ダイガクコトハジメ - 古賀穀堂
出身校
-
関連する学校・組織(前史)
-
明善堂
-
佐賀藩校・医学寮
関連する学校・組織(現代)
-
関連する教育者
-
亀井昭陽
-
頼山陽
参考情報
-
参考文献・書籍
-
古賀穀堂
こがこくどう
1816(文化13)年1月3日(旧暦・12月5日) - 1884(明治17)年10月25日(旧暦・9月16日)
朱子学者、佐賀藩年寄相談役、明善堂設置、佐賀藩校・弘道館(学館)教授、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)側頭
-
1781(安永10/天明元)年、佐賀藩第8代藩主・鍋島治茂、儒学者・古賀精里に命じ、佐賀城に近い松原小路に佐賀藩校・弘道館(学館)設立。水戸藩校・出石藩校の弘道館と並び、「天下三弘道館」と称される。
-
1781(安永10/天明元)年 古賀精里(32歳)、佐賀に帰藩、藩主・鍋島治茂に仕える。主命により、佐賀城に近い松原小路に佐賀藩校・弘道館(学館)創立。教授に。水戸藩・出石藩(但馬国)の藩校・弘道館と並び称され、「天下三弘道館」と呼ばれる。幕末から明治維新にかけて活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平(平胤雄)、島義勇ら多数の英傑を輩出。
-
古賀精里、闇斎朱子学の教説に基づき、学問思想の統制を図る。徂徠学を排斥。
-
1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)、懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。
-
中井竹山、大阪の学問所・懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)第4代学主として、「寛政の三博士」と呼ばれる柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里と親交。江戸幕府老中・松平定信が進める寛政の改革に際し、相互に影響を与える。
1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁
江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学が不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の威信を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。
林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。
朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。
-
1791(寛政3)年 尾藤二洲(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。
-
1796(寛政8)年 古賀精里(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。
1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立
学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲・古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。
-
1797(寛政9)年 古賀穀堂(20歳)、幕府より父・古賀精里が招聘を受けて昌平坂学問所(昌平黌)の学官に任じられると、その後を追いかけて江戸に。父の下で学び、柴野栗山・尾藤二洲からも教えを受ける。
-
1799(寛政11)年、長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成。敷地面積は1万6千坪余りに。大成殿も水戸孔子廟にならい、創建時2.5倍規模の黒塗りの建物に改められる。
-
1806(文化3)年 古賀穀堂(29歳)、佐賀に帰藩。佐賀藩校・弘道館の教授に任じられる。佐賀藩第9代藩主・鍋島斉直に意見書『学政管見』提出。「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」など提言、教育の重要性を訴えるのみならず、学問に励まない藩士・僧侶の処罰、儒学以外の医学・蘭学の振興の必要性を訴える。
-
1815(文化12)年1月16日(旧暦・12月7日) 鍋島直正(鍋島閑叟)(1歳)、肥前佐賀藩に第9代藩主・鍋島斉直と池田治道の娘・幸の十七男として生まれる。
-
1817(文化14)年6月17日(旧暦・5月3日) 古賀精里(68歳)、死去。享年68歳。後年、従四位を追贈される。
-
1819(文政2)年 古賀穀堂(42歳)、佐賀藩世子・貞丸(後の鍋島正直)の側頭に。江戸において世子教育にあたる。鍋島直正が佐賀藩に西洋技術を積極的に導入する素養を育む。
-
1823(文政6)年 古賀穀堂(46歳)、江戸詰藩士の教育機関として、学問所・明善堂設置。
-
1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。
-
1830(文政13/天保元)年 古賀穀堂(53歳)、鍋島直正(鍋島閑叟)が佐賀藩第10代藩主を継ぐと、年寄相談役に任じられる。佐賀に帰藩。
-
1830(文政13/天保元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、佐賀藩校・弘道館(学館)の充実・拡充を指示。優秀な人材を育成し登用するなど、教育改革を断行。
-
1831(天保2)年 古賀穀堂(54歳)、鍋島直正(鍋島閑叟)に意見書『済急封事』提出。藩政改革の基本を「人才の登用」「勤倹の奨励」「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」と論じる。『葉隠』を崇拝し、その他の学問を軽視する藩内の風潮を批判。
-
1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。
-
鍋島直正(鍋島閑叟)、古賀穀堂の『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。
-
1835(天保6)年 古賀穀堂(58歳)、保守派の抵抗により藩政改革は困難を極めたが、佐賀城火災をきっかけに改革が急速に進む。医学館医学寮(後に好生館)設立、上級家臣師弟の佐賀藩校・弘道館出仕義務など教育改革を実行。改革半ばに病に倒れる。
-
古賀穀堂、父・古賀精里を尊敬すること厚く、午前4時に起床、勉学に打ち込む。一方、父が排斥した朱子学以外の人士とも積極的に交流。陽明学者・頼山陽や徂徠学派・亀井昭陽とも親交。「文政の三太郎」と呼ばれる。
-
古賀穀堂、『琴鶴堂詩鈔』・『穀堂遺稿抄』・『穀堂文集』など著作。
-
1836(天保7)年10月25日(旧暦・9月16日) 古賀穀堂(59歳)、死去。享年59歳。鍋島直正(鍋島閑叟)、「父子親の如し」と孝心を表し、その恩を「海山の如し」と回顧。人格・思想形成に深く影響を与えられる。
-
1840(天保11)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(26歳)、佐賀藩校・弘道館を北堀端に移転拡充、蒙養舎設立。15歳以下の藩士子弟を教育。古賀穀堂が『学政管見』で訴えた教育政策はほぼそのまま実施されるかたちに。170石だった教育予算は、1,000石に加増される。
このページをシェアする