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ダイガクコトハジメ - 古賀謹一郎

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古賀謹一郎

こがきんいちろう

1816(文化13)年12月29日(旧暦・11月11日) - 1884(明治17)年10月31日

儒官、藩書調所東京大学の源流)創立・初代頭取

「古賀謹一郎」に関する書籍 [外部]

  • 1816(文化13)年12月29日(旧暦・11月11日) 古賀謹一郎(1歳)、江戸・昌平坂学問所(昌平黌)官舎にて、儒者古賀侗庵と鈴木松との間に生まれる。祖父は、「寛政の三博士」と称される儒者・古賀精里。儒者の家系に生まれ、幼い頃から漢籍・経典に精通。

  • 1836(天保7)年 古賀謹一郎(21歳)、江戸幕府出仕、大番役に。

  • 1841(天保12)年 古賀謹一郎(26歳)、書院番に。父・古賀侗庵より家塾・久敬舎を引き継ぐ。

1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令

漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。

翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。

  • 1849(嘉永2)年 古賀謹一郎(34歳)、儒学者でありながらいち早く洋学の必要性を感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋事情を習得。アメリカからの漂流者・次郎吉から欧米の事情を取材、『蕃談』著作。書写本にて流布。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。

  • 1853(嘉永6)年 古賀謹一郎(38歳)、ロシアから派遣されたプチャーチン艦隊の来航に際し、異国応接掛に。目付・筒井政憲、川路聖謨に随行。長崎でロシア使節と交渉。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 古賀謹一郎(39歳)、ロシア艦隊が再来日。伊豆下田で交渉、日露和親条約の締結に至る。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 古賀謹一郎(39歳)、従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱く。度々、老中・阿部正弘に対し建白書を提出。洋学所東京大学の源流)設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求め、阿部正弘の目に留まる。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 堀達之助(32歳)、米国東インド艦隊の再来航時にも活躍、米国側からも好評価を受ける。日米和親条約の翻訳にも関与。締結後、下田詰めに。下田滞在時にドイツ商人リュードルフが、ドイツ(プロイセン、オーストリアおよびドイツ関税同盟諸国)も米英露と同様の条約を締結したい旨を要求。書簡を幕閣に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ、入牢処分に。この事件は冤罪と言われる。獄中、吉田松陰と文通。

  • 1855(安政2)年1月18日 勝海舟(33歳)、目付兼海防掛・大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられる。

  • 1855(安政2)年8月30日 古賀謹一郎(40歳)、黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充、洋学所創立。老中・阿部正弘より直に、頭取を任じられる。

  • 1855(安政2)年 安政の大地震、洋学所が全壊消失。

​1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令

新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。

  • 蕃書調所にて、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1857(安政4)年 西周(29歳)蕃書調所の教授並手伝に。津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。

  • 1858(安政5)年、蕃書調所への入学について、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。

  • 1859(安政6)年 古賀謹一郎(44歳)、入獄中の堀達之助の才能を惜しみ、便宜を図って出獄させる。日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせる。 

  • 1860(安政7/万延元)年6月24日 勝海舟(38歳)、アメリカより帰国。蕃書調所東京大学の源流)頭取助に異動。天守番頭過人に。海軍から切り離された為、これを左遷・追放と受け取る。

  • 1860(安政7/万延元)年 堀達之助(38歳)蕃書調所筆記方兼務。外国新聞の翻訳作業に従事。『官板バタビヤ新聞』発行、日本初の新聞に。

  • 1860(安政7/万延元)年12月 吉田賢輔(23歳)蕃書調所筆記方出仕に。取締兼任。蘭英書を翻訳。海外の新聞を口訳、筆記方が筆記した後に出版。日本における新聞の始まりと言われる。

  • 1860(安政7/万延元)年 加藤弘之(25歳)蕃書調所教授手伝に。西洋文明の本質は兵学・武備よりも政体にあるとし、政治学に転じる。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

  • 1862(文久2)年 古賀謹一郎(47歳)、御留守居番に就任。同時に、蕃書調所頭取を解任される。原因は不明。以後4年間失職、不遇の内に過ごす。

  • 1866(慶応2)年 古賀謹一郎(51歳)、製鉄所奉行として復職。

  • 1867(慶応3)年 古賀謹一郎(52歳)、目付に。筑後守を補任。江華島を巡るフランスと李氏朝鮮の紛争の仲介任務を託されるも、幕末の混迷により未遂に終わる。​

  • 1867(慶応3)年 古賀謹一郎(52歳)、緒方洪庵の墓碑銘を記す。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1867(慶応3)年11月 古賀謹一郎(52歳)、大政奉還の直後、滝川具挙らと共に上京の命を受ける。

 

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止。三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収

明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1869(明治2)年6月15日、明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学(皇学)・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置づけたことは、漢学・儒学を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。漢学派に強い不満を抱かせる結果となり、国学派と漢学派の間で激しい抗争に発展。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 古賀謹一郎、大学校教授として明治新政府から招聘されるも、幕臣としての節を守り拒否。徳川家の駿府転封に伴い、静岡移住。

  • 1871(明治4)年 中村正直(40歳)、「天は自ら助くる者を助く」。イギリスの著述家S.スマイルズ『自助論 Self-Help (1859)』翻訳。明治維新後の文明開化の風潮の中、封建思想打破と共に近代的人間の確立を目的に『西国立志編』刊行。その反響は大きく、福澤諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ二大啓蒙書に。総発行部数100万部以上とされ、明治期を通して広く読まれる。

  • 古賀謹一郎、中村敬宇(正直)と漢詩の応酬を行うなど親交を深める。明治初期のベストセラー『西国立志編』に序文を寄せる。

  • 古賀謹一郎、リンネの植物学書などの洋書をまとめた『蕈説』著作。

  • 1873(明治6)年 古賀謹一郎(58歳)、東京に戻る。

  • 1884(明治17)年10月31日 古賀謹一郎(69歳)、死去。享年69歳。吉田賢輔が枕元で最後を看取る。

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