清を製造、これによる治療を開始。
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1897(明治30)年6月、東京帝国大学医科大学に。
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1897(明治30)年 石黒忠悳(53歳)、日清戦争における脚気惨害の責任を取るかたちで、医務局長を辞任。
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1897(明治30)年 - 1899(明治32) 三輪徳寛(39-41歳)、官費留学生が帝国大学教授だけでなく、高等中学校医学部教授にも認められることに。第一回官費留学生として、木村孝蔵・田代正と共にドイツ留学。留学先にて、呉秀三・佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成らと行動を共にすることも。
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1899(明治32)年3月 北里柴三郎(47歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念により、研究所を内務省管轄に。国立伝染病研究所となる。所長に。
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1906(明治39)年 北里柴三郎(54歳)、国立伝染病研究所、港区白金台に新築移転。
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1914(大正3)年10月 北里柴三郎(62歳)、政府が一切の相談なく、国立伝染病研究所を内務省より文部省に移管、東京帝国大学医科大学の下部組織にすると発表。東京帝国大学医科大学学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
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1914(大正3)年11月5日 北里柴三郎(62歳)、私財を投じ、新たに北里研究所設立。初代所長に。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
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1916(大正5)年、国立伝染病研究所が東京帝国大学附置伝染病研究所に。
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1917(大正6)年4月 北里柴三郎(65歳)、福澤諭吉没後、「余は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧をこうむったことは門下生以上である」と長年の多大なる恩義に報いるため慶應義塾大学部医学科創立に尽力。初代医学科学長に。ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。
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1917(大正6)年8月、文部省医師開業試験附属永楽病院を移管、東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
1919(大正8)年2月7日公布・4月1日施行 第二次帝国大学令
帝国大学令を全部改正。分科大学制を廃止、学部制に。帝国大学官制により、総長・学部長・教授・助教授その他必要な職員を設置。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法
文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。
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1949(昭和24)年5月、学制改革により、新制・東京大学発足。法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部・経済学部に加えて、教養学部・教育学部を新設。旧制東京大学・旧制東京大学附属医学専門部・旧制第一高等学校・旧制東京高等学校高等科を包括。