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ダイガクコトハジメ - 小泉信吉

小泉信吉

 

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小泉信吉

こいずみのぶきち

1849(嘉永2)年2月25日(旧暦・2月3日) - 1894(明治27)年12月8日

慶應義塾教師・塾長、大阪舎密学校教授、大学南校教授、大蔵官僚、横浜正金銀行副頭取・本店支配人、交詢社設立発起人、日本銀行取締役

「小泉信吉」に関する書籍 [外部]

  • 1849(嘉永2)年2月25日(旧暦・2月3日) 小泉信吉(1歳)、 紀伊国名草郡宮村(現・和歌山市)に紀伊国紀州藩士紀州徳川家の侍医で禄高250石の小泉文庫の子として生まれる。

1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令

新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1857(安政4)年 福澤諭吉(23歳)、最年少で適塾(適々斎塾)第10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。

  • 1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。

  • 1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。

  • 1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾英学塾に転身する契機に。

  • 福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。

1860(安政7)年 万延元年遣米使節

1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。​

  • 1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカより帰国後、江戸鉄炮洲中津藩邸内にて、講義再開。しかし講義内容は従来のオランダ語ではなく、専ら英語に。蘭学塾から英学塾へと方針転換。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団

1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。

正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中・福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。

  • 1863(文久3)年 福澤諭吉(29歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。

  • 1863(文久3)年7月 福澤諭吉(29歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案。

  • 1864(元治元)年10月 福澤諭吉(30歳)、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕。臨時御雇いではなく、幕府直参として150俵・15両を受け、御目見以上となり、御旗本に。

  • 1866(慶応2)年 小泉信吉(18歳)、福澤諭吉が開いて間もなかった 江戸鉄砲洲中津藩の英学塾入塾。洋学を学ぶ。紀州藩からの藩費留学生は多く居たが、特に神童と呼ばれる。

  • 1866(慶応2)年 - 1870(明治3) 福澤諭吉(33-37歳)、1860(安政7/万延元)年に万延元年遣米使節随行員としてアメリカに渡って以降、ヨーロッパの状況を日本に紹介。『西洋事情』刊行。初編3冊・外編3冊・2編4冊の10冊。その内容は政治・税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。

  • 1867(慶応3)年2月27日(旧暦・1月23日) 福澤諭吉(33歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。

  • 福澤諭吉、帰国後、現地で使節主席・小野友五郎と揉めたことで、しばらく謹慎に。中島三郎助の働きかけにより、謹慎はすぐに解ける。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1867(慶応3)年12月25日 福澤諭吉(33歳)建設用地として、芝新銭座の久留米藩有馬家中屋敷を355両で購入。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
 

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 小泉信吉、戊辰戦争、多くの紀州藩士が帰郷する中、福澤諭吉が紀州藩の執政に頼み、江戸に留まることに。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4)年3月 福澤諭吉(34歳)を江戸鉄炮洲中津屋敷より芝新銭座へ移転。

1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文

政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」

  • 1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

  • 1868(慶応4/明治元)年 箕作秋坪(43歳)、浜町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷一角を借り、私塾・三叉学舎創立。漢学、数学に加え、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語を教える。福沢諭吉慶應義塾と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。

  • 1868(慶応4)年7月4日(旧暦・5月15日) 福澤諭吉(34歳)、上野戦争、明治新政府軍と彰義隊の合戦が起こる中、慶應義塾でF・ウェイランド『経済学原論』の講義を続ける。「日本国中苟も書を読んで居る処は唯慶應義塾ばかり」。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

  • 1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、江戸開城、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

  • 小泉信吉、大阪舎密学校教授に。

1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校大学と改称。昌平学校大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校大学東校(だいがくとうこう)と改称。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1874(明治7)年10月 - 1876(明治9)年 中上川彦次郎(21-23歳)福澤諭吉の援助により、英国ロンドン留学。小泉信吉と共に下宿。海外調査のためロンドンに滞在していた元老院議官・井上馨の知遇を得る。

  • 1876(明治9)年 小泉信吉(28歳)、紀州徳川家の援助を受け、英国ロンドンに留学。中上川彦次郎と共に下宿。海外調査のためロンドンに滞在していた井上馨の知遇を得る。

  • 1878(明治11)年 小泉信吉(30歳)、留学より帰国。井上馨に抜擢され、大蔵省奏任御用掛に。英国における生命保険事業について研究。

  • 1878(明治11)年 中上川彦次郎(25歳)、英国より帰国後、工部卿・井上馨に誘われ、工部省入省。井上馨の秘書官に。

  • 1879(明治12)年 小泉信吉(31歳)、横浜正金銀行が設立されると、副頭取に。

  • 1879(明治12)年 矢野龍渓(29歳)福澤諭吉の推薦にて、牛場卓蔵・犬養毅・尾崎行雄と共に官吏として政府に送り込まれる。統計院太政官から内務権大書記官を経て、大蔵省入省。大蔵書記官、次いで会計検査局員に。従六位に叙せられる。

  • 1880(明治13)年2月28日 大隈重信(43歳)、参議の各省卿兼任が解かれる。大蔵卿の兼務を解かれ、会計担当参議に。大蔵卿後任に佐野常民を任命、財政に対する影響力を保とうとするも、佐野常民が外債募集案に反対、財務掌握が終焉を迎える。この頃より、伊藤博文・井上馨から冷眼視されるように。

  • 1880(明治13)年 福澤諭吉(46歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、慶應義塾出身者を中心に、交詢社創立。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。福澤諭吉を会長に、大隈重信・鍋島直大・後藤象二郎をはじめ華族・官僚・学者・地主・商工業者など参加。

  • 1880(明治13)年 小泉信吉(32歳)、実業家社交クラブ・交詢社の設立発起人に。

  • 矢野龍渓、私擬憲法が議論され始めると、交詢社創設に加わる。常議員に。

  • 1880(明治13)年 小泉信吉(32歳)、大蔵省に戻る。奏任御用掛、主税官を歴任。

  • 1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

  • 小泉信吉福澤諭吉より伊藤博文・井上馨の参議から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けられる。信頼厚く、「能く慶應義塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物」と評される。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

  • 慶應義塾仮憲法』、塾長の選任について、「一、理事委員の協議を以て、現任教員中より一名を選び、之を慶應義塾々長とす。」・「一、教員、役員を定むるは、社頭、塾長の協議に任ず可し。」と定める。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

  • 1881(明治14)年 福澤諭吉(47歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。

  • 1882(明治15)年3月1日​ 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」

  • 1889(明治22)年8月 福澤諭吉(55歳)、『慶應義塾規約』制定。評議員が選ばれることになり、10月に第1期第1回評議会開催。当規約による塾運用が今日まで続いている。

  • 1890(明治23)年1月 小泉信吉(38歳)、慶應義塾大学部を創設。文学科・理財科・法律科の3科設置。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、慶應義塾塾長を短期辞任に追い込まれる。

  • 1890(明治23)年 小泉信吉(42歳)、日本銀行取締役に。

  • 1892(明治25)年 小泉信吉(44歳)、横浜正金銀行本店支配人に。​

  • 1894(明治27)年12月8日 小泉信吉(46歳)、死去。享年46歳。

出身校

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

 

参考情報

参考文献・書籍

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